4.どこにいても空は同じ - 草津温泉①
江戸時代に作られた温泉番付では常に最高位の東の大関に座し、古来から多くの人々に愛されたという。
そんな草津温泉の代名詞とも言うべきスポットといえば湯畑だろう。草津の温泉街はこの湯畑を中心に広がっていると言っても過言じゃない。
湯畑は高温の源泉を
湯畑前の広場ではハーモニカのコンサートが行われていて、
「すごーい……」
「バカみたいな感想言うじゃないの」
「んな……! き、綺麗だよね! お湯が宝石みたいでさ! あれだよね、硫黄泉って言うのかな」
「草津は基本的に酸性泉だったかしら。湯畑はそこらじゅうで硫黄分が湯の花になってるけど」
漂うにおいを意識してみる。硫化水素なんかはよく『腐った卵』と例えられるけど、そんなに強烈なにおいじゃない。でも、確かに鼻に残る独特のにおいだ。
「草津って『臭い水』から来てるそうよ」
「『臭水温泉』なんて名前だったらあんまり人気でなさそう……いやでも、
「でも草津か臭水かって言われたら草津がいいでしょ」
そんな話をしながら、湯畑の周りをぐるりと回った。
湯畑を囲う柵には、『草津に歩みし百人』と称してこの地を訪れた偉人の名前がずらりと並んでいる。
「そろそろ食べるお店を決めたいけど……えるはどこで食べたい?」
「肉と魚以外ならなんでも」
「それ過半数が消えてない……?」
「消去法には便利でしょう」
私たちは宿の1階で営業しているお店に入った。窓の外には湯畑が見えるという素敵な立地。ここはうどんやそばが有名らしい。またうどんかよ、と思われるかもしれないけど、べつにうどんを頼まなければいいわけだしね。
「……またうどんなの?」
「だって美味しそうなんだもん」
……結局、注文してしまいました。ピリ辛舞茸うどん。群馬産の百日舞茸やわかめ、温泉卵を具材に取り入れ、一味唐辛子を加えたうどんだ。辛党を自認するほどではないけど、私はピリ辛とか辛口とかそういう文言に惹かれてしまうタチらしい。
対して、えるが注文したのは舞茸天のざるそば。このお店はとくにそばを推しているみたいだから、私もそっちにすればよかったかな……。ピリ辛舞茸そばとかあったらなぁ。
やってきたピリ辛舞茸うどんは、果たして美味だった。唐辛子の刺激がいいアクセントになるのは言わずもがな、温玉の黄身が麺や具材に絡んで絶妙なまろやかさをも引き出している。
本来なら旅先での食事はゆっくり談笑を楽しみながらするものかもしれないけど、今回ばかりは黙々と食べ進めてしまった。
*
発端は、私たちのそばの席に座った数人の観光客のグループだった。そのグループはよく言えばにぎやかに、悪く言えば騒がしく談笑していた。はじめはただだけだったけど、次第に外国人のアルバイトに棘のある言葉を投げかけだした。
「急に不味くなったわね」
えるは眉根を寄せて観光客のほうを横目に睨んでいた。それは
「さっさと食べて」
えるはそう促して、自分も残り少ない蕎麦を勢いよくすすった。不愉快だからさっさと店を出てしまおう、という意図だと私は思った。
「払って、先に店を出てくれる?」
ところが、えるは伝票と万札1枚を私に寄越してきた。私たちの旅では食事代はいつも個別に出している。それを今回は奢ってくれると言うんだろうか。違和感を覚えつつも、相変わらず品性に欠けるトークを繰り広げる席に刺すような視線を向けるえるに
「なにしやがる!」
そんな怒声が聞こえたのは、お釣りを受け取る直前だった。呆気にとられたような顔で声の発生源に視線を向ける店員につられて、私もそちらを見る。えるがこちらに駆け寄ってきていた。
「走って!」
