5.こういうことかと思ったのよ - 草津温泉②

 細長く切り取られた真っ黒な夜空の下、草津の路地には旅館や土産物屋がひしめき合っている。

 こんな小ぢんまりとしたところに軒を連ねて、はたして訪れる人がいるんだろうか。いや、いまどきは現地で目立つことよりもインターネットで目立つことのほうが重要なのかな。それに『隠れ家的』って枕詞が一定の支持を得るこの世の中、小ぢんまりとしたところにあるのはむしろ武器なのかもしれない。


 もっとも、立ち並ぶのは旅館や土産物屋だけじゃない。それらの合間合間に、いくつもの民家の姿も見かける。自動車が走るような通りのほうでは見られない、なかなかな風景だ。

 しかし、考えてみれば当たり前。旅館や土産物屋で働く人たちにも起居する場が必要だ。

 いや、案外、温泉が好きすぎるあまり草津の温泉街に居を構えたなんてこともあるのかも……?

 朝、早起きしてあくびを噛み殺して街の人たちに挨拶しながら温泉に向かいひとっ風呂。お風呂上がりに個人経営のおしゃんなカッフェでモーニング。家に帰ったら都心のクライアントとメールやZoomでやりとりしながら優雅に仕事して、日が暮れる前に切り上げてしまう。そしたらまた温泉に行って、夕日を眺めながら1日の疲れを癒やす。温泉街の美味しいお店で夕食にして、ライトアップされた湯畑を眺めながら食後のお散歩。家に帰って、ゆっくり眠る……みたいな。そういう暮らしもなかなかエモいなぁ。


「った!」


 そんな妄想に没入していたら、いつの間にか歩みが止まっていたらしい。隣に立ったえるが、肘で脇腹を小突いてきた。


「民家なんか見て立ち止まらないの。不審者っぽい」

「いや、なんか面白い風景だなって。温泉街に民家」

「こんな裏路地だもの。あるとこにはあるでしょうよ」


 えるはカラコロと軽快な足音を立てながら歩きだした。

 私とえるはいま、お風呂上がりの散歩中。

 旅館で借りただけなのにこの浴衣や下駄という装備品には不思議な魔力でも宿っているのか、なんとなく気分が高揚する。

 私の浴衣は白地に紺で均等な模様と旅館の名前が描かれたごく平凡なものだけど、えるは鮮やかなピンクを身に纏っている。ひらひらと舞う袖はまるで金魚のよう。

 えるがこんな派手な浴衣を選んだのにはやむにやまれぬ理由がある。身も蓋もない、身長の問題だ。

 旅館に用意されていた浴衣は身長150センチ程度で中サイズ、そこから10センチごとに大、特大と大きくなる。なら150センチを大きく下回るえるは小サイズ……ではなく、中サイズ以下は子供用しか用意されていなかった。大きくて不格好なのを承知で中サイズを着るかどうか、えるは10分近く悩んでいたけど、結局子供サイズを選んだ。


 えるは顔がいいし背は低くても体型のバランスも最高だからなに選んでも似合うだろ、と私は思っていた。実際子供用の浴衣の上から大きめの羽織を着てさらにパーカーを羽織っているというラフなスタイルは、上品なお人形みたいな顔立ちとのギャップがポップで最高。だけどそのあたりのことは口にしないでおく。断腸の思いで選んだ子供サイズを褒めると馬鹿にされていると思われて、私は私で特大サイズの浴衣を着ていることを攻撃されることが目に見えているからだ。

 お互いのコンプレックスはお互いの胸の内に秘めて、ひっそりと楽しむのがいちばんだ。私がえるのちんまいところを内心で愛でていても、えるは私のタッパを楽しみはしないだろうけど……。


 それにしても、この下駄という履物は思っていたより歩きづらい。足の親指と人差し指で鼻緒をしっかりホールドして、脱げないよう慎重に、ふたつの歯でしっかりと一歩を踏みしめなければいけない。

