7.おちたらしむ、しむ…… - 大室山
綺麗な円錐状のシルエットが特徴的な
大室山では毎年2月ごろに山肌に生い茂る草を焼き払う山焼きが毎年行われていて、3月末現在、まだその名残がある。焼け跡からはすでに新しい草が生長していて、古い枯れ草を焼いて新しい芽生えを促すという山焼きの目的はしっかり達成されているらしい。
大室山はその山体が天然記念物に指定されているから歩いて登ることはできない。代わりに登山リフトが設置されていた。
伊東市を代表する観光名所というだけあってか、リフトを待つ人々は長蛇の列を成していた。とはいえ回ってくるリフトに順に乗っていくだけだから、何時間も待たされるわけじゃない。
「……乗るの?」
けれども、エルフィンストーンさんはそう引き留めた。
「どうしたの、待つの嫌?」
「……いえ、なんでもないのよ」
違和感のある態度だったけれど、それを振り払ってリフトに乗ることにする。料金は往復で500円のところをフリーパスの割引で450円。
スキー場にあるものと同じチェアリフトは、視界を阻害するものがほとんどないから伊東の風景を一望できる。もっとも登りでは山肌を見つめるだけだから、振り返るためのちょっとの勇気が必要だけれど。
リフトに乗り込むと、コートの袖をきゅっと引かれる感触があった。そちらに目を向けてみると、小さな手が強く握っている。エルフィンストーンさんは目を閉じて、深く息をしていた。もともと白い肌は、一層青ざめているように見える。
高いところが苦手だったんだ。言ってくれればよかったのに。そう思う一方で、それを悟れなかったことにちょっとの罪悪感もよぎる。
山頂付近には記念撮影スポットがあって、設置されたカメラが自動で写真を撮ってくれる。撮影された写真はすぐに現像されて、山頂で購入できる……とはいえ、このありさまじゃあまりいい写真にはなりそうにない。
からかってやろうなんていたずら心も少しは芽生えるけれど、その快感が罪悪感を上回ることはきっとないだろう。
山頂に降り立って、一息。
火口といえば真っ赤な溶岩が煮えたぎっている様や雨水や湧水が温められた温泉湖をイメージしがちだけれど、大室山の場合は平坦な
火口周縁部のおよそ1キロメートルはコンクリートで舗装された遊歩道になっている。そこを一周するお鉢巡りでは、たくさんの人が各々風景を堪能したり、ハイキング気分で歩いたりしていた。
「柵とかつけなさいよ……」
と、エルフィンストーンさんはうめく。
ここ大室山の遊歩道には、柵とか手すりとかいうものはほとんど設置されていない。調子に乗って舗装路の外側を歩いてつまづいたりなんかしたら転げ落ちるのは必至だ。天然記念物だから、必要以上に手を加えたくないのかも。
駅だってホームドアをつける時代なのに……というのは、やけに的を外した意見のような気がする。
「高所恐怖症だったんだね」
「だって、高いところから落ちたら死ぬし」
「まあ、たいていはね」
でも、何々したら死ぬなんて可能性は日常のあらゆる場面に存在しているわけで、それを気にしだすときりがない。理屈としてはずいぶん強引なことを言っている。たぶん、本当は明確な理由はないんだろうな。
「私、お鉢巡りするけど、ここで待ってる?」
「……行く」
高所でひとりきりが嫌なのか、それとも意地なのか、地面を凝視しながらついてくる。遊歩道はそれなりの幅が確保されているから、そんなことしなくても真ん中を歩けば大して怖くないと思うんだけど……これは高いところが苦手じゃないから言える感想なのかな。
火口周縁で最も低いのが北側にあるリフト乗り場。北北東の方角にあるのがさっきまでいたシャボテン公園で、温室や
最高地点は南側で、半周する間に伊豆高原の家並みや
今日はあいにくの天気で見えないけれど、天気のいい日には北東方面に房総半島やスカイツリー、南東には伊豆大島をはじめとする伊豆七島が眺められるらしい。
「おほー、いい眺め。凄いなぁ」
大室山の標高は580メートル。山としては特別高いわけじゃないけれど、それでも伊東の最高峰。一望する光景がもたらしてくれる満足感は決して小さなものじゃない。
「見えない……」
「顔を上げないからだよ」
山の西側には雄大な天城連山の山容が広がる。快晴なら富士山も北西部にその姿を見せてくれたはずだ。
町並みはたくさんの家々が立ち並びその合間を道が縫ってできている。山並みは膨大な土と岩とを無数の木々がつなぎ合わせてできている。そういう沢山のつながりでできているものをこの目にいちどに収めてしまえるというのは、なんだかとても贅沢なことだ。
「高いところに上ると偉くなった気分になるのって、つまりはそういうことなんじゃないかな」
「バカと煙、バカと煙」
……ちょっと素敵な発言をしたつもりだったんだけど。
下りのリフトもそれなりの行列を形成していた。安全対策にロープが張られていたものの、高所恐怖症の身にはそんなこと関係ないみたいでずいぶん参った様子だった。
もちろん、地に足のつかないリフトはそれ以上に恐ろしい体験になるわけで。
「おちたらしむ、しむ……」
「落ちなければ死なないよ」
エルフィンストーンさんは目をギュッとつむって、私の腕を強く抱えていた。それでも痛くもなんともないから、その細腕の非力さがうかがえる。というか、この姿勢はかえって危険なんじゃないかな。
ちゃんと安全バーを掴もう。
複数の意味でどきどきする。
上りはまだ最低限格好をつけようという姿勢があったけれど、もうなりふり構うつもりもないらしい。
私に寄り掛かるような姿勢だから、身長差の関係もあって髪の香りが漂ってくる。すっと抜けてかすかに残るこの感じはどこのシャンプーだろう。
下りのリフトでも風景を楽しめるんだけど、私は全くそれどころじゃなかったのでした。
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