第7話「地の底へと走れ、今」

 高い天井の光は、全て銀水晶ぎんずいしょうの輝きだ。

 ヘッドライトを乱反射する光景は、まるでディスコのミラーボール。踊る男女の代わりに、そこかしこに屹立きつりつする岩が影を揺らす。

 銀水晶ノ交易洞ギンズイショウノコウエキドウは、道幅にも余裕があってなだらかに下っている。

 しかし、天然のダンジョンはイオタのCR-Zを、右に左にと揺さぶり続けていた。


「後ろは……引き離したな。ほんのちょっとだけ」


 ちらりとイオタは、バックミラーに視線を走らせる。

 すでにもう、過ぎ去ったコーナーの向こうへと、ザベッジのカローラは置き去りだ。だが、油断せずにイオタはアクセルを開けてゆく。

 後半は登りになって、4WD駆動のカローラが有利だ。

 カローラと言えばファミリーカーの代名詞だが、背後で吠えすさぶハッチバックは別物……ラリーで戦い、荒野やとうげを本気で走るレースカーなのである。

 どうしても背後を気にしてしまう。

 ラリーのワンシーンのように、パワースライドで滑る車体が遠ざかってゆく。

 やや集中力が乱れかけたが、カーナビに映る微笑びしょうがイオタをたしなめてくれた。


「マスター、今は運転に集中を……私も、持てる力の全てを絞り出します」

「ん、無茶はしないで、ルシファー。それに、パワーは十分出てる。これ以上は、タイヤが路面に力を伝えられないよ。このままでいいんだ、これがいい」

「はい、マスター」


 どこかはかなげな笑顔で、ルシファーは目を細める。

 彼女はこのCR-Zの縁陣エンジンであり、その術式によって召喚された魔力供給源だ。誰もが知る、最も有名な堕天使だてんし……教会の聖典に記された、天にそむきし明けの明星みょうじょうである。

 彼女がCR-Zに宿った、それは偶然ではない。

 縁陣エンジンは、その名の通り人のえにしをもって幻獣や悪魔を呼ぶ魔法陣だ。

 ルシファーは、今のイオタと同じ境遇を永遠に生きる存在なのだった。


「ルシファー、あの人の……ザベッジさんの縁陣エンジンを見たかい?」

「ええ。ベルゼバブは、魔界に君臨する強力な魔王です」

「コンパクトながら高剛性のボディに、最新の4WDシステムとベルゼバブ……どう? 勝てそう?」

「あら、マスターは勝てる戦いでしか、走らないのですか?」


 時々、ルシファーは姉のような顔を見せる。

 今も、少し驚いたような顔をしてまなじりを下げていた。

 この異世界とも言える遠未来えんみらいに、突然イオタは放り出された。王国は勇者としてぐうすると言ってくれたが、剣と魔法の戦いはピンとこなかった。勿論もちろん、死ぬのが怖かったのもある。でも、それ以上に情熱が沸かなかった。

 同じ境遇の転移者は皆、勇者として今も魔王と戦っている。

 そんな中、イオタは元の時代に帰るための儀式、その触媒の探索に日々を費やしていた。彼を跳ね飛ばしたトラックが見つかれば、その一部でも手に入れば、転移の儀式は飛躍的に成功率が跳ね上がるのだ。


「……ねえ、ルシファー」

「ふふ、不安になるといつもおしゃべりですね、マスター」

「駄目かい?」

「いいえ。嫌でもないですし……なんでしょうか」


 ほぼノーブレーキで、イオタは連なる高速コーナーを処理してゆく。

 一見してツイスティックに見えても、彼とルシファーにとっては直線に等しい。繊細せんさいなアクセルワークだけで、一本の糸を通すようにイオタは走った。

 、というテクニックだ。

 もともと、FF駆動であるCR-Zはフロント部分が重い。全体的に軽量なライトウェイトスポーツカーだが、その駆動部の全てがフロントに集中しているのだ。前輪で走って車体を牽引けんいんし、同じ前輪でかじを切って曲がる。全てのシステムは、ボンネットの下に集中しているのだ。

 ゆえに、アクセルをわずかに緩めるだけでも、前面にダウンフォースが発生する。

 僅かな減速でも、前に大きな荷重移動が発生するのだ。

 そして、前輪は上から押されて接地力せっちりょくが増す。

 この原理を使ってのグリップ走行、それがタックインである。


「ルシファーは、さ……帰りたいかい? 天国に」

「そう、ですね……しゅが許してくださるなら、それもいいでしょう」

「神様はおいといて、ルシファーがさ」

「……天国は、それはもう素晴らしい場所なんです」


 時折ときおり、ルシファーは話してくれる。

 彼女が追い出された楽園、天上の楽土のことを色々と。

 そこには、生前の偉業や功徳、清く正しい生き方を貫いた人間達が招かれているのだ。音楽家が時代を超えて共作をかなで、科学者は経済や国策から開放されて研究に没頭する……誰もが自由で、そしてイキイキとしているそうだ。

 だが、ルシファーはその全てを自分で捨てた。

 天国に住まう天使の、実に三分の一もの人数を率いて反乱を起こしたのだ。

 その理由はまだ、彼女は話してくれない。

 結果的には敗北し、彼女は黒い比翼ひよくの堕天使として地上にちたのである。


「私はでも、マスターと一緒に今はいたいです。そして、マスターはまだ天国に召されるべきではありませんわ」

「そりゃどうも」

「天国は……選ばれし者達の楽園。ですが、私はむしろ……選ばれなかった者達をこそ、救済したかったのです」

「俺はまあ、最初は地獄に落とされた気分だったよ。この時代はあまりにも、ワイルドで大雑把で、そしてエネルギッシュであれと迫ってくる。都会っ子には辛いかな」


 そう、二人は共に帰れぬ身……つのるばかりの望郷ぼうきょうの念がある。

 縁陣エンジンはそうした二人を結びつけた。発掘された再醒遺物リヴァイエを修復しながら、因縁あるトラックを探すだけの生活。その中で、自由を得た自動車は龍となってせる。全ての道は今、法の及ばぬ荒野の中にあるのだ。