 なんだかロボットみたいな不格好な歩き方をしている気がするから、たぶん、下駄のサイズか歩き方のどちらかが間違っているんだろうけど……もしかしたら両方かな。

 ともかく、私が日常的に行っている歩行という動作がいかに高度で複雑かを自覚させられる履物だ。


「ああもう、面倒くさい」


 そんな歩きづらさを煩わしく思ったのか、えるはおもむろに下駄を脱ぎだした。細くて白い足で歩くには、この履物は重すぎるみたいだ。

 両手にぶら下げられた下駄は、軽やかになったえるの歩調に合わせて踊るように揺れる。


「怪我するよ」なんて言ってから、まるで母親みたいだと思った。えるの足はまるで繊細な硝子細工のようで、砂粒ひとつですら致命的な傷になるような気がした。

 そんな気持ちは露知らず、「温泉に浸かれば治るわよ」とおかしな冗談が返ってくる。こんなこと言うくらいだから、いまのえるは随分と上機嫌らしい。


 私のことなんか気にもかけずスイスイと歩いていくえるには、下駄をはいたままの不格好な歩みでは置いていかれてしまう。意を決して、私も下駄を脱いではだしになった。

 深秋の夜の地べたはひんやりしていて心地いい。暗くて窮屈な部屋の窓を開け放って、吹き込む風に身をさらしたときのような感覚。

 一歩一歩、開放感を踏みしめながら、私はえるを追いかけた。



          *



 広い通りに出て坂を下ると、湯畑にたどり着いた。

 ライトアップは相変わらず続いていたけど、さっきと比べると営業している店や行き交う人影は少なく、夜の静けさをかすかに感じる。いい雰囲気だ。デートには最適、なのかな。

 実際、湯畑の周囲で語らうのは男女のペアやグループが多い気がする……というのは先入観で、家族連れが減ったぶんそう見えているだけかもしれないけど。


 なんにしても、私たちはそんな雰囲気をぶち壊す野生児じみた裸足ガールズだ。

 落ち着いた雰囲気の中、子供っぽくはしゃいだような姿が恥ずかしく、だけどなんとなく愉快でもある。

 そんなことを思いながらえるに視線を向けたら、いつの間にか下駄を履いて素知らぬ顔をしていた。


「さと、下駄くらい履かないと。怪我するし足汚れるわよ」

「……あ、足つぼ健康法だよ」


 梯子を外されたことに動揺してわけのわからない返事をしてしまった。忘れてた、えるはこういうことする。


「破傷風になったら死ぬけど……?」


 こわ。下駄履こ……。


 湯畑の周りを反時計回りに歩いた。

 湯畑は東側を湯滝通り、西側を中央通りという通りが囲んでいて、その交差点のそばには湯畑とは別の源泉、白旗源泉がある。

 白旗源泉は湯畑とは違って露天に晒されておらず、木造の屋根と柵に囲われた中、その名の通り白く染まった石礫せきれきの底から水泡とともにこんこんと湧き出していた。

 片隅には祠があり、そこめがけて無数の小銭が投げ込まれている。この源泉は草津の中でもひときわ強い酸性らしく、小銭はことごとく真っ黒に酸化していて、額面を確かめることすら難しい。


「この祠、源頼朝を祀ってるらしいのよ」

「へえー。……白旗って、武士的には喜ばしくなさそうだけどなあ。降参するみたいで」

「源氏の旗はもともと白いんだけど……」

「あ……!」

「この源泉を見つけたのが頼朝だって言い伝えられてて、湯の色を源氏の白旗になぞらえてこの名前がつけられたのよ」

「な、なるほどぉ……」


 恥ずかしさをごまかすために源泉の湯を覗き込んでみる。湯そのものは白いわけではないけど、それは成分が底に沈着しているせいみたいだ。浸かればそれが舞って、湯を真っ白に染め上げるんだろう。


