2.……変な感じ - 赤城山①

「……ええと、荷物はたぶん越後湯沢で回収されて、駅で保管されてるって。で、取りに行くか宅配で家まで届けてもらうかなんだけど……」

「草津やめて湯沢行く? わたしはそれでもいいけど」

「いやいやいや、無茶言わんでよ。私の財布が持たないよ」


 前橋駅に着いた私は、慌てて駅員さんに荷物のことを尋ねた。新幹線の荷台に置きっぱなしになっていたらしく、いまごろ温泉とスキーで名高いリゾートタウンを訪れていることだろう。

 時間もお金も余裕がないから、えるの皮肉交じりの冗談はもちろん却下。……その時々の状況でパッと行き先を変えてしまうような、気まますぎる旅路にはちょっと憧れる気持ちもあるといえばあるけど……。


 荷物は後日最寄り駅で宅配の手続きをとることにした。着払だけど、直接取りに行くよりはよほど安い。

 ちなみに、そのころには越後湯沢駅での保管を終えて長岡駅に移送されているらしい。花火が有名だったっけ? 新潟へは行ったことがないけど、まさか荷物だけが先に旅行するなんて思わなかったな。

 とはいえ、それで一件落着とはいかない。


「あの、えるにとってはどうでもいいかもだけど、私にとっては結構深刻な問題がありまして」

「なに?」

「着替えが全部置き忘れたバッグの中なんだよね……」


 えるは大きなため息を吐いた。


「前橋にも服屋はあるでしょう。適当に買ってきなさい。わたしは駅前のスタバかどこかで時間潰してるから」

「ありがとうごじゃります……ありがとうごじゃります……」


 大いなる慈悲を前に膝をついて拝むばかりの私である。


「赤城山行きのバスの時間も把握しといてよ。乗り遅れたらタクシーだから」

「はい、委細承知です……」


 えるが念押しで言ったとおり、この上州旅行第一の目的地は赤城山だ。

 赤城山は公共交通機関でのアクセス手段に乏しく、基本的にバスに乗って1時間ばかり揺られるほかにない。料金は片道1500円。それをタクシーで代替するといくらかかることか……想像するだに恐ろしい。



          *



 駅から10分くらいのショッピングモールで着替えを調達した。


「くう、服が重い!」


 というのは実際に堪える重量があるからではなく、財布から失われた英世たちの重みを噛みしめるため。

 服とは言ったけど、実際には服は買ってない。私の提げる袋には、下着とか、靴下とか、さすがにこれを2日連続で着用するのはどうなの? ってものだけが入っている。時間に追われてさして吟味することもなく適当な服を買ってあとで後悔するよりは、いま着ているわりとお気に入りのセーターとサロペットに連勤してもらうほうがよっぽどいい。1泊2日だし、まあ、セーフでしょ。

 心情としては、ひとまずの懸念事項を解決して肩の荷が下りたという感じ。


「これ、あげる」


 そんな私に、隣を歩いているえるがプラカップを差し出してきた。その中身はなんていうんだっけな、覚えてないけど、コーヒーの遠い親戚みたいなやつ。

 どうして駅前で時間を潰していると言ったえるがここにいるのかというと、駅前にはちょうどいい喫茶店が見当たらなかったからだ。一方でモールにはスタバもサンマルクカフェもあった。駅前よりも幹線沿いのモールのほうが施設が豊富なのは、モータリゼーションの賜物だろうか。地方って大概そうだよね。


 この子は適当な服を買って、しかもそれがバッチリ似合うんだろうな、なんて思いながら考えなしにカップを受け取る。中身が4割くらい残っている。もういらない、ってことか? 私はゴミ箱か……?

