【☆】03.こんなファーストキス

 自宅はいつもの変わらぬ姿でそこにあった。

 いつもの変わらぬ日常の、いつもの変わらぬ場所。……そう思いたいだけだったのかもしれない。

 館の中には誰もいない。兄はまだ仕事のため学校に残っているし、弟は寄り道でもしているのか帰宅していない。広大な家は世槞一人を丸呑みにして抱え込んでいる。

 やけに静かで、外の音さえ遠い気がする。生まれ育った我が家のはずなのに、今はどこかよそよそしい。そう感じるのはやはり昨晩の出来事が緒を引いているからだ。

 広間の階段をあがる。二階の廊下へ足をつけると左右に扉があり、右側が世槞の部屋、左側が紫遠の部屋だ。世槞は「まさかね」と半分笑いながら弟の部屋を覗く。昨日、主のいない部屋で発見した古びた剣は、伝えたいことでもあるかのように――


 今日もまた、そこにあったのだ。


「なん、で……?!」


 思わず悲鳴のような声が漏れた。地下室にて厳重に封印されているはずの灰かぶりの剣は、昨日と同じく部屋の片隅に立てかけてある。

 まさか紫遠が取り出すわけがなく、世槞にしてもそんなことはしない。しかし、事実、剣は目の前に。


――怖い。


 背筋をなにか歪な気配が高速で走り抜ける。世槞は咄嗟に紫遠の部屋から逃げようと後ずさりをした。そのとき、後頭部を何かにぶつける。感触からして人間だ。


「おや、これは失礼をいたしました。セシル様」


 世槞の瞳に映る人間は、知った顔ではなかった。黒い外套で全身を覆った人間の男らしき生命体が数人、いつの間にか世槞の背後に立っていたのだ。顔は鉄仮面で覆われ、左右の穴から覗く眼球が、ぎょろりと動いて世槞の姿を捉えるなりその白い腕を掴みあげた。


「え?! 痛っ……だ、誰!?」


 家の中に何食わぬ顔で現れた男たちに対し、世槞は驚くだけ。ただ捻られた腕が痛む。

 男たちは仮面に隠れた口を動かし、こもった声で口々に言う。


「やっとお会いできました、我が敬愛なるセシル=リンク様」

「手荒な真似をお許しください。我々は貴女様をお迎えにあがったまで」


 男たちは世槞のことを知っているようだった。だが世槞は男たちの顔にも、また呼ばれた名前にも身に覚えがなかった。


「いや、あの……人違いしてますよ……私、そんな西洋風な名前じゃないし……っていうか、お前ら住居不法侵入してるから通報しますけど、いいんですか」


 事態は理解できないが、世槞はつとめて冷静に対処しようとしていた。そそっかしい性格が災いしないように、慎重に。

 男たちは顔を見合せ、首を傾ける。


「あ! もしかして! あんたたち、組織の人間? また私と紫遠を連行しに来たとか……」


 世槞は問う。そうであってほしいと願いながら。

 鉄仮面に隠れた黒マントの唇が歪む。どうやら世槞の予想は的を外れていたようだ。


「組織? 何を言ってるのかわからんが、我々はセシル=リンクとシャオ=レザードリアを探している。貴様はセシル=リンクか?」


 別の男が高圧的な態度で迫る。世槞は少しばかりムッとし、首を左右に振る。


「人違い? このお嬢さんはセシル様ではないのか?」

「反応からして本当に違うようですが……」

「おかしいな。座標はここで間違いないはずなのだが。髪も赤い」

「ロキ様が間違うはずがなかろう」

「いや、しかし……」


 世槞は捕まれた腕を無理やりに振り払い、制服のポケットからスマートフォンを取りだして素早く操作を始める。

 どうやら黒マントの集団は誰かを探している。しかも世槞には関係の無い、全く知らない人間をだ。――急に腹立たしくなる。こいつらの単なる人違いのせいで自分たちの生家は荒らされたわけだ。

