【Kṣatriya】タケル
タケルは蛇が嫌いだ。
彼は蛇が恐ろしい。悲鳴も出ないほど、蛇が恐ろしい。理由などない。物心がつく前から、蛇が恐ろしい。
タケルは、約束の時間の30分前から待っていた。
駅の近くにあるというのに、個人経営の老舗だからか、客もまばらな喫茶店。よくいえば昭和レトロな店だ。タケルのような若者が好むカジュアルさは、店内のどこにもない。まばらな客にも、白髪とシワが目立つ。
だが、彼はここを気に入ってる。幼いころ、祖父に連れられてきて以来、ずっとお気に入りの喫茶店だった。
アイスティーに浮かぶ氷は、ほとんど溶けてしまっている。コップについた水滴が、グラスを伝ってコースターをじわりじわりと濡らしていた。ストローに口をつけようとして、やめる。
「来ないよなぁ」
財布を拾ってくれたミコトが、怖かった。蛇のような人だった。彼女があの蛇に違いないとわかった。彼女に話がしたいと声をかけるだけで、どれほどの勇気を必要としたか、彼自身もはっきりとは思い出せないだろう。極度の緊張、恐れ、使命感、さまざまな感情が混ざりあっていたのだから。
ため息をまたついて、スマホに手を伸ばす。
あえて連絡先を交換しなかった。一度だけ、話を聞いてほしいだけだ。
携帯電話が普及する前は、誰かと待ち合わせる度にこんな思いをしていたのだろうか。想像もしたことのなかったひと昔前に思いを巡らせながら、スマホに目で時間を確認する。
約束の時間まで、あと4分。
タケルがいるのは、入り口がよく見える窓際のボックス席。
急に喉が渇いてきた。しばし逡巡してから、グラスに手を伸ばすと、カランカランとドアベルが鳴った。
顔を上げる直前に、彼女が来たという予感があった。
無造作に髪を一つに束ねた目の細い蛇のような女。
声をかけなくてはと、タケルが立ち上がる前に、彼女と目があった。
心臓がすくみあがったタケルは、手にじんわりと汗をかいた。まるで、蛇に遭遇してしまった蛙になってしまったようだ。
軽く手を上げたミコトは、シシッとタケルに笑いかけた。靴底を滑らせるようにして彼女がやってきても、彼はまだすくみあがっている。
「よう、少年。また、そんな顔をするんだな」
「え、あ、すみません。わざわざ来てもらったのに」
タケルの慌てようがおかしかったのか、ミコトはまたシシッと笑う。気にするなということらしい。彼の向かいに座り、彼女は店員にアメリカンコーヒーを注文してテーブルの上で腕を組む。
鼻歌でも歌いだしそうな彼女の顔を見て、タケルは乾ききった唇を湿らせた。
「あ、あの、この店、禁煙でしたけど、その……」
「ん? ああ、あたし、吸わないから」
「そう、ですか」
彼女を喫煙者と決めつけたことを、タケルは恥じてうつむいた。彼は、純真な少年だった。そんな彼をミコトは眩しそうに目を細めたが、すぐにいつもの唇を歪めた笑みを浮かべた。彼女を喫煙者だと間違えるのも無理もない。飄々とした雰囲気とジャケットに隠れて見えないタトゥーのせいで、吸わないと聞けば、たいていの人は意外だと驚く。
「で、話ってのは?」
「え、あ、はい。ちょっと、すみません」
謝罪する機会を失ってしまった。急に喉の渇きに襲われて、タケルはストローをくわえる。
早くも運ばれてきたアメリカンコーヒーに、ミコトは山盛り二杯の砂糖を躊躇なく入れた。これも、タケルには意外だった。
「ミコトさんは、前世の記憶とか、そういうの信じてますか?」
「あ?」
冗談、あるいは斜め上の口説き文句かと思って、ミコトは笑い飛ばそうとした。だが、タケルは真剣そのものだった。
「いきなり、すみません。でも、ミコトさんに聞いてほしいのは、そういう話なんです。ただ聞いてくれるだけでいいんです。約束通り、おごるお金はありますから、聞いてくれるだけでいいんです」
「聞くだけ、ねぇ」
「笑い飛ばしてくれても、かまいません。ただ聞いてくれるだけでいいんです」
