03.獣が統べる地へ
ルゥは牢獄から出てきた友人の表情を見たとき、何故だか薄ら悪い予感がした。はっきりとはわからない。なんとなく、嫌だ。ずっと昔から慣れ親しんできたユモラルード王国にやってきた二つの風――レイとセル。片方の風は去り、学園の偉大な老子は牢に繋がれた。今しっかりと捕まえている残りの風も――強風に煽られて飛んでいきそうだった。
次の日の朝早く、同室に住む赤い髪の友人がせっせと荷造りをしていた。荷造りとはいっても多少の食糧と水をバッグに押し込む程度。服装もデルア学園の制服ではなくて、このあいだ街へ出た時に買った服だ。とても軽くて動きやすそうだと本人は喜んでいたが、今思えば国を出るための準備だったのだろう。
前触れなく、風のように現れた者は風のように去るものなのだろうか。
部屋の扉が静かに開けられ、閉じられた。
「……なによ、なにも言わずに行っちゃうなんて」
どこへ行くのか、何をしに行くのか、いつ帰ってくるのか、それとも二度と戻らないつもりなのか。
せめて別れの挨拶くらいはしたかったのに。
「また、寂しくなるわね……」
*
世槞はレイとの会話において一つだけ嘘をついていた。おそらく見抜かれていない。黒い外套の男たちに襲われた本当の理由が――剣ではなく、自分たちを探しにきたことを。それも、人違いでだ――セシルとシャオに間違われたこと。言うべきか言わないべきか迷ったが、余計な情報を提示したがために更なる厄介事に巻き込まれることは避けたかった。だがガレシアには言った。全て、本当のことを。
(それで正解だった。上手くいけば紫遠の居場所がわかるし、ガレシア先生だって助けられる。――いや、必ずやり遂げる)
早朝の、まだ陽が顔を出していない時間帯。灰色の絵の具を薄く伸ばしたような寒々しい空を見上げ、もうすぐ秋になることを知った。
世槞は人気のない石畳の道を走り抜け、主人がいなくなり、廃屋と化した質屋の前を通りすぎ、国門あたりにさしかかる。国門は以前よりも見張りが強化されており、専用の小屋まで完成していた。門番が交代で勤められるよう、休息を取るための場所だ。全てレイの指示だろう。
(うわぁ……さすがレイ様。でも、警備の強化はあくまで対獣や対人間でしょ。私は違う種族なのよね)
世槞は以前と同じく壁を上るため、誰にも目撃されない場所を探して回った。
泥棒が出入りを繰り返していた壁の穴は頑丈なレンガで埋められている。世槞が上った壁はそれを目印としてすぐ近くにあるのだが、何故かその場所にも見張りの騎士がいた。油断していた世槞は愚かにも姿を見せてしまい、すぐに隠れるも時すでに遅かった。
「赤髪のお嬢さん、待っていましたよ」
特定され、世槞は舌打ちをする。観念して騎士の前へ出る。
「驚いたでしょう、己の行動が全て把握されていたのかと。その通り、想定内だったのですよ、我が主人の」
騎士の名はディーズ=ハイアットだ。グランドティア王国の騎士長であり、レイの側近でもある。
「おかしいな……レイ様はもうユモラルードにいないはずなのに」
世槞は口端を引きつらせながら笑う。面白くもないのに。
「で、私を止めにきたんですか?」
「いいえ。その逆です。あなたのお供をするためにここでお待ちしていたのです」
「……意味、わかんないんですけど」
「行くのでしょう? 弟さんを探しに」
「……ええ、まぁ」
「では国門より正式に出国しましょう。こんなこそ泥のような真似は、レイ様はお嫌いです」
世槞はこの騎士の行動を怪しみつつも、堂々と出国できることに関しては利を感じた。門番たちは他国の騎士長と町娘という奇妙な組み合わせに首を傾げつつ、快く門を開けた。
早朝の城下町に、重い門が開く重厚音が鳴り響く。僅かに覗く大地が眼前いっぱいに広がったとき、武者震いのようなものを覚えた。自分は今から戦へ赴く兵ではない。なのにこの胸の高鳴りはなんだろう。
「気をつけなさい。己が命の尊さを思い出しなさい。ここより先は人が統べる地ではない。管理者は獣――我々は、その餌です」
ディーズという人をつくりあげるオーラが別のものへと変わる。ユモラルード国内ではレイの付き人であったのに、今の彼は、戦いへ向かう戦士だ。この時代の人々にとって国から出るというのは、これほど覚悟の要るものだったのだ。
(なのに私は簡単に国外へ飛び出したり、喰われたりして……そりゃ怒られるよね。身の程知らずだったのかな)
なまじ力があるぶん、おごり高ぶっていた。クロウの人々を弱き者として見下していたのかもしれない。
(こんなに精一杯生きてる人たちなのに――……)
世槞は身勝手な自分を守りにきた騎士に申し訳なく思い、しかし引き返すことができず、目的の遂行だけを考えることにした。
背後で門が閉じられる音がした。生死を隔てる壁が閉ざされ、簡単には戻れなくなる。周囲に気を配り、いつでも抜剣できるように柄から左手を離さないディーズを見上げ、世槞は訊ねる。
「私の行動がお見通しだって言ってたけど……レイ様は私がどこへ向かうかまで予測してたんですか?」
「いえいえ、さすがにそこまでは。ただ行動を起こすならば早朝だろう、とはおっしゃられてましたね。一度脱走したセルさんがユモラルードへ戻られたのが早朝だったという話ですから。なので私は毎朝、あの崩れた壁の近くで見張りをしておりました」
「ま、毎朝……。ご苦労様です」
「ほんとですよ~。あなたがお転婆なせいで我が主は落ち着いていられず、とばっちりが私にまで来てるのですからね! 今のように」
「すいません……ほんと、ごめんなさい……」
何度も謝罪の言葉を口にする世槞を見て、案外素直な子なのかなとディーズは考える。
「それよりセルさん、ご友人にはきちんとお話をされてから出てきたんでしょうね?」
「いえ。話すと逆に迷惑かけるかなって」
「ああ……あなたやはり考え無しに行動しますね。せめて置き手紙でもしないと、心配されるでしょう。行方不明だ、誘拐かもしれない、それとも自分がキライになって出て行ってしまったのか――と」
「えぇ!! 私がルゥを嫌うはずがないのに!」
「寝ている間に黙って出て行かれたらそう思う方もいるでしょう。次からは出ていく理由と、いつ戻るのか、をきちんと伝えてから行動しましょうね」
「……はい」
自分の失態を指摘され反省する――その余裕はなかった。ディーズの鍛えあげられた太い腕が眼前に伸び、世槞はぶつかりそうになる。
「現れました」
ディーズはそれだけを言い、剣を引き抜いた。
世槞の視界には、木陰からのっそりと姿を現す二頭のサーベルタイガーが映っていた。
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