 街道にはモンスターも出るし、天候や災害で路面も荒れている。

 それでも、龍走騎ドラグーンはスピードと利便性で重宝されているのだ。


「ルシファー、君が来てくれて、このCR-Zに命が吹き込まれた……思い出の一台は今、俺の手でこうして走ってる」

「なら、負けるわけにはいきませんわ。そうでしょう? マスター」

「ああ」


 まるで泳ぐように、イオタのドライビングでCR-Zが走る。

 満天の星空にも似た頭上の銀水晶は、その光で色濃く影を闇に沈めていた。どのコーナーも気が抜けないが、ザベッジのギルドであるヘルクライヤーズが、行き来する馬車等を止めてくれている。

 対向車はこない。

 全開走行はさらに鋭くはやく、冷たい洞窟の空気を切り裂いてゆく。

 だが、不意にアクシデントが二人を襲った。


「っ! マスター、前に!」

「チィ! こういうことっ、まれに! よく、ある!」


 急ハンドルを切って、咄嗟とっさにイオタは車体を滑らせた。

 スピン一歩手前の危うい状態から、カウンターを当てて路肩を走り抜ける。

 道の真中に、モンスターがいたのだ。

 それも、子供を連れた獣人だった。僅かな一瞬で、粗末なボロ着と手にしたおのが見えた。街道にもよく出没するモンスター、ウェアウルフの親子連れだ。咄嗟に避けたが、人語ならざる絶叫が叫ばれる。

 予定外の失速だったが、どうにか接触は避けられたようだ。

 イオタはクラッチを踏みながら、高速でシフトダウン。

 ギアを二速に落として再加速……その時、背後で悲鳴が響いた。

 衝撃音と同時に、高笑いが響く。


つかまえましたぞ、掴まえました……そこですな! 我がうるわしのルシファー!」


 すぐ背後に、ザベッジのカローラが追いついてきていた。

 その差は、龍走騎ドラグーン一台分といったところだ。

 そして、カローラのボンネットに仁王立ちで、黒い悪魔が笑っている。酷くせて骨ばったおり、黒い肉体は肉食獣の毛皮を着ている。翼はなく、くぼんだ目だけが爛々らんらんと輝いていた。

 ベルゼバブの視線は、バックミラー越しにイオタを見詰めてくる。

 呼吸が苦しくなって、思わずイオタは胸に手を当て自分を落ち着かせた。


「ベルゼバブ……マスター、このまま行ってください。私が少し話してみます。あのウェアウルフの親子は」

「あのカローラはラリーカーだ……当然、大自然の中を走る前提で設計されている。ダメージはむしろ……くっ、モンスターとはいえ、生き物をいたんだぞ!」


 CR-Zのボンネットにも、ルシファーがふわりと浮かび上がった。

 右羽根だけの比翼ひよくで、彼女はゆるゆると風に着衣をたなびかせる。いつみても美しい姿は、その美しさを隠しきれぬ薄布にドキリとさせられた。

 ルシファーはゆっくりと、背後のカローラを振り返った。


「ベルゼバブ、いえ……地の神バール。ソロモン王が第一の悪魔として用いたあなたが、どうしてこのような暴挙を」

「おお! おお……その麗しき姿、まさしく我が愛しのルシファー。御機嫌ごきげんよう、いかがお過ごしですかな?」

「質問しているのは私です、バール。……やはり、あの時あなたを誘って巻き込んだこと、恨んでいるのでしょうね」

「いえいえ、ルシファー! 我が明けの明星、唯一無二ゆいいつむに綺羅星きらぼしよ! 血とはらわたに汚れて戦う、貴女あなたのなんと美しきことか……忘れませぬ、忘れませぬぞ!」


 駄目だ、会話が成立しない。

 そして、イオタはさらに苦境に立たされる。

 下りの前半部分が、もうすぐ終わる……ここからは、川底の中間地点を抜けて上りなのだ。それは僅かな勾配だが、確実にCR-Zに不利な状況である。

 一般的にバトルは、下りのダウンヒルと上りのヒルクライムに分けられる。

 ダウンヒルは、パワー差が出にくく、軽い龍走騎ドラグーンが有利だ。

 逆に、ヒルクライムはパワーとパワーの真っ向勝負なのである。


「ごめんなさい、マスター……言葉は通じるのですが、会話が成立しません。……彼は、私が主に背いて戦を起こした時、共に戦った土着の神です。それが今は、魔王に堕とされてしまった」

「神様と教会のやりそうなことさ。戦争に負けるって、そういうこと……勝者がその後を全て決めるからね」

「それより、上りが始まります。私は魔力の抽出を……限界まで力を振り絞ります!」

「いつも通りでいいよ、ルシファー! ここからが正念場だけど、さ」


 そう、今にも横に並んできそうな勢いで、背後のカローラが右に左にと揺れている。その気配を背中で感じながら、はっきりとイオタは言葉を切った。


「正念場だからこそ、なんだろう……嬉しい、のかな。楽しみたいんだ、俺は変だな」

「いえ、マスター! おかしくはありません!」


 イオタは笑っていた。その笑みは、苦境の中で浮かぶ、いわゆる「もう笑うしかないよね」という諦観ていかんではない。ただ、胸の奥からこみ上げる熱が、不敵な笑顔を彼にかたどらせたのだった。

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