蛇を抱いて生きる
笛吹ヒサコ
【nāga】ミコト
ミコトは蛇が嫌いだ。
怖いのではない。嫌いなのだ。
理由などない。蛇をひと目見ただけで、胸の奥で黒い不快な何かが生じる。嫌悪感を通り超えて、憎悪、殺意まで抱くことがある。それこそ生きた蛇に限らず、蛇のロゴマークでも、明確な嫌悪感を覚えるほどだった。
いつからと尋ねられれば、彼女は独特の短い笑い声をあげてこう答える。
「シシッ、物心つく前からさ」
ミコトは、長い手足とメリハリのきいたボディの持ち主だ。誰がどう見ても、美人の部類に入れる。ただ、つり上がった細い目とタトゥーのせいで、近寄りがたい。そのことを残念に思う男は少なくない。
その日のミコトは、結婚して三ヶ月という女友だちのサクラと事後の朝をむかえた。サクラの夫のかわりに、新婚夫婦のダブルベッドで。
昨夜のサクラは生理前ということもあってか、いつにもまして貪欲だった。ただでさえ性欲旺盛な彼女の体を満足させて、ミコトは泥のように眠りについたはずだった。なのに、また嫌な夢を見たとミコトは見慣れた天井を眺めている。
嫌な夢。
夢の細部まで覚えているわけではない。嫌な夢の残滓が、蛇と遭遇してしまったときによく似た不快感をもたらしている。その不快感も長くは続かない。いつもそうだ。それこそ、物心がつく前から。
夢の残滓を吐き出そうと、深く息を吐きだして目を閉じる。
ひどい雨の日のことが、夢の残滓の代わりに混沌とした記憶の沼から湧き上がってきた。
『おい、少年』
『へ、蛇っ』
よりにもよって、蛇嫌いの自分を蛇呼ばわりした少年の記憶だ。
嫌なことを思い出して、結局ミコトはまぶたを押し上げることになる。
横目で見やったサクラの寝顔は、いい夢でも見ているのか口元が緩んでいた。
「……、ぅ」
幸せそうなサクラの寝言を、ミコトは聞き取れなかった。だが、唇のかすかな動きから、彼女の旦那の名前だと読みとるのは簡単だった。サクラの寝顔を眺めているうちに、嫌な夢の不快な残滓が拭い去られた。
ベッドサイドのデジタル時計を見れば、『08:23』と青白く光っている。
ミコトはこっそりベッドを出ようとして、失敗した。彼女の張りのある乳房に背後から伸びてきた、細い十本の指。
「まぁだ、したりない」
寝起きで力が入りきらない指が外気で尖った乳房の頂をつまむ前に、ミコトはやんわりとサクラの手を引き剥がした。
「ミコトぉ」
「わりぃ、今日はもう駄目だ」
えぇと、サクラは不満の声を上げる。脱ぎ捨てた服を集めていたミコトは、振り返らなくても彼女が頬を膨らませているのがわかった。
「昼には旦那が帰ってくるんだろ?」
「そうだけどぉ」
服を集めたミコトは、シシッと笑って振り返る。
「それで、帰ってきたら、旦那も一緒に三人で楽しみたいってか?」
「いいでしょ、ミコトぉ。ケンちゃんも、きっとノリノリで参戦してくれるよ」
「まぁ、悪くないな。……けど、悪い、今日は先約があるんだ」
不満の声を上げるサクラを残して、ミコトはバスルームに向かった。
ミコトとサクラは、あくまでも友人だ。恋人でも愛人でもない。
全開にしたシャワーで、サクラとの一夜の余韻をきれいさっぱり洗い流す。
「シシッ」
きっと夫が帰ってきたら、自分には決して見せないような顔をするのだろうと考えると、ミコトは笑ってしまった。
二人を祝福して三ヶ月。夫がたびたび出張で家を留守にすることがあっても、二人の愛情は結婚前のバカップルのままだった。
たった一つの懸念材料だったセックスレスも、ミコトがこうして解決している。夫公認のセフレなど、周囲の他人はいい顔しないだろう。ましてや、サクラもミコトも女だ。下衆な表情を浮かべるのも難しいかもしれない。
