第8話「逆転に次ぐ逆転」
そして、
「ルシファー、なんか話が通じなさそうだね。とりあえず、あとは走りで語ろう」
ボンネットの上のルシファーは、
彼女が再び消えると、イオタは高回転域を維持したままでゆるい
右に左にと、ザベッジのカローラがヘッドライトを揺さぶってくる。
先行する余裕が今、追われる恐怖と不安に置き換わりつつあった。
しかも、ここから先は馬力がものを言うヒルクライムである。
「マスター、もっとトルクを……少しでも力をタイヤへ」
「ありがとう、ルシファー。大丈夫さ、負けたって命までもは取られない。それに……変な話だけど、少し高揚感? かな? 興奮してるんだ」
「まあ……
だが、辛うじて背後のカローラを抑えてるとはいえ、状況は最悪だ。
FF駆動であるイオタのCR-Zは、当然だが車体の前部に重さが集中している。全体的に軽量なライトウェイトスポーツだが、その前後重量比はお世辞にもいいとは言えないのだ。
そして、地を
剣と魔法の世界になっても、物理法則は依然として地球上の全てを支配しているのだ。
坂を登る。
当然、荷重は上から下へ……車体のリアへと集中する。
リアが沈む分、フロントが浮く。
そう、唯一パワーを地面へ伝える前輪が、
FF駆動の
イオタは苦心して、高速コーナーを右に左にと処理してゆく。
コーナーのインへと、車体を擦り付けるように加速し続ける。
「おお、敬愛するルシファー!
ベルゼバブの声だけが、やたらはっきりと聞こえる。
互いを威嚇するような
極限の集中力を維持するイオタは、ただ前だけを見て走る。
だが、その時不意に衝撃が襲った。
細い糸の上を走るような、繊細かつ大胆なイオタのドライビングが乱れる。
「マスター!」
「くっ、リアが……後輪が滑るっ!」
――接触。
カローラのバンパーが、僅かにCR-Zのリアを
衝突と呼ぶには、あまりにも軽いタッチ。だが、コーナーリング中の
イオタの信条は、鋭いコーナーワークでのグリップ走行である。
ドリフトはしない、させようと思ったこともない。
だが、FF駆動のCR-Zはズルズルと後輪を僅かに流してしまう。
慣性ドリフトの状態で、
そんな状態で、背後から押されると……当然、滑る後輪が滑り過ぎる。
「ヒャハハァ! トロいからぶつかっちまったぜ! 悪ぃな、小僧!」
CR-Zがコーナーの外側へと押し出される。
痛恨のアンダーステアで、イオタはスピンを防ぐべくハンドルを逆へ切る。バケットシートに沈めた全身が、路面の状況を拾いながら情報を伝えてきた。
必死であがきながらの、減速……アクセルを抜くしかない。
ザベッジの声が聴こえたような気がしたが、それさえイオタは意識しない。
そして、コーナーを立ち上がった時には攻守が逆転している。
「やられた……なるほど、デルタの兄貴が言ってたような奴だっけか」
「マスター、この先は短い直線ですね。……少し、離されます」
「しょうがないさ、あっちは4WD……四輪全てのトラクションが使えるんだ」
だが、車間距離が開いたこの状態を、迷わずイオタは自分の回復に使った。一度深呼吸して、ハンドルを握り直す。冷静を自分に言い聞かせて、平常心で怒りを胸の奥へと沈めた。
そして、全開。
ルシファーが絞り出すパワーを解放する。
次の右コーナーでは、すぐにカローラの大きな尻が目の前に迫った。
だが、インを占められているため、抜くことは不可能だ。勿論、アウト側から大外を回るには馬力が足りない。そして、少ない馬力が登りの路面に逃げ出している。
何度も何度も、コーナーインで追いつき、立ち上がりで離される局面が続いた。
諦めずに喰らいつくイオタは、ザベッジの
ベルゼバブが叫んだのはそんなバトルの終盤戦だった。
「堕天使ルシファー! 我が愛しの君……この世の美の結晶。貴女こそ、我が子の母に相応しいのですよ。そう、我が子達の!」
