8.脚、見せてよ - 伊東市街

 大室山からバスで伊豆高原駅に戻り、伊豆急線に乗って伊東駅で降りた。

 今日の宿は駅前のほどほどのお値段のところ。電車のきっぷをとったのはエルフィンストーンさんだったけれど、宿は私が選んだのだ。グリーン車と安宿、懐事情が知れるチョイスが悲しい。


「この宿、温泉ないわよね」

「ないね」


 夕食を終えたあと、エルフィンストーンさんはそんなことを訊いた。

 伊東は『花といで湯のまち』をキャッチコピーとする温泉地で、700を超える源泉は市街地にも湧出している。それなのに温泉のない宿を選んだ理由はほかでもない、脚を晒したくないからだ。


「……ちょっと散歩でもしましょうか。海までどう?」


 私たちは宿を出てぶらぶらと歩いた。

 昼間は華やかな観光都市も、午後8時を過ぎる頃にはアーケードは一部の飲食店を除いて軒並みシャッターを下ろしていて、夜闇に煌々と灯りを投じる建物は少ない。駅前や国道135号線のあたりはまだ賑やかだろうか。

 特急電車が出ていった伊豆高原のプラットホームには、観光客たちが振り払った名残惜しさが行き場なく漂っていて寂しげな雰囲気がした。名残惜しさすらなく、ただ静かなこのアーケードはもっと寂しい。この静けさは少し不気味でもある。


「ちょっと特別な感じがしない?」


 エルフィンストーンさんの態度は悠然。風にコートの裾が揺れている。


「特別?」


 私のオウム返しに、くるりと回って後ろ向きに歩きながら答える。


「こんなふうに、だれもいない場所を意味もなくぶらつくの。こんなことするやつ、他にいないでしょ」


 一歩一歩は大きい。私との背丈の差も、それで埋まるみたいだ。


「それ、アニメで聞いたことあるかも」

「特別になりたいって? わたしは生まれつき、特別なつもりだけどね」

「そりゃあね、きみみたいな人はそうでしょうけど」


 あまりに同等とした言葉に、思わずため息が漏れる。


「あは、わたしのなにを知っていってるのよ」


 私の言葉を笑い飛ばすその態度は、自分の存在意義を微塵も疑わない人のそれだ。

 うらやましいな、と私は思った。


 いでゆ橋を渡る。架かる伊東大川の上流にある立派な白亜の建物が、CMが有名な老舗ホテルのハトヤ。対して下流、夜に溶け込んで佇む趣ある和風の木造3階建てが東海館。

 東海館はすでに旅館としての営業はしていないけれど、建物が文化財として保存されていて休日には浴場も開放しているらしい。


 川沿いの遊歩道を歩いて、国道の橋の下をくぐると、河口のすぐそばに広場が設けられていた。ここには江戸時代に日本に漂着したイギリス人、三浦みうら按針あんじんことウィリアム・アダムズを記念する碑が建てられている。ここ伊東で幕府の命のもと日本初の西洋式帆船を建造したゆかりがあるそうだ。