ミコトは細い目をさらに細めた。彼女がここにいるのは、タケルが好みの可愛い顔をしていたからだ。サクラに話したとおり、あわよくばという下心もあった。
「わかった。話せよ」
「ありがとうございます」
そもそも、ミコトは来ないだろうと考えていたタケルだ。話を聞かずに帰るとも考えていた。心のどこかで、それを望んでいたかもしれないと気がついた。だが、ミコトは話を聞くと言っている。ゴクリと喉が鳴る音を聞いた。
「僕、蛇が嫌いなんです」
「あたしも、蛇は嫌いだ。物心がつく前から、蛇を見ただけでムカつく」
前世の次は蛇かと、ミコトは小さくため息をついた。その小さなため息に、緊張しているタケルは気がつかない。
「そう、なんですか。あ、でも、僕は蛇が怖いんです。恥ずかしいですけど、中学生にもなって、笑い者にされるくらい怖いんです」
「ふぅん。ところで少年。あたしのこと、蛇だって指差したよね」
可愛い顔だからと棚上げしていた初対面を思い出して、ミコトの目がつり上がった。
「はい。ミコトさんをひと目見て、あの蛇だとわかりました」
一瞬だけひるんだタケルだったが、不機嫌そうにコーヒーをすするミコトをまっすぐ見つめる。
「さっきも言いましたけど、僕は蛇が嫌いです。ミコトさんと同じように物心がつく前から。前世の記憶と言うには、すごく断片的で曖昧なんですけど、蛇を見るたびに蛇に噛まれて死ぬ光景がフラッシュバックするんです」
ミコトが何か口を挟むと考えて――あるいは期待して、タケルは少し間を置いた。だが、期待を裏切るように、彼女はコーヒーカップ片手に続きを待っていた。やはり蛇だと、タケルは手のひらに嫌な汗をかいた。
「その光景には、僕と蛇、それから若い女の人が出てきます。彼女は綺麗で……たぶん特別な人だったと、思います。曖昧すぎて、顔もわからないんですけど、そう思うんです」
それは、タケルの魂に影を落とす
「でも、男は――僕だった男は、彼女に暴力を振るおうとしてたんです。なぜだか、理由はわからないけど、怒りとか嫉妬とかぐちゃぐちゃになって、大切な人を傷つけようとしました。けど、彼女を傷つける直前、毒蛇が噛みついてきたんです。凶暴になっていた僕は、毒が回る前に蛇の頭を何度も何度も地面に叩きつけて殺しました」
ミコトの手にあるコーヒーカップは、少し前から口に運ばれることもソーサーに戻されることもなかった。適当に聞き流そうとしていたミコトが、聞き入ってる。タケルは魂に突き動かされるまま、語り続ける。
「蛇が死んだと思ったら、僕も毒が回って倒れました。蛇に噛まれたとき、すぐに死ねればよかったと、後悔したんです。大切な特別な人が、僕ではなく、頭の潰れた蛇を抱いて泣いていた――そんな姿、僕は見たくなかった。僕は――僕だった男は、蛇を殺したことを、後悔しながら死にました」
ふぅと肩の力を抜いたタケルは、びっしょり汗をかいているアイスティーのグラスを引き寄せる。昨夜から何度も考えてきた長台詞は、残りわずか。言い切る前に、喉が渇いてしまった。喉を数回上下させてストローから口を離した彼は、口元に自然な笑みが刻まれていた。憑き物が落ちたような笑みだった。
「その時の蛇は、ミコトさんだったと、僕は確信しています。あくまで、僕はです。ミコトさんにしてみれば、くだらない話だったと思います。僕も、前世の記憶とかオカルトは、信じてませんし」
でもと、まっすぐミコトを見つめるタケルは、もう怯んでいなかった。
「でも、話さなくてはって、理屈じゃない何かに突き動かされたんです。ミコトさんに、この話をすることで、何かが変わる気がしたんです」
ミコトは、ようやくカップをソーサーに戻した。少年は初めに言ったとおり、話を聞いてもらうことの他に、彼女に何も要求しなかった。
「で、実際に話してみてどうだった。何かが変わったのかい?」
「まだ、よくわかりません」