 源泉のすぐそばには、『白旗の湯』と看板を掲げた建物がある。白旗源泉を利用した共同浴場で、早朝から深夜まで、地元住民の憩いの場となっている。まあ、珍しい源泉を使っていて立地も絶好だから、実際には観光客の利用も相当多そうだけど……。

 残念ながら今日はもう営業を終了しているので、入浴はまたの機会に。



          *



 湯畑周辺を離れて、西さい河原かわら通りに入った。

 ここには旅館や土産物屋が立ち並んでいる。昼間には食べ歩きやショッピング、あるいは湯めぐりの観光客で溢れているはずの通りを行く人影はなく、アスファルトを踏む私たちの下駄の音だけが空に溶けていく。

 とは言っても、静寂に包まれているというわけじゃない。飲み屋の扉の向こうからは明るい笑い声と灯りが漏れ出している。もしかすると、いまここは湯畑よりも賑やかかもしれない。

 少し遠い笑い声に混じって、歌声が耳に刺さる。明らかに音程の狂ったそれはスナックの酔客が歌う『粉雪』だった。


「恐ろしく下手だわ」

「驚くほど下手だね」


 笑いながら、私たちは喧騒を避けてさらに遠くへ足を延ばす。お互いに“そうしたい”と示し合わせたわけでもないのに。

 下手な歌が遠ざかっていく。



          *



 西さい河原かわら通りをずっと歩いていくと、通りの終わりにホテルにぶつかる。そこからさらに奥へ奥へと遊歩道を進んだ先には、西の河原公園がある。


「すっご……」


 西の河原公園は湧出した温泉が流れ出して川をなしているという奇景が見られるスポットだ。岩や大粒の石礫せきれきの合間を縫って流れる湯音ともうもうとけむる湯気。それを目の当たりにした私の口はあまりにも安直な言葉をこぼすことしかできなかった。

 この源泉は湯畑や白旗と同様に草津の主要な源泉に数えられていて、三途の川のほとりを思わせるその名前とは裏腹に極楽そのものだ。


 湯畑とは違ってこの時間帯ともなるとまったく人気ひとけがないけど、ライトアップは湯畑同様に施されている。各所から投じられる光は青や緑に絶えず変色し、湯気を彩り、湯に透け、あるいは飛沫に反射している。自然の生み出した奇景と人工の照明が織りなすのは、芸術的なまでの美しさだ。


「ふたりじめだわ」


 えるはつぶやいた。

 そういえば、ここには私とえるしかいない。

 ライトアップとか、イルミネーションとか、そういう場所には人ごみや喧騒がつきものだけど、いまこの空間はふたりだけの専有物だ。これってなんて贅沢で素敵なことなんだろう。


「せっかくだし、怪我でも治しましょうか」

「え、怪我したの?」

「足にね。湯に浸かる以外では治せそうにない傷が」

「は、破傷風!」


 怪我をしているとは到底思えない優雅な足取りで、えるは足湯に向かった。西の河原公園には湧き出た温泉を引き込んだ足湯が整備されているのだ。

 えるを追って、私も足湯に浸かることにする。浴衣の裾を持ち上げて、そっと足先を浸す。冷たい空気に晒された肌にじわりと沁みる熱はこの上ない快感だ。

 こんこんと湧いては流れる湯音を聴きながら、真っ暗な空を見上げた。曇り空に星はひとつとして見えない。


「エモが足りない……」

「出た。さとの思うエモってなによ」


 足湯の縁に設置された腰掛けに座って、えるは半笑いだ。


「え……なんだろうな。こう、ありふれてるけど、なかなか手に入らないみたいな……」


 正直なところ、自分でもよくわかっていない。なんとなく、心にスッと忍び込んでくるような、そんな感じのものだ。郷愁とか、思い出とか、そういうのが近いような気がするけど、言語化すると陳腐になってしまうから言葉にしたくない。


