第三章 エディフェメス・アルマ

01.全てが動き出す

 月の都という名の由来となったこの土地は、昔から月の観光地として有名だ。日本の、いや世界中どこを探しても月の都ほど月が美しく輝く場所はない。

 月の都の中の一つ、月夜見市(つくよみし)に住む二十六歳の男性――梨椎愁(りしいしゅう)は、仕事から我が家へ帰宅したとき、そこに広がる季節外れの氷の結晶を見上げて言葉を失った。それはとても大きく、家を覆ってしまうほどの規模であった。

 一目見て男性は、我が家で何が起きたのかを察知した。男性がまず起こした行動は、家の裏へまわって物置小屋をチェックすることだ。そこには地下へ通じる扉があり、厳重に閉じられている。鍵は弟が管理している。開けられた形跡はあるが、再び閉じられている。


「……始まっていたのか……」


 男性は呟く。予期はしていたから、それが起きぬよう対策をしていたはずだった。だが止められなかったようだ。

 男性は玄関先へ戻り、中を覗く。室内は雪国のように何もかもが凍りついており、赤い血痕すらキラキラと輝いている。瞬間、像だと思ったものが人間の死体であることに気付く。黒い外套を羽織った男である。それが数えられるだけで十体以上はある。


「随分と派手にやってくれたものだ、我が弟は」


 姉を護るため、それ以外を全て棄てた。正しい判断だ。愁はよくやったと弟を褒めつつ、溜め息を止められない。

 スーツの胸ポケットから取り出したタバコにライターで火をつけ、吸った。タールの量は多めだ。健康に気を使い、近年はタール量の少ないものを選んでいたが最近はそれでは堪えられなくなっていた。ストレスが増えたことが理由であるが、そのストレスの理由がまさに――起きて欲しくなかった“現状”にある。

 氷の粒を踏み砕く足音がする。愁は振り返らずに声をかけた。


「相模、来るのが遅いぞ」


 息を切らし、駆けつけてきた弟の友達。愁が保健医として勤める学校の生徒でもある。


「梨椎先生……俺、間に合わなかった……です」

「俺も間に合わなかったよ。可愛い妹弟たちの生死がわからん」

「……総帥に連絡をしました」

「ほう。で?」

「知ってました」

「ふん、だろうな。あの遊び人は全てお見通しだ」

「だから、鍵輪を預かりました――」


 相模七叉は震える手で愁の眼前に翳す。手の中に収まりそうなほど小さい、ただの鉄の輪を。


「行きますか、梨椎先生。でも俺、わかりません。あいつらが一体、どこへ行ってしまったのか」


 愁は落ちている灰皿を拾い、そこにタバコの先端を押し付けた。


「わかる。この死体がヒントだ。だが俺は行けない」

「何故ですか」

「この世界でまだやることがある。大きな準備だ。それが終わったら行く。そして、俺の世槞と紫遠を連れ去った愚か者どもを皆殺しにしてくれよう」


 穏やかな台詞ではない。冗談にすら聞こえる。

 七叉は頷き、自身も同意見であることを告げた。


「さぁ相模、長い旅となるぞ、覚悟をしろ。お前が今まで殺してきた数以上の人間を殺すこととなるのだからな――」


 *


 聖デルア学園内で発生した強盗事件から一夜明け、世槞は目の下にクマをつくった状態で朝のお祈りに参加をしていた。

 ここは学園の敷地内にある教会だ。教会は知性の女神であるメーティスを奉っており、学問を重んじるユモラルードにとって当然のように信仰の対象となっていた。


「学問の神様とか……菅原道真しか知らねぇ……」


 剣が手元を離れてから気抜けしてしまった世槞は、従おうと思ってきたこの世界の風習に少し反抗を始めていた。この国は日本と違い、一般市民の力が著しく低い。だから何かあったときは当然のように国に守られるべき存在となってはいるのだが、そのぶん自由が利かない。世槞がずっと堪えていた息苦しさは、ついに酸素不足に陥っていた。


「スガワラノミチザネ? なにそれ、呪文でも唱えてるの?」


 隣りにいたルゥが大きな目をまるめ、真面目に問う。世槞は説明が億劫で、「なんでもない」と気怠げに答えた。

 神父による祈りの言葉が終わると、教会内が少し騒がしくなる。学生たちの視線が入口へと注がれ、口々に容姿を褒めたたえる言葉が交差した。そこで世槞は何が起きているのか察知し、本来の職業とは関係のないところでばかり騒がれる当人が少し可哀相におもえた。

 人垣をかきわけ、その当人が近付いてくる。


「セル、少し話せるか」 


 名指しをされ、今度は自分へと視線が集中する。世槞は周囲から注がれるの羨望の眼差しから目を背け、足早に教会を出た。


「おはようございます、レイ様」


 レイに連れていかれた場所は、あらかじめ人払いを済ませたであろう廊下の一画であった。世槞は昨夜のこともあり、少し身構えていた。


「挨拶はよい。しかし酷いクマだな。寝ておらんのか」


 寝れるわけないでしょう。世槞は目をこすり、眠いフリをした。早く解放してくれという合図でもあった。


「……まったく。……セルよ、我はこれからしばらくユモラルードを離れる。しかしおぬしに話しておかねばならぬことがあったゆえ、ここまで来た」

「えっ、マジっすか、出ていくんですか」


 世槞は小声で「やりぃ」と呟いた


「……聞こえておるぞ」


 本来ならば厳しく叱咤するべき無礼な発言であるが、どうしてかレイは怒る気になれない。どちらかというと、ばかみたいに丁寧な畏まった態度を取られるよりも、自然体のままの世槞の姿のほうが安心して受け入れられた。