「……セクハラされてるよ、ルシファー」
「聞かないでくだい、マスター。言わないで……は、恥ずかしいです」
その時だった。
不意にカローラから、黒い
それは、まるで意思ある生き物のようにこちらへ向かってくる。
ルシファーが悲鳴をあげて初めて、イオタはこの世界のバトルを思い出した。速さは当然、強さも求められる。そして、
黒い靄の正体……それは、数え切れぬ羽虫、
あっという間にフロントガラスが黒一色に塗り潰される。
「視界が……なるほど、確かベルゼバブっていうのは」
「ベルゼバブ、その意味は『蝿の王』ですわ。七つの大罪、暴食を
「君もね、ルシファー。まずは平常心さ、これだよ。で……だ」
「はい、マスター。
小さく頷くイオタは、アクセルを大きく踏み込む。
強いて言えば、愛車を汚された気分で、とても不愉快だ。ワイパーをと思ったが、あとで掃除することを考えるとうんざりする。それに、イオタは虫一匹、害虫でも殺したくはない。
敵と戦い倒す勇者にはなりたくなかった。
イオタはこの時代では、
好きな車を存分に乗り回せる、これくらいの役得がないとやってられない、その程度の普通の少年なのである。
「カローラのテールライトが見えてる。ブレーキランプもね。つまり、そこまで離されてはいない」
「ええ……ですがマスター」
「光の揺れ方で、右か左かもわかる。カローラのラインをなぞってくけど……それだけじゃ、勝てない。出口は近いし、前に出なきゃ」
「でしたら、私の力が必要ですね? 車輪を回す
「不本意ながらね」
ルシファーの力は、できれば純粋な魔力以外を使いたくない。
彼女は、教会の聖典にある
かつて神の軍勢と五角以上に戦った、
翼の半分を失った今、彼女は多くの仲間とともに悪魔として記録されているのだ。
だが、力の大半を失った今でも、ルシファーは強力な魔力を持っている。
「千里眼……この先、最終コーナーはRのきついS字ですわ。右からの左、出口はかなりタイトです」
「ん、ならザベッジのカローラは」
「はい。マスターの考える通り、最初の右コーナーを捨てると思いますわ」
ちょっとしたS字ならば、イオタは最短コースを直線に近いラインで押し通る。それだけの機敏な走りが、CR-Zにはできるのだ。だが、よりSの字に近いコーナーでは、やはり荷重移動を意識したコーナリングが試される。
「……行きましょう、マスター。さあ、どいて……虫達よ、我が同胞の子達よ。父たる元へ帰りて、羽根を休めなさい!」
風が舞い上がって、あっという間に蝿達が霧散した。
久しぶりにクリアになった視界に、ルシファーの姿が見える。その向こう側でもう、カローラはS字へと突入していた。しっかりと減速して、大きくパワースライド……わざと極端な荷重移動を起こして、その反動を使って次の左コーナーをドリフトで流す狙いだ。
そのフェイントモーションに、迷わずイオタは突っ込む。
ドン! とブレーキを踏んだ時には、右コーナーの外側へ膨らむカローラをインから追い抜く。
そして、ルシファーの右の背に、黒い翼が輝く。
「おお……おお! ルシファー、愛しい我が君……美しき貴女を
「ベルゼバブ! 私を
ルシファーの、右側だけの翼が
CR-Zは、文字通り見えざる神の手によって左側へと押し出された。そのまま最終コーナー、S字の後半をインにつけて立ち上がる。逆に、振り返しでドリフトしようと滑っていたカローラは、そのラインを潰されアウトに膨らんでいった。
S字コーナーの中で互いのラインが交差し、勝敗が入れ替わる。
ズルズルと横滑りするカローラを背に、CR-Zは最後の直線を突き抜けた。
イオタはこの日、初めてルシファーに動力部である以上の仕事をさせてしまった。改めて、自分の
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