「ふうん……」


 えるは空を見上げ、湯面を眺め、立ち上がって私のほうへと向き直って細い脚を腿まで露出し、斜めに大きく振り上げた。脚は空を切るけど、跳ね上げた湯の行く先は私だ。それなりの勢いがあったそれは、裾をたくし上げていようとも容赦なく浴衣を濡らした。


「は、ちょ、なにすんの」

「ふふ、こういうことかと思ったのよ」


 どういうことだよ。驚きと戸惑いを示す私に、えるは子供みたいな笑みを見せる。そんな顔をされたら、こっちまで笑えてきてしまう。

 とはいっても、それはこの仕打ちを見逃してあげようということじゃない。仕返しに私も浴衣の裾を腿まで上げて――こんなこと、えるの前以外ではできない――思い切り湯を蹴り返してやる。

 やり返されることは想定外だったのか、それとも単にニブいだけなのか、避けようとはしなかった。腕で顔面を守るようにして、でもそれは全く無意味だったから脇腹から肩口にかけてが飛沫で濡れた。裾から手を離したから裾も湯浸しになった。


「やってくれるじゃないの……」


 えるは不敵な笑みを浮かべると、羽織とパーカーを脱いで屈み、両手を湯に浸した。湯を吸って沈む袖は気にもかけない。

 やることはなんとなく察せる。湯を両手ですくい上げてかけてやろうという魂胆。蹴るよりも多くの量を浴びせようという狙いだ。ふたりの間に流れるひりつく空気。これはもう“戦い”と言って過言じゃない。私もえるに倣い、羽織を脱いで腰掛けに避けておく。

 そして、屈んだえると相対する。数歩後ずさりすれば避けられるのに、私は「この角度うなじ見えるな」と気づいてしまって動かなかった。


「わぶ」


 すくい上げられた湯は思いのほか多く、見事私の顔面を直撃した。目と口に入って少し苦い。そうして怯んでいる間にさらにもう1発を食らった。

 顔をぬぐって攻勢に出る。えると同じように屈んで湯をすくい上げようとしたら、今度は湯を蹴りかけられた。


「私のターンでしょ!?」

「んなルールない!」


 いまさら濡れても構うものかと、すくい上げた湯で反撃。ところがえるもえるで怯むことなく再度足技を見せつける。一瞬の隙もない応酬、一進一退の攻防が続いた。

 ……と思っているのはたぶん私たちだけで、傍目からはやみくもに手足を振り回して浅い湯舟をかき回しているだけに見えるんだろう。実際その通りだけど。

 なんかもう、バカな大学生って感じ。最高。


「あっ――」


 大きな一撃を決めようとしたのかえるが脚を振り上げようとし、その勢いで姿勢を崩して足を滑らせた。仰向けに倒れようとするえるの腕を掴もうと手を伸ばす。けど、私の手は空を掻き、勢い余って私まで姿勢を崩した。

 仰向けのえるとその上に覆いかぶさるうつ伏せの私。そのシチュエーションはベタなラブコメみたいだななんてアホなことを考えて、それから普通にまずい怪我になる可能性を想像してとっさにえるにぶつからないように身をよじった。


「痛った!」


 そう叫んだのは肩から倒れた私だった。幸いにして湯面で衝撃が緩和されたからか怪我はないみたいだけど、起き上がるとジーンと痛みが響く。

 えるは尻餅をついていた。こちらも怪我はないみたい。ただ、お互い浴衣はもう濡れていないところを探すほうが難しいくらいびしょ濡れだ。下に着込んだシャツが透けて見える。


 息は荒く、火照った体は温泉の温かさじゃなくて無駄な運動のせい。

 起き上がって向き合い、数秒の間。それから、どちらからともなく笑いだした。

 川の流れと笑い声。ここにあるのはそれだけで、それだけが真夜中に溶けていく。

 ……こういうことは、確かにそうかもしれない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る