えるは私の腕を掴み、私は言われるがまま、駆け出した。お釣りを受け取ってない! なんて、そんな呑気なことを言う余裕はなかった。明らかに異様な状況に、全身から冷や汗が吹きだすくらいの焦りを感じていたから。
たぶん、えるがあの観光客に向かってなにかした。その曖昧な事実だけを認識していた。
気がつけば私たちは広場のそばまで来ていた。ハーモニカのコンサートはいつの間にか終わっていた。
「える……いったい、なにしたの」
体力のない私は、さほど長い距離を走ったわけでもないのに随分と息を切らしていた。私よりも体力のないえるはそれ以上に息を切らしていて、返事が返ってくるまでに少しの間があった。
「水、かけてやった……それだけ」
ごめんなさい、と小さく呟いて、えるは歩きだす。湯畑とは逆方向に向かって。私はかける言葉を見つけられなくて、無言でその背中を追った。
灯りに満ちたきらびやかな温泉街を背に、私たちは無言でただ歩いた。
*
宿に戻ると、えるは布団に倒れ込んだ。うつ伏せになったえるの長い金髪は乱雑に散り、いつもの艶やかさがなぜだかくすんで見える。空調は効いているはずなのに、部屋の空気はどこか冷たく淀んでいる。
旅先の宿はいつも開放感に満ちているものだ。ベッドに飛び込んで、跳ねたくなるような気持ち。わかるでしょ? でも、いまは違う。足首にまとわりつくような緊張感が這いまわって、自由さとはほど遠い。
「私、お風呂入ってくるね」
この重い空気から、私は逃げることを選択した。バスタオルやら浴衣やらを抱えて、浴場で打開策を練ろうと思った。えるが返事しようとしまいと、ともかくここからは撤退だ。
ところが。
「……わたしも行く」
えるはのそりと起き上がると、私と同じく一式を抱えて部屋を出た。いまお風呂でふたりきりになんてなったりしたら、それは部屋にいるよりもよっぽど気まずいんじゃないか。とはいえ、えるを引き止める正当な理由なんてないし、私が引き返す自然な理由だってない。
小さな旅館だ。浴場に着くのもあっという間だった。敷地の都合か奥まった半地下で、うきうきするはずの温泉にすら閉塞感を覚えてしまう。たぶん、えるとの間の気まずい空気さえなければ気にならなかったんだろうけど……。
やや遅い時間だからか、浴場に人はいなかった。湯船に注ぐお湯の音だけがこだましている。
酸性の強い草津の湯は少し肌に沁みた。脱衣所に掲示されていた説明によれば、胃酸並みの強酸性らしい。もやもやした気持ちも何もかも溶かしてくれればいいのに。
「認める」
ふいに言葉が吐き出された。えるのこぼしたそれは、湯気に混じってとけていく。
「今日のわたしは機嫌がよくなかった。違う、悪かった」
肩までを湯に沈めて、長く息を吐いた。
「だから水かけたの?」
「そ。昔を思い出して腹が立ったのよ」
「昔……」
「知りたい?」
「あ、いや……」
えるの過去。そういえば、ほとんど聞いたことがなかった。
気になるかならないかで言えば、当然気になる。とはいえ、詮索されて気分のいい話ではないはずだ。私は言い淀んだけど、えるは口許だけで笑った。
「特別に教えてあげましょう。迷惑料代わりにね」
伸びをするみたいに腕を伸ばす。波紋が生まれて波紋とぶつかる。
「わたしね、嫌われ者なのよ。昔から。顔もいいし頭もいいし、家はお金持ちだし。出る杭は打たれるなんて、この国の人はよく言ったものだわ」
「自分から言うよね、えるは」
「事実だもの。海の青さや冬の寒さに怒るほうがどうかしてる」
「私はそういうの、聞いてていっそすがすがしいと思うよ」
えるのこういう態度に腹を立てる人も多いのかもしれないけど、私は好きだった。エルフィンストーン玄乃という人間の輪郭はいつも明瞭で、確かな芯がある。
「ところがそうじゃない奴もいるのよ、たくさんね。さっきの連中みたいな、出身や性別で人を見るような連中はとくに」
