第1話(1)価値ある紙切れ
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視野の左上、ヘルメット型のVR機器コネクトキット、その半透明なバイザー部分、そこに表示されている現在時刻はコロンを点滅させ秒を刻んでいた。
サービス開始から十五分経過、内心無理と思いつつも試している自分がいる。
目をつぶり「コネクト・イン」と唱えた。
真っ暗な視界は、正面の一点から一気に明るさを増し、白い空間となる。
中央にふわりと淡い青色のパネルが浮かんだ。そこには『Connect senses...』と書かれ、続けて『Sight』『Hearing』と十個ばかりの英語の項目がずらずらと現れるも、すぐに全てにOKという表示が加わって消えた。
次のパネルが浮かぶ。『Castle of Iron Online』。今、コネクトキットに装着しているゲームタイトルだ。下には『Log in』『Sign up』『Connect out』とメニューが並ぶ。すぐさま、一番上の『Log in』を選ぶ。
触れたところから波紋が広がった。ふとボタンを押した手に目をやる。手首から先、宙に浮く白の手袋。人種・性別・年齢をわかりにくくして、接続直後の初期アバターを単純化するため、と何かで読んだ覚えがあった。
画面はユーザー名とパスワードを求めていた。白い指がホロキーボードを叩く。βテスト時に作ったnekokenというユーザー名に、本名と誕生日を組み合わせた、いつもの十五文字のパスワードを入力し、ログインボタンを押した。
光速の通信だが、時間を体感できるぐらいの待ちが入り、そして、ふわりと黒背景に白文字のダイアログが現れる。
『ログインに失敗しました。
《Castle of Iron Online [Closed Beta]》がセットされています。
《Castle of Iron Online》をセットし、再度ログインを試してください。』
わかってはいた。だが、諦めたくはなかった。メニューの『Sign up』から新しいユーザーを作ろうとする。
さっきとほぼ同じ、一行目が『サインアップに失敗しました』となったところだけが違う、ダイアログが現れる。
ため息をついても、ログイン前のこの空間では息を吐いたことも感じやしない。
谷中は諦めたように『Connect out』を押した。
目を閉じているという感覚を取り戻し、ぼんやりと瞼を上げる。部屋の天井がバイザー越しに見えた。左上の時刻は試行錯誤で五分ばかり使ったことを示していた。
むっくりと起き上がり、頭の重量物となったコネクトキットを外して置く。その隣にあった箱が目に入った。黒衣の少年剣士と白服の少女剣士が描かれたパッケージ。ロゴより目立つのではないかというβの文字。ログインの実験のために引っ張り出してきた、キャッスル・オブ・アイアン・オンラインのベータ版のケースだ。
無理にでも正式版を買えばよかった。そんな後悔しかなかった。
*
一昨日、十一月四日、金曜日。
いつもより素早くキーボードを叩き、せわしなくマウスを動かす。作業は進めつつも、忙しく見えないといけない。考え込みでもしたら、五分もしないうちに頭のおかしい上司から「手が止まってるぞ!」と激が飛ぶ。そういう邪魔をされたくないので、効率を落としても仕事をやっている感じを出すしかない。
今日は絶対に帰る、そう決めていたからだ。
明日、その翌日、明後日、日曜日にサービスを開始するキャッスル・オブ・アイアン・オンライン、そのソフトを買える最後のチャンス。だから、なんとしても今日――
「おい、宮井! お前、こんな資料で良いと思ってんのか? こんなので“お客様”が導入したいと考えてんのか? あ?」
怒鳴っていないと本人は主張する上司の怒鳴り声が、広くはないオフィススペースに響き渡る。
「……あ、いえ……いや、少し難しいかもしれません……」
同い年の仲の良い同僚は縮こまるようにうつむいていた。
「わかってんならな、最初からまともな資料を出せ! バカ! GECだったらな、そんなんじゃ、やってけないぞ!」
同期を叱りつけるデカい声が嫌でも耳に入り、脳はツッコミを入れる。そりゃ、上司の前職である全世界百七十カ国以上に展開するアメリカのグローバルIT企業GECと比較したらそうだろう。貰える給料が一桁違う。大体、その指摘、ここに来てから毎週聞いている。そんなにGECが良いなら辞めるなよ。頭おかしいんじゃねえの。
とはいえ、こう怒鳴り散らすからクビになったと噂されるぐらいだ。まあ、そうなんだろう。そんなことを考えていたからか、手が止まった状態で上司と目が合った。逸らすが手遅れ。
「谷中ァ! もう終わったのか!?」
「いえ、まだです」
「だったら、手を動かせ! バカ! 来週、二日有給取るからってなぁ、甘えてんじゃねーぞ! 仕事はその日もあんだからな! あ?」
「はい、わかってます」
よどみなく返事をしたのがいけなかったのか、クソはこちらを睨みつける。
「じゃあ、いつ終わんだよ?」
しまった、と思うがもう遅い。これでこいつの納得が行くタイムリミットを設定しなくてはならない。一方でそんな納期だと今日の帰宅は絶望的だ。
少し考えた瞬間、後ろからデカイ声が飛ぶ。
「大丈夫です! 桜木部長! 明日朝には完璧な状態で、お渡しさせて、いただきます!」
日吉という、このクソ上司に日々怒鳴り散らされ、頭がおかしくなってしまった先輩がハキハキと答えやがる。というか、“明日朝”、“完璧”とか、帰宅不可能、徹夜確定じゃねえか、と一気に心が濁っていく。
「そうか、日吉。お前を信じよう。俺は一度帰る。朝イチで資料取りに来るからな。それまでに完璧にしておけ」
奴は一人帰り支度を始め「終わらせろよ!」と言い残して、出て行った。
「じゃあ、完成まで頑張ろう! な!」
なんで、あんたはそんなに元気なのか、ああ、洗脳されたからだよな、と思うしかない先輩の掛け声がする。誰も反応せず、ただ、キーボードを叩く音、マウスを動かす音、それとノートパソコンのファンの音だけが響いた。
三時間は経っただろうか。眠気を晴らすように目尻を押さえた時、視界の片隅に何かが入る。コトリと置かれたのは紙コップ、「同情するよ」と宮井がインスタントコーヒーを入れて差し入れてくれていた。
「ありがと」
グッと飲む。苦味が口に広がり、眠気を散らした。
谷中がゲームのためにと翌週の有給を申請したのはひと月前のことだ。だが、律儀に休みを願い出たりしなければ良かった、と今は思う。誰も有給を使っていない部署で休暇を望んだらどうなるのか。人間性がイカれた上司によって、先月からずっと休日出勤が突っ込まれ、連続出勤は一ヶ月を超えていた。
谷中は壊れたように笑みを浮かべる。
「しかし、難儀なものだな。ベータ当てて、優先購入券を手に入れたっていうのに。買いに行く暇が無いなんて」
そんな表情を見た宮井は慰めの言葉をかけた。谷中はコーヒーをひとすすりする。
「ホントそうだよ」
財布を開き、札と同じく真ん中で折れ曲がったキャッスル・オブ・アイアン・オンラインの優先購入券をおもむろに取り出した。パッケージと同じロゴとイラストが描かれた光沢紙は、ホログラムが埋め込まれ、シリアル番号も刻まれた立派なものだ。それは自分の財布の中で、今もっとも、無論一万円札よりも、価値ある紙切れだった。
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