夫のケンジは、サクラほど性欲が強いわけではない。こればかりは、愛情だけではどうにもならないことだった。
そのことで悩んでいたサクラに、酒の勢いでミコトが性的ないたずらをしなかったら、二人は結婚に踏み切らないまま別れを選んでいたかもしれない。
シャワーを止めたミコトは、友人が幸せそうで何よりだと、鏡に映った自分に笑いかけた。
夫公認で入り浸っているせいで、着替えも歯ブラシもミコトのものが揃っている。我が家のように身支度をしていく。
デニムのアンクル丈のパンツに、ボルドー色のボートネックのカットソーを着て、無造作に背中まである黒髪を一つに束ねた。
リビングに顔を出したミコトは、眉間に皺を刻んだ。それも一瞬のことで、すぐにいつもの表情に戻る。
「サクラ、せめてシャワー浴びてからにしろよ、そういう服は。夜にしろとまでは言わないからさ」
「いいの、これで」
ピンクのベビードール姿のサクラは、ソファーに座って投げ出していた足を組みかえる。見えそうで見えない魅力的な暗がりを意識させるかのように。
挑発的な彼女に、ミコトは目を細めて笑う。
「パンツくらいはけよ。旦那が帰ってくる前に風邪引くぞ」
「大丈夫。今はミコトを誘っているんだから。ケンちゃんが帰ってくるまで、しよ」
「無駄だから、パンツはけって」
ミコトはリビングを横切って、キッチンの冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出す。青いパッケージのペットボトルの蓋を開けると、サクラの声が聞こえてきた。
「ねぇ、その先約って誰?」
「ああ、この間、話しただろ」
ふた口ほどよく冷えた水を流しこんでから、ミコトは続けた。
「あたしを蛇だって指差した少年の話」
「よりにもよって、蛇嫌いのあんたをってやつね。……って、そいつなの?」
サクラには、信じられなかった。だがリビングに戻ってきたミコトは、愉快でたまらないという顔をしている。
二週間ほどの雨の日に、駅前で財布を落とした中学生くらいの男子に声をかけたら、化け物に遭遇したような真っ青な顔で、蛇だと呼ばれた。
ミコトが憤慨しながら聞かせてくれたのを、サクラは覚えている。気まぐれな親切心で財布を拾ってやったのにと、語気を荒くしていたのも覚えている。ミコトはいつまでも根に持つような女ではないことも、知っている。それでも、サクラは驚いた。
「どうして、そうなったのよ」
「シシッ。向こうから誘ってきたんだぜ」
「誘ってきたって、中学生でしょ。やるじゃない」
「そうじゃない。話がしたいからお茶をする約束をしただけだ」
「へぇ、財布のお礼?」
「さぁ?」
肩をすくめたミコトは、壁にもたれて目を細めた。
「ま、あれから、あたしが現れないかって、駅の近くを探してくれたみたいだし、無下にはできないさ。なにより、顔が好みだったからね。童貞をいただいちゃおかなって、な。シシッ」
「少年よ、がんばれ」
顔も知らない少年に、サクラは心にもないエールを送った。
「シシッ。じゃあ、もう行くわ。旦那によろしくな」
薄手のライトグレイのジャケットを羽織ったミコトを、サクラはリビングで見送る。
「本当に、ミコトらしいや」
奔放に見えるミコトにも、抱える何かがあることを、サクラは知っている。だが、それがなんだというのだろう。サクラにとって、それは、人一倍強い性欲だ。
そう、人は誰でも、何かを抱えているではないか。それこそ――
「物心がつく前から、ね」
泥のような不快なまどろみに、サクラは身を委ねる。
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