首を横に振ったタケルに、ミコトは目を細めた。ずいぶん正直な中学生だと、感心せずにはいられなかった。それから、彼に性的な下心を抱いたことを、少しだけ恥じた。聞き入ってしまった話を信じたわけではない。だが、彼の態度のせいで、笑い飛ばすことなどできなかった。ぼんやりと白いカップの中の黒く苦い液体を眺めることしか、できなかった。それはまるで、毒液のようで――
「あたしは、蛇が嫌いなんだよ」
ふいに口からこぼれた言葉に、ミコト自身が驚いて顔を上げた。
それは、ほんの一瞬のことだった。
昼前の喫茶店ではないどこかで、一人の女性が微笑みかけていた。まだ女になりきれていない少女が、頭をなでてくれた。インド映画か何かで見かけたような装束を身にまとった少女を、ミコトは低い位置から見上げていた。視界も、奇妙なほど歪んでいるが、気にならなかった。その少女が愛おしくなった。少女の黒い大きな瞳に映った蛇は、ミコトだった。
脳裏を駆け巡った一瞬の心象風景は、前世の記憶と呼ぶには曖昧だった。額に手をやって、何だったのかと思いだそうにも、少女の顔もわからなくなっていた。
「嫌いな自分の部分を見せつけられているようで、蛇は嫌いなんだよ」
「すみません、よく聞き取れなかったんですけど……」
額から手を離したミコトは、シシッと笑った。
「少年の前世の記憶とやらが本当なら、あたしの蛇嫌いは、同族嫌悪ってやつだな」
「あ、あの……」
申し訳なさそうな顔をしたタケルに、ミコトはひらひらと手を振る。
「いいんだ、少年。あたしを蛇みたいだと言ったのは、少年が初めてじゃないんだ」
「やっぱり……あ、すみません」
「シシッ。謝らなくていいさ。それで、聞いてほしい話ってのは、もう終わりかい?」
はいと、ミコトの態度に困惑しながらも、タケルはうなずいた。彼を突き動かした魂は、充分すぎるほど満足していた。今まで荒唐無稽過ぎて誰にも打ち明けられなかった話を、笑い飛ばされずに聞いてもらえれば、ミコトでなくともよかったのかもしれない。あれほど、ミコトが自分だった男を殺した蛇だと確信していたというのに、いまではよくわからなくなっていた。
高潔な魂に影を落としていた
急に落ち着きをなくしたタケルに、ミコトは気がつかないふりをして、テーブルの端の伝票を手を伸ばした。
「じゃあ、あたしはもう行くよ」
「あ、お金は……」
「シシッ。はなっから、少年におごってもらおうなんて、考えちゃいなかったさ」
でもと言い募ろうとしたタケルに、ミコトは息を感じられるほどの距離まで顔を寄せた。赤面するタケルに、あらためて自分の好みの顔だと再確認した彼女は、いたずらっぽく笑った。
「あたしが君を殺した蛇なら、きっと君が妬ましかったんだろうよ」
「それって……」
「そういうことさ、少年」
シシッと笑って、ミコトは行ってしまった。ドアベルの音が、はるか遠くに聞こえた。タケルは、追いかけることもできなかった。引き止める口実が思いつかなかったからだ。ふと口実を探したことに気がついたタケルは、急に気恥ずかしくなってストローをくわえる。
彼女はなぜ、自分が妬ましかったと言ったのだろうかと、すっかり薄くなったアイスティーを飲み干しながら考えた。だが考えても、彼には特別な人に暴力を振るおうとした男を妬む理由がわからない。
「また、会えるかな」
もう会えない気もしたが、タケルはあえて会いたいという気持ちを吐露した。
テーブルの上には、ミコトが飲み残したアメリカンコーヒーがある。ランチタイムで少しだけ賑わい始めた店内で、誰も自分に気を配っていないことを確認する。
そして、白いカップを手に取り、薄っすらと残る口紅に唇を重ねた。
すっかりぬるくなった甘すぎる
一つの
タケルは、もう蛇が怖くなかった。
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