 あれ。ていうか、これ、飲んだら間接キスだよね。

 友達同士なのに、そんなことに怯むのはうぶすぎるだろうか。えるのくちびるに視線を向けさせようとする私と、逆に視線を逸らさせようとする私とがせめぎ合う。

 私は立ち止まり、カップのフタを外して中身を一気飲みした。ぬるいコーヒーの親戚が一挙に喉を潤していく。

 飲み干して、正面に顔を向ける。私に遅れて立ち止まったえるが、ついさっきまでの私みたいに空を仰いでいた。

 つられて私も空を見る。綿をちぎったような雲が流れる、ありふれた空。

 見上げるのをやめたら、えるが振り向いて私を見ていた。


「……えっと、これおいしいね」

「味わえばよかったのに」

「ああ、うん。また今度飲みにいくよ」


 とは言ったものの、私はこの飲料の名前を知らない。

 えるは空になにを見出したんだろう。



          *



 前橋駅前のバスロータリーはここ数年の間に整備されたのか、広くて真新しい。駅やその周辺設備が綺麗だと、それだけで垢抜けた街に思えてくるから不思議だ。私の地元なんかはバス停が乱立していたから、他所から来た人には使いにくいんだろうな。

 ところが、やってきたバスはロータリーの洒脱な印象とは正反対だった。


「なんか、ちょっと古めかしいね」

「昭和から走ってるんじゃないの?」

「元号ひとつ飛ばしちゃったよ……」


 昭和からというのは大げさにしても、古いことは間違いない。車内に並ぶ赤茶色の座席には所々にほつれが目につくし、水垢のこびりついた窓は幾度となく風雨の中を走って洗車しても落ちないんだろうと思わせる。吊り革のぶら下がるパイプや窓枠に備えられた「次止まります」のボタンだけは見慣れたデザインで、それがかえって車両の古さを強調していた。

 このバスがどれだけの人々を運んできたかなんて知れないけど、いまの乗客は私とえるのふたりのほかは、カップルがひと組だけ。赤城山直通バスは土日祝に3往復しかないのにこの乗客数というのは、ずいぶん少ないんじゃないだろうか。逆かな。乗客が少ないから本数も少ないんだ。


 バスが走り出すと窓の外に立ち並ぶ建物は次第に背が低くなり、やがて見えるのは田畑、竹藪、個人経営の喫茶店や、どこかの建設会社の資材置き場、それからたっぷりの広い空と、ときおり現れる民家くらいのもの。なにもない、と言ってしまいそうになるけど、確かに人の営む風景だ。こういうのをのどかと言うのかもしれない。

 初めて見る風景だし、地元に似ているというわけでもないのに、不思議と郷愁のような感情が湧き上がる。荒涼とした砂漠の画像や吹雪舞う雪山の映像に「暑そう」とか「寒そう」とか感じるように、こういう地方の風景にはノスタルジックにさせる属性があるのかもしれない。


「なんか……寝ちゃいそう」


 あくび混じりにつぶやいた言葉に、えるは「好きにすれば」とぽつりと返事した。いつになく明瞭じゃない、ふにゃっとした発音で。

 えるも眠いのかな。


 前橋駅から赤城山まで、およそ1時間。

 グーグルマップを開いてみたら、バスは国道4号線をひた走っているようだった。もはや車内に言葉はなく、ただ時間だけが黙々と進んでいく。


 富士見温泉でカップルが降りた。ここは直通バス以外で赤城山へ向かうときの乗り継ぎに利用されるバス停だ。名前に違わず銭湯の前にあって、温泉に浸かりたい気持ちがよぎる。

 車内には私とえるだけになった。運転手はもちろんいるけど、仕切りで遮蔽されて視界には入らないし存在を主張しないから、感覚としてはやっぱりふたりきりだ。


「……へんな感じ」


 ふたりきりなんてべつに珍しいシチュエーションじゃない。だってこれはふたり旅。宿の部屋では当然そうだし、人気ひとけのない道を歩いても、早朝の温泉に入ってもそうだ。

 それならこの感覚の原因はなんだろう。ヒビひとつないきれいなアスファルトに落ちる等間隔の木々の影を眺めながら、私は思った。

 もしかすると、このバスは車外とは違う時間が流れていて、遥か昔や遠い未来にたどり着いてしまうのかもしれない。

 部屋の中でふたりきりでも、戸を開いて外に出れば他の宿泊客や従業員がいる。道を抜けて大路に出れば人が行き交っている。早朝の温泉も浸かっていればいずれ誰かが入ってくる。

 でも、ここだけは、このバスの中だけは隔絶されている。そんな気がした。

 えると一緒に時間旅行。それも悪くないかも。


 隣の席に目をやると、えるは眠っていた。やっぱり眠かったらしい。

 ……それにしても……。


「顔、いいなあ……」


 寝ているのをいいことに、整った顔をじっくり観察する。身長差があるから私はいつもえるを見下ろすことになるんだけど、そのたびに強く印象に残るのがまつ毛だ。見下ろしたとき、その長さがひときわ強調されるから。

