第4幕 疑心暗鬼という名の鬼が僕の心を少しづつ支配していく

 フィリアがせっせと旅支度を整えている間、一息ついて自分の体の方のことを考える余裕ができた。

 あわや生きたまま火葬場で焼かれそうになり、斎場で大暴れしたきりだ。

 僕の体の方はいったいどうなってしまったのだろう。

 僕は自分の体がまだそこにあることを確認するように手で触れてみた。

 そしてつまづかぬように床を手のひらでタップしながらう。

 中指が何かに触れた。

 人の気配がした。そして心なしかそれは近づいてきているようだ。僕は頭を巡らすが、見ることも聞くこともしゃべることもできない。

 どうすることもできぬまま、部屋にいる何かに僕は手をつかまれた。僕の手より小さいそれは、暖かく柔らかい。女性の手と直感したが知らない手だ。

 僕は両の手を急に何者かにつかまれ、びくりと強張った拳を握る。僕の手を握ったその手は次々と形を変えていく。むりやり両手の人差し指を引っ張られ、胸の前で互い違いにぐるぐると回される。

 いったい何の意味があるのか、今度は拳が突き出されるように腕をひっぱられた。

 これは手話だ。両手人差し指を互い違いに前方で回転させるのは「手話」という意味、肘を張って拳を突き出すのは「行う」という意味。二つの手話を組み合わせることで「手話をしよう」という意味になる。

 僕は元の世界に体しかないから、しゃべれないし聞き取ることができない。手話ならば手のひらの感触で意思疎通ができるじゃないか。

 僕は下にした右手のひらを上げて人差し指で右斜め上を指した。そのまま右手を胸の前に寄せて、同じ形にした左手とくっつける。右手で自分を指差す。手の甲を相手側にして、指は下向きに。側頭部を横になでるしぐさ。口に人差し指を押し当てて前に振る。

 順に「初めて」「会う」「私」「ね」「黒」「言う」という意味だ。繋げると「はじめまして、私は根黒と言います」といった言葉になる。

 相手から「はじめまして、私は入谷楓いりやかえでと言います」という手話が返って来る。かつて患者のためにと始めた手話の勉強が、自分を助けることになるなんて。何がどこで役立つかわからない。

 拳を力強く振り下ろす「元気」の手話。手のひらを手前に突き出す「~ですか」の手話。元気なわけがない。すべてがイヤになり、病院を飛び出した。首だけ異世界に入り、危うくモンスターとして殺されそうになった。現実に取り残された体のほうも死んでいると思われて生きたまま火葬されそうになった。なんとかこの異世界の中で安全そうなサイフ村にたどり着いたが、首だけじゃフィリアがいなければ移動することもままならない。体のほうはしゃべることができず、楓さんと手話でコミニュケーションを図るのがせいぜいだ。

 そんなとりとめもない言葉を手話で伝える。僕もそうとう参っていたのだろう。こんな話、信じてもらえるわけがない。

 ところがかえでさんは驚くべき素直さで僕のいうことを信じた。





 フィリアの準備が整い、僕たちは旅立った。

 予想はしていたが、歩きだ。

 僕はまだ良い。フィリアが運んでくれるのだから。

 疲れているはずなのに羊の胃袋でできた水筒の水を口に含んで、フィリアは口移しで僕に飲ませてくる。

 僕は歩いていないのだから、たいして疲れていない。それなのに貴重な水を飲ませてくれる。

 でも、別に口移しじゃなくてもいいんじゃ? 水筒から直接飲ませてくれればいいのに。

 フィリアはことあるごとにキスをしてくる。朝、抗菌作用のある木の枝を僕の口につっこみ歯をみがいてくれた後、仕上げにキスですすいでくれる。

 昼ごはんを食べた後に舐めるようにキス。

 夜寝る前におやすみのキス。

 最初はスケベ心で僕も負けじとキスをしていたんだ。フィリアは僕のことが好きなんだろうなって。それにしたってフィリアのキスの回数は多すぎる。

 ちょっと変な娘だぞと思い始めていた。

 疑心暗鬼という名の鬼が僕の心を少しづつ支配していく。

単に僕を利用するために篭絡ろうらくしようとしているのではないか。しかし首だけの僕に利用価値があろうはずもない。フィリアはこんなにも尽くしてくれるのに、下種げすの勘繰りをする僕。だが異世界に飛ばされた先で都合よくひとめぼれされて世話してもらえるなんて、どうにも話がうますぎる。ただの生首の僕にそんな魅力があるとも思えない。いや首から下だって魅力はないけどさ。考えても結論はでなそうだ。とりあえず僕は全面的に信用せず、フィリアのことをキス魔だと思うにとどめた。

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