 男たちの会話を尻目に世槞は操作を続けている。やっと繋ったどこかへ世槞はまくし立てるように早口で現状を伝えた。


「……警察ですか! はい、事件のほうです! 今、うちに変なやつらが侵入してて……困ってるんです。全身黒づくめのマントを羽織っていて、男が四人。顔は隠しています。逃げたくても逃げられない状況で……はい、うちの住所は……」


 世槞は警察へ110番通報をしていた。


《世槞様、警察の人間が役に立つとは思えません》


 世槞の影が言う。


「え? そう? でも誰かにやってもらわなくちゃ。罰則も与えてほしいし。というか、私ならほら……殺しちゃうから」


 世槞はへらへらと笑う。腕への圧倒的自信からくる笑いだ。ゆえに事件か事故があったなら警察へ通報する。この文明社会においてごく普通の対応をした世槞はしかし、安易に想像していた結果を見失う。一番奥にいた男の一言によって状況は一変した。


「セシルで間違いないと思いますよ。何故なら、あそこにシャオの剣があります――」


 黒マントの男が指差す方向、そこにはあの灰かぶりの剣が己の存在を主張するように置かれていた。


「え……?」


 世槞は肝を冷やした。黒マントの男たちは剣のことを知っていた。そして眼が今まで以上にギラつき、放たれた気迫に押しつぶされそうになった。


「セシル様、大人しく我々と共に来て頂こう。なに、悪いようにはせん」


 男はじりじりとこちらへ近づく。剣のことを知っている以上、もう普通の不審者ではなくなった。世槞は息を飲んだ。


「悪いようにしないって……人の家に土足で上がりこんでおいて随分と説得力の無い台詞じゃん。お前、絶対アタマ悪いだろ!」


 世槞は頭を切り替える。素早く腰を落として灰かぶりの剣を掴み取り、飛びかかってきた男の顔を振り向きざまに思いきり殴りつける。男はその衝撃を受けて部屋の壁に頭から激突し、それきり動かなくなった。

――錆びてて抜けないから、こういう使い方しかない。

 これは戦うしかないと、世槞は腹を括ったのだ。錆びついた剣の柄を握り、世槞は構えた。

 黒マントの男は、動かなくなった仲間と世槞を見比べて舌なめずりをする。


「ほう……さすが、バケモノ並みの身体能力。か弱い少女とは思えん」

「ここはシャドウ・コンダクター様に失礼のないよう、我々も全力で行かねば」

「だが殺してはならぬ。セシルは生かしたまま連行するのだ」


 男たちの会話はとても身勝手に感じた。奥歯がギリギリと鳴る。世槞は今、どうしようもない苛立ちを、徹底的に感じていた。


「だからっ! 私はセシルじゃない!!」


 足に力を込め、世槞は一番手前の黒マントの男に狙いを定めた。

 心臓を確実に狙う。貫けはしなくとも、機能停止に追い込めればそれでいい。男の1人が真後ろに仰け反る。世槞は間髪入れずにもう一突きを狙うが、いつの間にか真横へ移動していた別の黒マントからの蹴りを脇腹に受ける。たったそれだけで世槞の身体は部屋の壁を突き破り、階段を転げ落ちた。


「――――っっ……」


 全身を強く打ちつけ、目眩が起きる。しかしここで気を失ってはいけない。世槞は歯を食いしばって痛みに耐える。


《世槞様! ここは離脱するべきです!》


 影の悲痛な叫び。


(なにそれ馬鹿なの。あいつらをこの家に残したら、なにされるかわかんないじゃん)


 世槞は深層領域下の会話――念話を駆使し、声を出さずに影と話をしている。

 世槞は階段の手摺りに掴まって上体を起こすも腹部に激痛が走り、唸り声をあげる。どうやら肋骨が数本、折れているようだ。


「ほらほらセシル様、言わんこっちゃありません。大人しくしていれば、痛い目に遭わないで済むものを」


 黒マントの一人が階段をゆったりと降りてくる。腹を押さえてうずくまっていた世槞はヨロヨロと立ち上がり、逃れようとするが足を滑らせて、あっという間に階下まで転げ落ちる。