 その印象があまりに強く残ったものだから一時期は俯瞰の絵をやたらたくさん描いてしまって、画面が単調すぎるとえるに言われたこともあった。


 ……いまなら、まつ毛の先に触れるくらいならばれないんじゃないかな。

 そんな魔が差して指を伸ばしてみる。

 私の指先とえるのまぶたがミリ単位まで接近して、ここで目を覚ましたら目潰しみたいになっちゃうななんてくだらないことを考えた。すると気持ちが萎えて指は引っ込んだ。

 なにがしたいんだか。


 えるから目を逸らして、車窓を眺める。なんでもない山道の情景。まぶたを下ろし、この果てにある風景を思い浮かべてみた。

 凍りついた大沼と白銀に染まった赤城の山々。その幻想的な風景に呆然と感動する――なんて夢想をして、うとうと、まどろみに身を委ねた。



          *



「――あぅ」


 脇腹を小突かれて、意識が現実に還ってくる。

 なにか夢を見ていた気がするけど、なにも見ていなかったかもしれない。記憶が飛んじゃってわからない。


「見て、外」


 えるに言われて窓の外に目をやる。どうやらバスはつづら折りの道を走っているらしい。赤城山への到着ももう遠くはないみたいだ。

 もっとも、えるが指摘したいのはそのことじゃないだろう。というのも、窓の外に広がる景色にはもっと注目するべき要素があるからだ。

 はらはらと、無数の白い粒が風に舞いながら空から降っていた。


「雪……?」


 今日は10月26日。北海道や東北ならまだしも、関東で雪なんて異例の早さじゃないだろうか。

 雪を見てもテンションが上がったりはしない程度には歳をとったと思っていたけど、こうして旅先で雪が降るさまを眺めるとなると別らしい。なんとなく、気持ちが浮き浮きしてくる。


「すごいね、積もるかな」

「積もる降りかたじゃないでしょ」

「わかるもんなの? さすが道産子」

「ただの経験則」


 ……なんて会話をしたけど、バスを降りた私たちを出迎えたのは白雪をまとった赤城の山々だった。

 赤城神社に目を向けると、真白になった屋根瓦と真赤な柱の対比が見事に映えている。境内を囲う大沼の湖面にも氷が張りつめて、その上一面に雪が積もって雪原を作っていた。


「うっそでしょ……」


 澄んだ空気の中、陽を浴びて白くきらめく山肌を見上げて、えるは呆然としていた。まさしく信じられないものを見る表情。こんなえるは初めて見たかもしれない。


「降るもんなんだね。山の上だからかな」

「それほど寒くもないはずだけどね……」

「でも、コート着てきたのは正解だったでしょ?」


 はらはらと雪の舞い降る空を見て、えるの目が忌々しげに眇められる。そんな顔しなくていいのにと思うけど、常識では受け入れがたいものを目の当たりにすると自然とそうなってしまうんだろうか。

 こんな絶景を目の当たりにできるなんて思いもしなかった。普段ならスマホで写真を撮っていたかもしれないけど、今日ばかりは見惚れることに夢中のありさまで、ただひたすら銀世界を目に焼き付ける。感動だ。


「――ねえ、ねえって」


 それに横槍を入れるように、声がかけられた。


「……んん、もう、なに?」


 瞬きひとつ、目の前にえるの顔があった。その背後には、広大な白銀の世界……とは似ても似つかない、古びたバスの車内。


「なにじゃなくて、着いたっての。赤城山」

「え、ゆ……雪は……」

「寝ぼけないで。紅葉にだってまだちょっと早いくらいでしょうが」

「夢……? 変な夢見てたよ……」


 思わず大きなため息が出た。がっかりしたような、安心したような。

 今度こそ本当にバスを降りると、そこに広がるのはやっぱり一面の銀世界なんかじゃない。冷たい風が頬を撫ぜる、寂しげな秋の風景。木々の葉は散り、あるいは赤く染まっている。

 一度にふたつの赤城の風景を見て、これはこれでお得なのかもしれない……?

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