「ああいう人見るたびに水かけたりしてたの?」
「まさか。今日のは例外。柄にもなくカッとなっただけ。他人がなにされてたって関わったりはしなかったし。自分がされたときは水もかけたし、石も投げたし、殴る蹴るも、カッターナイフを持ち出したこともあったけど。泣いて謝るまでやめなかったし、謝っても許さなかった」
「それは……」
むちゃくちゃな奴じゃん。
「むちゃくちゃな奴でしょ」
「まあ…………うん。むちゃくちゃだよ。私なら怖くて近寄らない」
「でしょ? なにと戦ってたんだか、いまになってみるとよくわかんないけどね。さとが思ったのと同じで、だんだんみんなわたしを避けるようになったわ。高校に上がるころにはわたしの噂もすぐに広まって、入学1か月もしたらわたしに話しかける奴はいなくなったし。
それでもね、自分が間違ってるなんて全然思わなかった。だけど……」
「……だけど?」
長く息を吐く。それが形作った小さな波紋は、大きな波に呑まれてすぐにかき消えた。
「この前、中学まで一緒だった奴が同じ大学にいるって知ったの。一浪だから学年は1コ下だけど、昔の自分を知ってる奴が同じ空間にいると思ったら、それだけで嫌な感じがした。どうせなら、わたしが卒業するまで浪人してればよかったのにね」
「そういうの、ちょっとわかる。黒歴史じゃないけど、昔の自分を知られるのって恥ず――っぶわ」
顔にお湯をかけられた。口の中に酸性泉のなんとも言えない味がしみる。
「そういうのじゃない。昔のことなんて誰に知られたってだからなにって言えるもの。ただ、今と昔とで切り離されたはずののものが少しでもくっついてる感じがキモチ悪いだけ」
その言葉は少し早口で、でも明瞭だった。
「……旅行したいって言ったのも、あいつと同じ東京にいるのが嫌だったからよ」
そういえば、こっちに来てからえるはときどき空を見上げていた。いつもとなにも変わらない、ありふれた当たり前の空。
「……でも、どこにいても空は同じだった?」
「だっさいポエムみたい。でも正解」
えるは顔をしかめて、吐き捨てるように言う。
「ほんと、なんのためにこんなトコまで来たんだか」
湯けむりの中、こんこんと流れ出る湯の音だけが響いている。
違う。そう言いたくて、私は言葉を探した。
「……私は、えると一緒なら絶対楽しいと思って来たよ」
えるの顔がこちらを向く。その表情が映し出す感情はきっと複雑で、私には読みきることはできない。
だから、言いたいことを言ってしまおう。
「えるは違うかな。東京にいたくないだけなら、独りで遠くに行けばよかったんだよ。でも私を誘ってくれたんだよね? いま、えるが一緒にいるのは昔の知り合いじゃなくて、渡井紗鳥でしょう?」
言い終えると、湯の音だけが帰ってくる。
言葉を間違えたかもしれない。言い方が悪かったかもしれない。言ったこと自体が間違いだったかもしれない。不安はあとからじわじわとわき上がってわだかまる。泣きたい気分だ。
ちっ、と舌打ち。
「――っカつく!」
えるはそう叫んで湯面を叩いた。跳ねた湯が私の頬まで飛んできて伝う。
「ムカつく、ムカつく、ムカつく! ほんっとに癪に障る! さとの言う通りだわ。昔の知り合いなんて知ったことじゃない。わたしは、わたしがそうしたいからここにいるのよ! イヤな奴に左右されて動くなんて、あっていいわけがない!」
存分に温泉を滅多打ちにした手が止まる。もう一度、息が長く吐き出される。
「わたしは温泉旅行を楽しみたくてここに来たんだわ」
えるは、真っすぐ私を見つめて言った。
「さと、あなたも一緒に楽しみましょう」
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