4.カピバラになりたいわけじゃないんだよ - 伊豆シャボテン動物公園①

 バスの車窓からは住宅や雑木林がまばらに広がる。特別な情緒を飛び起こすほどの景色ではないし、かといって、あくびを噛み殺すようなものでもない。ただ、2階の窓から海を眺めることができたら気持ちいいだろうなと思った。このあたりは坂が多いから、開けた場所からは海がよく見える。


『次は理想郷です』


 車内放送のどこか無機質な声が、次のバス停を告げる。なにかの聞き間違いかと思ったけれど、モニターに表示された文字列は確かに耳にした通りの文字列を表示している。


「すごい地名もあるもんだね。理想郷って」

「このあたりの地名って富戸ふとだか大室高原おおむろこうげんだかじゃなかったかしら。理想郷って地名じゃないのよ」

「そんなら何? 施設名とかかな、旅館みたいな」

「はずれー。それも違う」

「む……じゃあ何なの?」


 エルフィンストーンさんは窓の外に目を遣った。ニッチな需要を満たす美術館の看板の足元で、黄金色に枯れた雑草がなびいている。理想郷、という言葉を聞いてこんな風景を想像する人はひとりもいないだろう。


「60年くらいだったかしら、西暦の1960年代ね。このあたりを開発して別荘地にしようって動きがあったの。その結果がいまの伊豆高原なんだけど、そのときに掲げたスローガンが『ここを理想郷にしよう』で、それがこの一帯の呼び名として残っているわけ」

「へえー。理想郷になった……のかな?」

「見たままでしょ。いいところだけど、バブルが弾けちゃったから」

「理想は理想のままだったかあ」


 ちなみに、湯河原ゆがわらにも同名のバス停があるらしい。みんな同じことを考えるってことなんだろうか。


          *


 バスに乗って向かうのは、伊東のシンボル大室山にある動植物園・伊豆シャボテン動物公園。開園から60年を数えるこの園は、民間施設ながら昭和天皇をはじめとする皇族も幾度となく訪問したことがあるという。

 ちなみに、シャボテンとはサボテンのこと。昔はサボテンにはシャボテンとサボテン、ふた通りの呼び方があったけれど、シャボテンという呼び方は次第に廃れてしまったそう。この園は「シャボテン」を採用したから、廃れた呼び方を今に残しているというわけ。


 バス停から少し坂を上り、歩行者ゲートから入場した。メインゲートは駐車場側に別にあるらしい。

 入園料は2300円。動物園としてはなかなかお高めだけど、バスのフリーパスで割引が利く。


 シャボテン公園は動物との距離の近さが売りだ。

 入場して少し歩くと、カピバラにエサやりができる広場があった。カピバラはアマゾン川流域を中心に生息するげっ歯類。つまりはネズミの仲間だけれど、体格はずんぐりむっくり、目立つ鼻から豚を連想する人もいるかもしれない。最近はキャラクター化されたり、シャボテン公園はもちろん、各地の動物園で注目されていて知名度の上昇の著しい動物だ。

 柵越しにエサやり体験ができるという動物園はよくあるけれど、ここでは柵の内側、それこそ直接触れられるような距離でエサをやることができる。

 虹の広場というらしいその場所では、5、6匹ほどのカピバラがぽてぽてと歩き回っては差し出されたエサを見つけるとかじりついている。


「でっか……」

「世界最大のげっ歯類だもんね」


 エルフィンストーンさんは感嘆の息を吐く。カピバラの成体は1メートルを超える。君と比べると本当に大きいよね。

 ネズミってすばしっこいイメージだけど、この子はのろまそうだわ。そう言いながら、飼育員さんに貰ったエサ用の草を差し出す。その手は指を噛まれないための厚手の手袋に包まれていた。


「潜水して外敵から身を守るらしいよ。このサイズだといくら俊敏でも逃げ切れなさそうだしね」


 ワニにも捕食されるから、水中に逃げたからといって必ずしも安全とは言えない気がするけれど……。


 エルフィンストーンさんがエサをあげているカピバラはもりもりと食べるけれど、私がエサを差し出している子はいっこうに食べようとする気配がない。猫じゃらしみたいにエサを揺らしてみても無反応だった。

 それでも離れる様子もないから、背中を軽く撫でてみる。体毛はさほど密ではなく、ふさふさというよりはゴワゴワという感じ。たわしみたいだ。水中と陸上を行き来する生き物だから、水分が毛にまとわりついて体が重くならないための進化なのかもしれない。


「ブサイクだけど、こうして食べてるのを見てるとかわいく思えてくるわね」

「動物ってそういうとこあるよね」


 全然食べようとする様子がないから、エルフィンストーンさんがエサをやっている子に私もエサを差し出してみる。鼻先を向けて、少し興味を持ってくれたみたいだったけれど、すぐにフイとそっぽを向いた。


「えー……なんでなん」

「あは、草がマズそうなんじゃない? あげる」


 がっくりと肩を落とす私に、エルフィンストーンさんはエサを差し出してくれる。どう見ても同じ草だけど、ありがたくいただくことにする。


「ほらほら、新鮮……でもないか。草だよ。おあがりよ」


 カピバラは近寄ってきてくれたけれど、草を検分するようなそぶりを見せてからすぐに踵を返してしまう。ぽてぽて歩き去って、親子連れのお客さんのもとへ向かった。


「いくら動物との距離が近いといっても、人間が嫌われてたら触れ合えないのねえ」


 しみじみと言葉のナイフを投げつけるのはやめてくれないかな。


「私さあ、高校の部活では毎日コイにエサをあげてたんだ。あの子たちはみんな素直で、私の投げたエサにすぐに食いついてくれたもんだよ」

「はー、どうでもいいー。しったこっちゃねー」


 エルフィンストーンさんは私の手からエサをさらうと、近くを歩いていたカピバラに差し出した。カピバラはもりもり食べた。なんで? 顔?


「私、いつかカピバラに見合うだけの女になってここに帰ってくるよ」

「この草食べるとこから始めてみる?」

「カピバラになりたいわけじゃないんだよ」


 シャボテン公園ではカピバラだけでなく、ミーアキャットやポニー、ヤギなど多くの動物にエサやり体験ができる。カピバラのリベンジとしてあげてみようかという気持ちもあったけれど、もしまた避けられるようなことがあれば……そのショックを想像すると尻込みしてしまう。動物の気持ちは計り知れない。少なくとも私には。

 動物と触れ合えたり、距離が近いというのは、新しい体験ができたりここでしか知れないことを知れたりするいい仕組みだ。けれど、それは動物からしてみれば大きなストレスにつながる部分も多分にある。実際、動物のことを考えず人間の都合だけで運営したために、ストレスから動物が自傷に走ってボロボロになっているような施設の話も耳にする。

 このシャボテン公園で、動物たちが健やかに生きているのは、きっとその背景にたくさんの従業員さんの愛情と不断の努力がある。

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