 海と空は混然一体、散らばる無数の光の粒がなければその境界線を捉えることすら難しい。海に手を伸ばしても雲をつかむようで、空は冷たく揺蕩たゆたうばかり。

 碑の台座に座って、私たちはそんな景色を見た。


「今日1日でエルフィンストーンさんのイメージがずいぶん変わった気がするよ」

「なによ、それ」


 エルフィンストーンさんは水平線の彼方に遣っていた目を、こちらに向けた。その瞳は夜の海よりも深く澄んだ色をしている。


「見かけによらず、って言ったら失礼だけどね。初めて会った時から、強くて、弱点なんて誰にも見せないで、凛として生きてる人だと思ってたんだ」


 ばかみたい、と小さくつぶやく声が聞こえた。


「でもさぁ、実際はカピバラのことめっちゃ気に入っちゃうし、お肉は大嫌いだし、高いところは本当にダメだし、なんていうか……」


 この言葉でいいのかわからなくて、少し逡巡する。早くしろと言いたげなじと目が私を見つめた。


「うん、かわいいなって思ったね。うん」


 それを聞いたエルフィンストーンさんは、両手で顔を覆って伏せ、大きなため息をついた。小さな手でも隠れるくらい、顔も小さいんだと気づかされる。

 ばかみたい、とまた言った。


「あなた、好きな生き物は?」


 そのまま、ちょっとくぐもった声で問われた。


「え、なんで」


 なんだこの流れ。戸惑う私は、「いいから」と促される。


「……猫。あとは、タヌキとハグロトンボ」

「はぐろ……」

はねの黒いトンボだよ。ちょうちょみたいにひらひら飛ぶの」


 流れの緩やかな川を好む種類で、そういう川のそばに高校があったから、当時はよく見かけた。かわいいんだよ、あの子たち。

 そんな返答は「ふうん」であっさり流された。


「嫌いな食べ物は?」

「えー……っと。ない、かな。食べようと思えばだいたいいけるし」


 ち、と舌打ちが返ってくる。

 こうくると、次の質問を想像するのは容易だった。


「弱点を教えなさい」


 だよね。

 疑問形じゃなく命令形だったけれど。

 答えたくないな。


「……それは、まあ、わかるでしょ。いっぱい晒したと思うよ、忸怩じくじたることに」


 膝を抱える。脚はマキシ丈のスカートに護られて見えない。

 弱点を自分から口にできるなら、それだけで強さだ。自分からは言いだせないから弱点なんじゃないか。


「脚、見せてよ」


 いやバレてるし。ほんとにわかってたよ。

 私の脚に向けて手が伸ばされる。


「やだよ。恥ずかしい」


 膝を抱える腕の力をぐっと強めた。私の腕力なんて高が知れるとは言っても、さすがにエルフィンストーンさんには勝てる。

 けれど、手は力任せに腕を除けたりスカートをめくることはなく、そっと私の腕に触れた。


 体が凍り付いたような気がした。

 それに反してエルフィンストーンさんの手のひらは確かな熱を帯びていた。熱かった。

 体温。それは彼女がいまここに存在していることを証明し、いままさに生きていると物語っていた。確かな血の流れ。それを感じる私も、確かに生きている。薄い皮膚を隔てた血流の交叉があり、ふたりがここにいて、ふたりだけがここにいた。

 世界から、時間からすらも切り離されている。そういう感覚に陥っていたのがいつからいつまでのことなのか、気付いたときにはわからなかった。


「へんな顔」


 白い絵の具の塊にほんの小さな一滴だけ黄色を交えたような、そんな薄い笑顔。


「ここには私しかいないわ。いいじゃない、ちょっとくらい。疵や火傷の跡があるってわけじゃないでしょう?」


 ほかの人には駄目でも、彼女だけは特別。それでいい気がした。


「……ちょっとだけだよ」

「それじゃあ、マリンタウンに行きましょう!」


 スカートをたくし上げようとした私を制止するみたいに、エルフィンストーンさんは手を叩いた。

「は?」と声に出して、私は我に返った。記念碑の台座に体育座りしてスカートをたくし上げようとしている女、誰だお前は。渡井わたらい紗鳥さとりです。私やん。


 マリンタウンとは、国道135号沿いにあるカラフルな建物が特徴の道の駅のこと。伊東駅から徒歩圏内だから、鉄路で旅行する人も訪れることがあるという。

 この時間にはもうほとんどの店は営業時間外だと思うけれど、少なくともひとつだけ、まだ営業している場所がある。


「……まさか、シーサイドスパ?」


 マリンタウンには温泉が併設されていて、その名前がシーサイドスパ。そちらは深夜まで営業していたと思うけれど、そんなところに行ったらわざわざ私が温泉のない宿を選んだ意味がなくなってしまう。

 言葉なく立ち上がったエルフィンストーンさんの体はすでに国道を向いていた。


「え、でも、脚はあなたにだけって」

「言ってない。ここには私しかいないって事実を述べただけだもの」


 エルフィンストーンさんは振り向いて、べえと舌を出した。舌の造形の美しさに感心したのは生まれて初めてだった。

 ……え、ハメられたの? マジ?

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