木枯らし一号

予約時間ぴったりに現れた女性客は、カウンターの向こうの席につき、手袋を脱いだ。顧客情報によると三十五歳だ。

「寒くなりましたね。木枯らし一号ですって」

と天気の話をはじめた。私は自分から天気の話をしない。天気予報を見れば分かることだし、話題にしたからといって、自分の次の行動になんの影響もないから。

「木枯らし一号ってどういう意味なのかな?」

「冬型の気圧配置で吹く風のうち、その年の最初に吹く風ですね」

「二号とか三号とかはないの?」

「ありますが、わざわざ発表されません」

手元の端末でで検索した結果を読み上げる。さっさと仕事に取り掛かろう。

「本日はいかがいたしましょうか?」

「そうねぇ」

ぼんやりとした表情で、その客は、ネイルが剥げかけた爪を突き出した。

私は道具を使ってトップジェルを軽く削り取り、その後でリムーバーの溶液を使って、ネイルジェルを取り除く。いきなりリムーバーを使うと時間がかかってしまう。

「事務の仕事をしていたんだけど、最近は機械に代わられちゃった」

「でも、お仕事は続けていらっしゃるんでしょう?」

「ええ。でもせっかく身につけた経理の知識は、全然つかってなくてね」

大きめのブラシを選んで、十本の爪にすばやく塗っていく。小さいブラシだと時間がかかるのだ。丁寧な仕事をしているが、無駄な時間を使ったりしない。

「異動ですか?」

「ううん。決済するおじさんのご機嫌取りをしたり、愚痴を聞いたりしている」

「それは疲れますね」

「そうなのよ。帳簿と違って、くだらない話をするしね。はぁ、この間もね…」

「お待たせいたしました。仕上がりました」

もう少し話したそうだったけれど、ネイルは完璧に仕上げてあるのだから、もうお互いに用はない。

その客は、自分のネイルの写真を撮り、ソーシャル・ネットワークにアップした。すぐにいいねがついたのだろう。嬉しそうに微笑んでいる。

「本日はありがとうございました。またお待ちしております」

愚痴を聞くだけで給料をもらっているような、非生産的な人間の話はつまらない。ポケットから小さなノートを取り出して、ページをめくる。「正」の字がたくさん並んでいる。最後の書きかけの字に、一画追加した。素人のいいねの数ではなく、プロとして自分自身の納得がいった仕事こそが、真の価値だと思う。このノートの正の字がその記録になっている。


翌日、本社からの指示で、ちょっとした展示会ができるような施設に向かった。隣のスペースをちらっと覗くと、家庭用のエスプレッソマシーンにタッチパネルが付いたような機械が並んでいた。キッチン家電の展示会だろうか。スーツのビジネスパーソンではなく、普段着の華やかな女性が多い。

会場には同じ会社から、私を含めたトップスリーのネイリストが席に着いた。ここ数年、顧客への感謝祭と、ネイリストの評価を兼ねた競技会のようなイベントを定期的に開催している。ネイルのクオリティはもちろん、素早さも評価の対象になる。オリジナリティや美しさも評価される。

普段からソーシャル・ネットワークにアップロードされている高評価の写真を見たり、実際にネイルをしてもらって、トレンドを見つけている。そして、私なりのアレンジを加えることで、オリジナリティを出す。突飛なことをしてはいけない。それでは一般人はついてこない。トレンドから、ちょっとだけ外す。爪の持ち主の、指や手の形、服装、キャラクターに合わせる臨機応変さも求められる。

すばやく、けれど慌ててはいけない。私たちトップネイリスト三人の顔ぶれは毎回同じだ。他の二人も私と同じように、スキルを上げている。継続的な改善と変革。

何十人ものネイルを仕上げた。来月にはこのイベントのボーナスも入るだろう。三人のうち、今年は誰が最高評価だったのかを気にしながら、会場を出た。


しばらくしてから、給与口座に振込があった。いつもより、いや、自分の月収に比べてすごく大きな額が振り込まれていた。その日は、珍しく午後にまったく予約がはいっていなかったが、代わりに珍しい訪問が二件あった。宅配便で大きなダンボール箱がいくつか届いた。私は何も聞いていないので、開けずに置いておいた。それから、昼休み明けに社長が現れた。