「勝手に自滅しないでくださいよ」


 男はカン高い笑い声をあげ、ぐったりとうなだれる世槞の頭を片足で押さえつける。そのすきにもう一人の男が錆びた剣を世槞の手から奪い取った。


「しかし酷い有様ですね。この剣、錆びて使い物になりませんよ」

「心配せずとも、我々の世界へ戻れば本来の力を取り戻す。その為にはシャオが必要だが」


 黒マントの男たちは再び相談を始めた。


(こいつら、一体何者なの。第三者ではなさそうだ……)


 世槞は朦朧とする意識の中で考え続ける。

 シャドウ・コンダクターのことは知っているし、剣の正体も把握しているようだ。しかしシャドウ・システムのことは知らないらしい。

 まったくもって正体不明の、招かれざる客。


「まぁ、セシルを捕らえられれば、嫌でもシャオは出て来ざるを得ないで……」


 黒マントの言葉が不自然に途切れる。

 痛みにうずいていた世槞は、それすら忘れるほど全身の筋肉を緊張させた。


――寒い。


 筋肉の強ばりは、家内の気温が一瞬にして氷点下にまで落ちたことが理由である。つい先程まで調子よく喋り、世槞の頭を足蹴りにしていた黒マントの男は、今や氷の彫刻のように冷えて固まっている。世槞は、自分の背後に現れた人影に目を奪われた。


「……お前らなにしてんだよ」


 人影から放たれるものは、とても静かで、しかし凍てつくほど冷たい声だった。

 凍りついた男の両足にヒビが入る。ずるりと、まるで割れた氷がずれるように黒マントの身体が床に倒れ、衝撃で粉々に砕け散った。男の身体は、体内の隅々まで氷と成り果てていた。――赤い氷がコロコロと木の床を滑る。


「ほお、やっと王子様の登場か!」


 残った2人の黒マントの男が、少し後退る。口先では余裕を見せているが、眼球の動きが固くなっている。


「紫遠……!」


 世槞は立ち上がるが、弟の名前を口に出した直後に赤い液体を吐き出す。それを見た紫遠が、苦々しい顔をする。


「姉さん、少し、待ってて」


 紫遠は護るように世槞の前へ立ち塞がり、自らの両手に奇妙な動きをつける。しなやかな動作をしたかと思うと、手の中にはいつの間にか二丁の氷銃が形成されており、しっかりと握られていた。冷たくクリアなそれは、銃を構成する配線などの類いが一切窺えない。しかし、紫遠はそれをまさしく銃として黒マントの男たちへ向け、トリガーを引いた。


「なに?!」


 銃口から次々と発射されるのは氷の銃弾。当たった者の身体に氷の粒子を送り込み、体内(ナカ)から氷漬けにしていく恐ろしい武器だ。

 しかし紫遠の存在を知覚した男たちに、銃弾はなかなか命中しない。これは男たちの動きが俊敏なのか、紫遠がいつもの冷静さを欠いている故なのか――そのどちらでもある。

 外れた銃弾が家の床や壁を貫いては氷を浸食させてゆく。


《紫遠様、無茶をするでないわ。主の安らげる我が家が氷漬けとなるぞ》


 紫遠の影が揺れる。――氷の下僕、氷閹(ひえん)が無茶をする主人を諫めているのだ。


「生まれ育った家と実の姉、どちらを優先すべきかなど言われなくてもわかるだろ!」


 迷いのない返答を受け、影は笑うように揺れる。

 黒マントの男は二階へ駆け上がり、廊下を逃げ惑う。紫遠は廊下の真下へ滑り込み、頭上へ向けて氷を撃つ。廊下は見る間に氷漬けになってゆき、男たちが逃げられる範囲を次々と狭めてゆく。

