#5 紅い山並み、緑の温泉 - 秋の赤城と草津の話

1.えるはえすえる - 高崎駅

 大学の夏休みは長いとわくわくしていた1年生の頃の記憶はすでに遥か遠く、いまではあっという間に過ぎ去ったと呆然とするばかり。年中夏休みでいられたらどれほどいいことか! もちろん安定した収入と社会的地位を保証されたうえで!

 ……というのは極めて益体のない妄想に過ぎないけども、そんな妄想にふけってしまうくらいには連日の講義サークル原稿バイトの波状攻撃に疲弊していた。

 つらい! しんどい! 一日中寝てたい!

 そんな私の、向こうからしてみれば知ったこっちゃないし迷惑でしかないLINEに対して、えるはひと言。


 どうでもいいから温泉行きたい


 例によって、ここでいう『行きたい』は『行く』とイコールで結べる。



          *



 そんなわけで、“さと”こと私、渡井わたらい紗鳥さとりと“える”ことエルフィンストーン玄乃くろのは高崎駅に降り立った。新幹線の車窓から富士山がくっきり見える、快晴の休日だった。


「ここ、SLなんて走ってるんだね」


 在来線の駅構内では、至るところにこの地を走るSLの歴史や写真が紹介されている。重要な観光資源らしい。


「休日にだけときどき走らせてるらしいのよ。ほら、あれ」


 えるが指さすLEDの電光掲示板を見れば、全席指定の快速列車が発着することを予告していた。行先は水上みなかみ。利根川の渓流沿いに旅館が立ち並ぶ、歴史ある温泉地だ。私たちの目的地とは違うけど、汽車に乗って温泉旅行というのもなかなか風情があっていいなあ……。


「えるはえす……汽車って乗ったことあるの?」

「蒸気機関車は家族旅行で釧路に行ったときに一度だけ。子供の頃のことだからあんまり覚えてないけどね」

「私もおじいちゃんに連れられて大井川のSLに乗ったことあるけど、全然記憶にないんだよね。景色はよかった気がするんだけど……」

「情緒が売りなんだとすれば、SLが運行してるとこはどこもエモーショナルな風景かもね。……ところでさっきのはなんで言い換えたの?」

「え?」

「汽車って。えす、まで言いかけてたでしょ」

「噛んだだけだよ。『えるはえすえる』って早口言葉みたいじゃん」


 えるはえすえる、えるはえすえる……と、えるが3回言い終えたところで、2番線のホームにたどり着いた。

 次の電車が来るまではもうしばらく待つ。この時間帯は毎時2、3本しか来ないらしく、実家の最寄り駅を思い出す。いや、あそこはもうちょっと多かったかな。『時刻表に合わせて家を出る』なんてことをしなくてもいい都内に慣れ切った身には、少し懐かしい。


 私たちが乗る電車が来るよりも前に、SLがやってきた。

 客車は引いていなくて、機関車そのものだけがホームから少し離れた位置に停車した。

 煙突から立ち上る熱気は陽炎を作り、無用の電線を歪めている。重厚な黒いボディの先頭に貼り付けられたヘッドマークには『SLぐんま みなかみ』と記されていた。あとで発車する快速はこの車両が牽引するらしい。


 発射前の点検か、あるいはお披露目だったりするんだろうか。その手のマニアらしき人たちや物珍しさに惹かれた人たちが、ホームの端にたむろしてしきりに写真を撮っている。

 かくいう私もそんな一団に混ざってスマホを構える。よく知らないけど有名人らしいから写真撮っとこ、みたいなミーハー精神は少し恥ずかしいけども。

 でも、こういうのって「周囲に流されるなんてダサい」みたいなものの見方で斜に構えたって、結局周囲の動向に影響された身の振り方には変わりがない。だったら流れに身を任せてみるほうが得じゃない? と、近頃はそんなふうに考えたりもする。踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆ならなんとやら、ってやつ。


 そんな私と、私を遠巻きに眺めるえるの視線が交わった。あくびをひとつして、「さっさと撮りなよ」とでも言いたげにあごでSLを指し示す。……なんだこの敗北感は。

 なんというか、えるの醒めたような態度が、私の中に存在する、“私を醒めた目で見つめる私”と重なったような……そんな感覚。結局、踊る阿呆にはなりきれない私なのです。

 まあ、それでも踊りたがるほうが主体だからSLは撮るんだけどさ。



          *



 SLを横目にしつつしばらく待つと、伊勢崎行きの普通電車がやってきた。

 都心を走る車両よりもちょっと古いのかな? と思わせつつも、面影は普段見かける総武線や東海道線とそれほど違わないような気がする。

 そんなことを思いながらドアが開くのを待つものの、一向に開く気配がない。おっかしいなあ……?

 首を傾げる私に、えるはしびれを切らしたように私の前に出て、ドアの横に備えられているボタンに手を伸ばした。するとドアは沈黙を破ってあっさりと開いた。


「押しボタン式! ほんとにあるんだ」

「なに初見みたいなこと言ってるの」

「だって地元じゃ見ないし」

「さとの地元は知らないけど、中央線にもあるじゃない」

「言われてみれば、見たような、そうでもないような」


 車内は空いていた。休日だし、このあたりの人たちは通勤通学以外では自動車を使うのかもしれない。

 ボックス席に向かい合って座った。こういう座席も、都心ではなかなか座る機会がない。


「ここからもSL見えるね」


 私は窓の外に目をやる。SLは少し前方に位置しているから、撮影には向かない位置関係だ。えるは私の指さしたほうへ視線を向けようとして、すぐに諦めた。

 そしてその視線は、なぜか私へと向けられている。


「……なに?」


 えるの整った顔が私を射抜くというのがなんだか怖くて、私の浮かべる笑みはぎこちなかったと思う。


「大きい鞄、どこやったの?」

「えっ」


 なんの話か、1秒くらいのラグをおいて気がついた。そういえば、ずっと肩にのしかかる重量が小さかった。旅行用のリュックひとつ分だけ。私はもうひとつ、肩掛けの大きいバッグを持ってきたはずなのに。

 ……いつから? 新幹線に乗る前? 降りたあと、ベンチに荷物をおいて一息ついたとき? それとも、在来線のホームで?

 ホームへと目をやると、その光景は右へとスライドしていく。電車は走り出していた。


「……やっちゃった」


 脱力して座席に腰を落としながら、私はつぶやいた。

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