「やあ」

「お疲れさまです」

「今日、君の口座に振り込んだお金なんだけど」

「確認しました。ずいぶん多かったのですが、間違いでもありましたか?」

「いや、間違いじゃない。君には今日で辞めてもらう。入金は退職パッケージだ」

評価でも売上でもトップスリーの私を解雇する、という意味がよく分からなかった。

社長がダンボール箱を開けると、家庭用のエスプレッソマシーンにタッチパネルが付いたような機械が現れた。

「新しいネイリストだ。明日からはこいつに働いてもらう」

見たことがある。ああ、そうだ。この間の感謝祭で、となりのスペースで展示されていた機械だ。

「ちょっと試してみるか?」

社長に言われるまま、ぼんやりと機械に指を載せた。いくつかの小型カメラがついていて、爪を撮影しているようだ。タッチパネルには計測中と表示されている。タッチパネルの上部にも小さなカメラがついていて、どうやら私の顔や服装を撮影しているようだ。

しばらくすると、ネイルがすばやく削り取られ、続いてアセトンで拭き取られた。大きめのブラシで、両手十本の爪にすばやく塗っていく。小さいブラシで細かい仕上げをする。十本の爪を同時に進めていく。単純計算で私の十倍だ。

「君たちとほとんど同じクオリティだろう。この間の最終テストでもいい成績だった」

機械の展示会ではなくて、テストだったのか。だから、女性が多かったのだ。

私はずっと作業を効率化してきた。オリジナリティの追求さえも、私は効率化しすぎていた。トレンドはあらゆるデータから集収できる。みんな嬉しそうにネイルの写真をソーシャル・ネットワークで公開しているのだ。顧客のデータだって簡単に集められる。機械のほうがうまくできる。


ずいぶん寒くなった。商店街のすみっこの共同店舗に入って、コートを脱ぎ、ハンガーにかける。いまは、ここが仕事場だ。テレビをつけて、お菓子を皿に盛って、ファッション誌を並べていると、最初の予約客がやってきた。

「いらっしゃいませ。寒くなりましたね」

「そうそう、ほんと、もうコートが要るよね」

天気予報を見ていれば、今日から気温が下がることは分かっている。家を出るときにコートが必要なことも分かっている。

「どうぞ、コートを預かります。こちらにおかけください」

「ありがとう。この間まで秋だったのにねぇ」

「今日は、木枯らし三号が吹いたそうですよ」

気温の履歴を見れば、いつから寒くなったか分かる。けれど木枯らし三号の発表はされないので、自分で風と温度を記録しておいた。

ネイルするだけなら、機械のほうが優秀だ。これ以上頑張っても追いつけないだろう。効率を求める人々は、私ではなく機械を選ぶようになってしまった。それなのに私を訪れる顧客がいたので、観察していると、機械が提供しないことを受け取っている。たとえば待合室に置き忘れた雑誌を読む、とかだ。

「今日はどうしますか?」

聞かなくても分かっている。冬らしいしっかりした色にしたい、と言うだろう。頭の固いおじさんがいる会社の経理の事務だから、派手にならない、ちょっと茶色が混ざった落ち着いた色だ。ファッション誌でも紹介されていた。けれどそれを確認することが大事なのだろう。機械があえてやらないこと、それが私の生き残る道なのだということを、受け入れることにした。悔しけれど。

「もう冬になっちゃたから、冬らしいのがいいかな」

「冬らしい…そうですねぇ」

「ちょっと濃いめがいいかなぁ」

「少し茶色を入れてみましょうか?」

「うん、それがいい」

経理担当者が上司と世間話をするように、私はネイルをしにきた顧客と天気の話をする。おかげで、以前に比べてずいぶん時間がかかるようになってしまった。

「きれいにしてくれて、ありがとう」

「ありがとうございました」

「ここでやってもらうのが嬉しくて。また来るね」

顧客は帰っていった。私はノートのページをめくり、正の字に一画追加する。

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