 男たちは次第に焦りを募らせてゆき、本来の目的を置き去りにして保身へと体勢を変える。


「アンノン殿、これはまずい状況です。一度撤退した方が」

「そうだな……しかし、せめてこのシャオの剣だけは持ち帰……」


 名を呼ばれた男の顔に、衝撃が振りかかる。


「そうはさせないよ」


 いつの間にか二階へ上がってきていた紫遠の蹴りが黒マントのリーダーらしき者の顔面を吹き飛ばしていた。頭を無くした男の身体はその場に崩れ落ちた。

 紫遠は最後の一人となった男を逃がすまいとフードを掴んで後ろへ引きずり倒す。なにかを言おうと大きく開かれた口内へ躊躇なく氷弾を撃ち込み、黙らせた。一切の容赦なく、世槞を襲った男たちは世を追い出された。


「この剣は、お前ら等などには渡せないんだよ。絶対にね」


 動かなくなったリーダーの手から灰かぶりの剣を奪い返し、紫遠は姉の元へ駆け寄る。すぐさま怪我の具合を確認し、そして悔やんだ。


「紫遠……ごめん、家が……」

「……この状況で家のこと心配するなよ」


 自分の名前を口にする世槞の頬を撫で、長い溜め息を吐く。頭痛も感じるようで、眉間に皺を寄せながら頭を振っていた。考え込むようにしばらくうなだれていた紫遠は何かの気配を察知し、周囲を見渡す。何もない。


「紫遠、まだ他に不法侵入者がいるの……?」


 気を張り詰めたままの弟の顔を見上げ、世槞はその腕を引っ張る。


「さっき警察に通報したんだけど……羅洛緋が言う通り、役に立たないよね。愁にも連絡……入れ」

「きっとそんな時間は無いと思うよ」


 紫遠は言葉を遮り、姉の具合を看る。


「肋骨が二本折れてる。内蔵も傷ついてるね。……でも動ける?」


 世槞は頷く。


「よし、じゃあ逃げよう。この家からなるべく遠く離れるんだ」

「……どうして?」

「おそらく、なんだけど……やつらは……」


 紫遠は歯切れが悪い。何が起きているのかわかっているようで、わかっていない。少なくとも黒マントの男たちの目的だけははっきりとわかるようだ。


(灰かぶりの――いや、シャオの剣って何だろう。あの黒マントたちは何者だろう)


 言い淀む弟を問い詰めたくても、腹を蹴られた衝撃を未だ引きずっており、痛くて声を思うように出せない。

 世槞は紫遠の傍らに置かれた錆びた剣——おそらく全ての元凶と思われるものを忌々しげに睨みつけた。


(そうよ。こんなものがあるせいで、変なやつらを寄せつけてしまったんだ。遠いところまで行ったら、捨ててやる)


「行こう」


 紫遠は世槞の身体をなるべく優しく抱き起こし、しっかりと手を握る。世槞はまだ迷いがあるようで、まるで家を捨てろと言わんがばかりの弟の物言いに拒否反応を示す。このときはまだ、事の重大さに気づいていなかったのだ。

 世槞は渋々、玄関口へと向かう。


「――逃がしはしまい」


 低い声が耳元へ届いた。

 今しがた外へ出ようと握った玄関扉のドアノブが、忽然と消えた。いや、消えたのではない。玄関全体がぐにゃりと歪んだのだ。まるでそこに時空の歪みが発生したかのように空間がうねり、歪みからあの黒マントの男たちが合わせて十人、現れた。

 世槞と紫遠は同時に玄関から飛び退き、互いの手を更に強く握り合う。


「ど、どういうこと?! 何もないところから現れた!」


 正常に物事が考えられず、世槞は悲鳴をあげるばかりだ。最初から今まで、何一つの出来事も理解ができていない。


「これは……本格的な捕縛作戦か……」


 紫遠の目は、自分たちの背後にもそれまでなかった時空の歪みが発生している様を捉えていた。下唇を噛み、片手から伝わる姉の焦りを感じる。


「仕方ない。――氷閹(ひえん)!」


 その名を呼んだ瞬間――紫遠の黒い影から吹雪が吹き荒れる。最初こそ小さな渦を巻いていた吹雪は十秒もしないうちに家全体へと広がる。やがて影はひとりでに動き出し、そこから巨大な三日月型の鎌を持った人型の生物がむっくりと起き上がった。身の丈四メートル、漆黒のローブが全身を覆い、僅かに見える肢体はひどく青白い。口元はニヤリと半円を描き、まるで死神のような禍々しさは――氷を司るシャドウ・コンダクター、紫遠のシャドウ――氷閹だ。


