第21話十七、神武東征の神話

十七、神武東征の神話


●神武天皇の東征

神倭伊波毗古命(かむやいわれびこみこと)は、同母の兄の五瀬命と二人で高千穂の宮に来られて、兄の五瀬命に相談し「どこの問いを拠り所すべきか、天下の政治を平穏に執りましょうぞ。もっと東の方に行きたいものです」と仰せられた。

日向から出発されて、筑紫の国に着かれた。途中豊国の宇沙(うさ)に着かれた時、その国の人で名は宇沙都比古(うさつひこ)・宇沙都比売の二人が足一騰宮(あしひとつあがりみや)を造り御馳走を差し上げた。宇沙の地に移って、筑紫の岡田宮に一年ほど滞在された。

さらに筑紫の国から上に向かわれ、安芸の国の多祁理宮に七年滞在、さらに安芸国から移り上がって、吉備国の高島宮に八年滞在された。

さらに吉備国から上がって行く途中に、亀の甲羅に乗って、釣りをしながら鳥が飛び翔けるようにやって来る人に、速吸の海峡で出遭った。

その人を呼び寄せて「お前は誰だ」と問いかけた。

答えて「自分は国つ神です」と申した。

「お前は海路に通じているか」の問いに、

答えて「詳しく知っております」と答えた。

「お供して仕えしないか」答えて

「お仕え申し上げます」と答えた。

そこで船棹を差し出渡し、その人を船に引き入れた。

その人に名を与えて槁根都日子と名付けた。


五瀬命(いつせみこと)の死

東征はその国から更に上がって行くときに、難波の渡りを通過して、白肩の入り江に泊まられた。この時に大和の登美能那賀湏泥毗古(とみのうながすねびこ)が軍勢を起こして、迎え待ち構えていた。そこでイワビコ命一行は御船に入れてある楯を取り出し、船から下り立たれた。その故にその場所の地名は楯津(たてつ)と言う。

日下で登美毗古(とみびこ)と戦われた時に、五瀬命は射られた矢で深い傷を負われた。

そこで言われるに「我々、日の神の子孫、日に向かって戦うは不吉、だからこのように深傷を負ってしまった。向きを変えて廻って、日を背に戦おう」と誓い南の方に迂回、血沼海で傷を洗いになった。更に航行し紀伊国の男の港に着かれた。

深手を負った五瀬命は「こんな傷で死んでたまるか」と悔し嘆き怒り亡くなった。

その地を男水門と言う。御陵は近くの籠山に葬られた。●



☆神武東征の神話

神武天皇(イワレビコ)は兄弟で兄のイッセノと共に東に向かっていくことになった。

筑紫の地から途中豊国の宇沙に着かれた。今の大分県に着かれ、宇沙都比古ウサツコヒ・宇沙都比売ウサツヒメの二人が足一謄宮を造って食事をもてなした。

そこから移動し筑紫の岡田の宮に一年間滞在され、そこから上に安芸の国の多祁理宮に七年間滞在され、吉備の国に移られて、高島宮の八年間滞在された。

吉備の国から上がって行く途中に亀の甲羅に乗り釣りをする者が速吸の海峡で出遭った。

そこで呼び寄せて「お前は誰かと問われた」すると「国つ神と答えた。」そこでイワレビコは「お前はこの航路を知っているか」よく知っていると伝えてお仕えしたいと申し出をしてきた。

そこで船棹を渡し、船の中に引き入れた。

槁根津日子(そおねつひこ)と名付けられた。

浪速までの途中で二人の国津神が案内役を引き受けた。 

日下で登美毗古(登美能那賀湏泥毗古)と五瀬命が戦われた時に射られた矢で深い傷を受けた。そこで「我々は日の神の子孫として、日に向かって戦うことは不吉である。だから賤しい奴から深傷を被ったのだ。

もはや今は向きを変えようと遠廻りして、日を背中にして敵と戦おう。」と誓った。南の方に巡って行くときに血沼海(和泉国)を廻り、深手を御手の血を洗われた。

そこでその地を血沼海と言うことになった。さらに進まれて、紀伊の国の男の港に着いて,五瀬命は「賤しい奴の為に手傷を負って死ぬか」と仰せになって、怒りと嘆いて亡くなられた。そしてその港に名付けて、男水門と言う。御陵は紀伊国が御山にある。



☆東征と言う重要な場面を、日向から瀬戸内海を簡略な記述で述べられている。難波までの行程で、宇沙は現在の大分県宇佐市辺りを指しているのではと思われている。

地寧から該当するものに、宇沙と宇佐は似ている。次の岡田宮は現在の福岡県芦屋町。次の速吸門は現在の明石海峡辺り。多祁理宮は現在の広島県府中市付近。

高島宮は現在の岡山県の玉野市付近。血沼海は現在の泉佐野市付近。男之水門は現在の泉南市付近。白肩に津は現在の東大阪市付近と思われる。

◇神倭伊波礼毘古命・書記では「神日本磐余余彦尊」と表わす。神武天皇の和風諡号。

◇岡田宮・福岡県遠賀川の河口付近と思われる。

◇多祁理宮・広島県安芸郡府中町辺りと思われる。

◇吉備の高島宮・岡山県玉野市の宮の浦辺りと思われる。

◇速吸門(はやすひこと)・豊予海峡を指す。

◇竈山・和歌山県和田に竈山神社がある。

◇(私の住む東大阪には実際、楯津の地名があって、日下と言う地名もあって、地理的に大阪湾を上陸したイワレビコ命一行は奈良、大阪の境界の生駒の向こうのに向かったと思われる)

今では日下(くさか)の蓼津(たてつ)と読む。

☆火遠理命は高千穂の宮で五百八十年間過ごされて、所が伊波礼毗古命の東征に要した行程は岡田宮で一年間、多祁理宮で七年間、高島宮で八年間であった。イワレビコ命の記述は難波から熊野、大和への征伐で進軍する様子を多く語られている。

イワレビコ一行は苦戦し入られて、大和の豪族ナガスネビコが迎え撃って、イツセは負傷を負い、日に向かって進むことは不吉であると、一時退却をする。

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