「残念だがすぐに戻ってくる」

「…………」

「あからさまに嫌な顔をするでない。それとも、我がおらずともおぬしが代わりにユモラルードを守ってくれるのか?」


 どんな意図が含まれた発言なのかわからない。世槞は寝不足の目をレイに向け、迷わず答えた。


「守れますよ、私なら」

「それは頼もしい」

「用件はこれだけですか?」

「そう思うか?」

「いいえ」

「昨晩預かった剣のことだが――」

「はい」

「おぬしはあの剣のことをどこまで知っておる?」

「どこまでって……抜けないってことは知ってます」

「本当にそれだけか?」

「嘘ついてもしょうがないんで」

「なるほどの。では、あの剣をどこで手に入れた?」

「私の家です」

「なに?」


 レイの声のトーンが変わり、世槞は自分がなにかまずいことを言ったのかなと緊張をする。


「正確には……弟の部屋の中で、でも本当は物置小屋の地下室に保管されているはずのもので」


 答えがちぐはぐだった。世槞はレイの顔色を窺いながら話す。


「質問を変えよう。セル、おぬしの家はどこぞ」

「あ……えっと……遠い、とこです」

「どこだと聞いておる」

「……わからない、です」

「なんだと?」


 レイの声色がどんどんと低くなる。次々と核心へ迫っていく質問に対し、世槞が思いつく程度の嘘や誤魔化しは通用しない。


「すみません……本当なんです。家に知らない男たちがたくさん来て、一緒にいたはずの弟と離れ離れになって、剣だけ持たされた状態で――ユモラルードの外へ放り出された……んだと思います。気がついたら王宮医務室でした」


 レイは黙って話を聞いている。嘘か真かはとうに見抜いているだろう。それでも辻褄が合わない話のため、眉間に深いシワを寄せていた。


「知らない男たちとは? 特徴など覚えておるか」

「全員、黒い外套を羽織っていました。人並み外れた力がありました」

「黒い外套……な。そいつらは何をしにきた?」

「セシルとシャオを探しに来た……とか、言ってました。意味はわからないです」


 ここでレイの表情に驚きの色が生まれる。世槞のその回答だけで一連の全てを納得したような、そんな表情だった。


「その男たちは、おぬしら双子を襲いにきたのか?」

「いえ、剣を奪いに来ました。だからそれだけを持って逃げたんです」

「そうか……やつらは、全ての引き金となる剣だけをとりあえず確保しに来たわけか……。なら、そのような危険なものをおぬしに返すわけにはいかんな」


 世槞は目を見開く。


「どうして」

「わからぬのか。あれを所持していればおぬしはまた男どもに狙われるかもしれぬのだぞ」

「そうかもしれません……でも、あいつらは弟の行方を知っている。男たちと接触できれば、弟の居場所を聞き出せる」

「危険極まりない。我はその男たちの正体について思い当たる節がある。そいつらに二度目の接触なぞしてみよ。命は無いと思え」

「でもっ」

「弟とやらもすでにこの世にいないかもしれぬのだぞ!」


 それはレイにとって世槞を危険な行動から遠ざけるためのハッタリだった。一番効果があると思われた手段だ。だが効果はあらぬ結果を生みだした。――世槞が涙を流したのだ。


「死んで……なんか、いないです。紫遠が……私を置いて逝くはずない」

「セル」

「もういいですか、私の時間もこの世界の時間も無限じゃない。剣ならあげますよ。そんなものなくても、弟を探しだしてみせる」

「セル!」


 制止を振り切り、世槞は駆け出した。命の恩人に対して最悪の別れ方をしたなと、後で反省していた。でもこの時は、紫遠を探すことが無謀だとそう通告されたことが――恐かった。


「どうしたの! 泣いてるの?」


 しばらく人気のないところでひとしきり泣いて、ぐずぐずと、まるで子供のように鼻をすすりながら廊下を歩いているとルゥに声をかけられた。すでに夕刻に差し掛かっていた。ルゥは世槞がレイに呼び出されたことを知っている大勢の一人であったため、泣いて帰ってきたことに酷く動揺していた。


「レイ様に、紫遠はもう死んでるから探すの無駄だって言われたよ」

「なにそれ! 酷すぎじゃない。レイ様ってそんな人だったの?!」

「……たぶん私のためを思っての嘘だと思う。でも、紫遠がもう死んでるって……はっきり言われることが辛かったよ」

「そうね。嘘も方便でも、もっと違う表現が欲しかったわよね」


 ルゥはあれだけ憧れていたレイに対し、我が事のように怒っていた。世槞にとってそれは有りがたく、救いにもなった。


「でね……こんなときに報告するのもなんだけど……セル。ガレシア先生が王宮へ連行されちゃったわ」


 ルゥが言いにくそうに数時間前の出来事を報告する。世槞は目をまるくする。


「先生、何かしたの?!」

「わかんない……急に衛兵の人たちが天文学の講義中にずらずらと来て、先生を連れ出しちゃった」

「待って待って。いくら王宮でも学校には手出しできないんじゃないの? それに授業中とか!」

「そうなのよね。だからガレシア先生……よっぽどのことをしたのかなって……」


 世槞はフラリとする身体を堪える。


「ガレシア先生はどうなっちゃうの?」

「わかんない。処刑とか……ならなきゃいいけど」

「処刑……そんなの駄目でしょ。レイ様は? このこと知ってるの?」

「もちろん理由を聞きに行ったわ。でもレイ様はすでに国を発たれた後だった」


 しまった。そういえばレイはしばらく国を離れると言っていた。だがジッとしていられず、世槞は王宮へと向かった。ルゥも一緒にきた。

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