「氷閹、この家がどうなってもいい。とにかくそいつらを全員殺せ!」


 紫遠は死神に命じた。死神は命令を受けることが悦びであるようにニヤリと笑い、低くおぞましい声で《承知した》とだけ言った。

 館内に吹き荒れる吹雪は一段とその激しさを増す。足元はすでに雪で埋まり、冷たさで感覚が無くなる。男たちの何人かが倒れている。


「なるほど! これがあの氷の使い手か! 神々が創世したこの世界までわざわざ出向いた甲斐があったというもの!」


 吹雪の中、黒マントの男たちを振り返ると、数が先程より増している気がした。あの時空の歪みから次々と際限なく現れているのだろう。


「おい、捕まえたぞ!」


 腕が進行方向とは逆に引っ張られる。吹雪でよく見えないが、黒マントのうちの一人が世槞を捕まえたらしい。


「セシルはここだっ……うわぁっ」


 紫遠がその腕を素早く斬り落とす。噴出した血が、吹雪の効果ですぐに冷えて固まる。パラパラとおはじきのように床に落ちる血は、すぐに雪に埋もれて見えなくなる。


「……紫遠、それ」


 しかし世槞は、弟が手にしていた武器を見て硬直する。あの、灰かぶりの剣――錆びついていて、全く抜くことの出来なかったそれが、鞘からするりと抜かれていたのだ。

 しばしの静寂が訪れる。錆びついた剣が放った刹那の輝きに、黒マントの男たちが見とれていた。


「…………」


 紫遠は無言のまま剣を鞘に戻し、世槞に託す。


「姉さん、これを持って君1人で逃げてくれ」

「?! なに言ってんの?!」

「これはやつらに渡してはいけないんだ、多分……いや、決して」

「それはわかった。でも、逃げるなら紫遠も一緒に!」

「僕はやつらを足止めする。その隙に」

「嫌よ! なんで? 一緒に逃げるって、お前言ったじゃん? どうして弟を置いて私だけ逃げないといけないの!!」


 子供のように聞き分けなく喚く世槞の両手を握り瞳を真っすぐに見つめ、紫遠は優しく諭すように言う。


「やつらの狙いは姉さんと僕なんだろう。二人とも捕まるわけにはいかない」

「紫遠だって捕まる必要ないよ! ほら、こんなくだらないこと言い争ってる間に逃げられるじゃない! 早く――……」


 続きの言葉が、出せなかった。いや、塞がれた。

 何が起こったのかすぐには理解が出来なかった。極寒の地のように寒いこの家の中で、世槞の唇は血の気を失っていた。それを温めるためだったのかもしれない。紫遠は姉に覆いかぶさるようにしてその身体を抱き寄せ、唇を重ねた。時間にして一秒も経っていないだろう。互いの唇が離れた瞬間に紫遠は世槞の両肩を力の限り突き飛ばした。


「痛っ……!?」


 しかし床に倒れ込む感触はなく、そこに出現していた時空の歪みに世槞の身体はのまれていた。

 すぐに伸ばした手は弟には届かず、遠く遠く離れる。まるで自分だけ蟻地獄へ吸い込まれていく感覚だ。


(なに、これ……)


 視界が歪み、思考が歪み、まともに物事を考えられなくなる。

 家が歪む。吹雪が歪む。紫遠の悲しげに微笑む顔が歪む。

 ぐにゃりと歪む世界の中、複数の黒マントたちが一斉に紫遠へと飛びかかる瞬間だけがはっきりと見えた。


「紫遠――――!!!!」


 歪む。

 全てが歪み尽くされた後に残ったものは、この悲しみの気持ちだけ。


 世槞は、意識を失った。

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