第15話  社長の秘書

 

 タクシーが走り出して、ぼくはすぐに気持ち悪くなった。

 

 駅まではたいした距離ではないはずだ。行きは歩いてきたのだから。ぼくは俯き加減に目を閉じて我慢していた。

 

 すると車が停まり、痩せた男が助手席から降り、後部座席のドアを開けた。

 

「こちらにおいでください」

 

 だるさと気持ち悪さで、ぼくは立ち上がれない。男に手を引っ張ってもらい、何とか立ち上がった。そしてよたよたと付いていき、ひとつの建物に入っていった。

 

 白を基調とした清潔感ある内装に、薬品のにおい。病院だとすぐに分かった。

 

 それにしては患者が少ない。痩せた男は受付を通り越して診察室をノックした。他の患者は大丈夫なのだろうか?

 

「秘書のイチカワです」

 

「あぁ、どうぞ」

 

 この男、あの社長の秘書だったのか。体中のぜい肉をそぎ落としたような体形は、いかにも切れ者という印象を持たせる。顔にも無駄な肉がなく、頭蓋骨の形が分かるようだった。

 

「田名瀬食品の専属病院です。どうぞ遠慮なく」

 

 男に促されて診察室に入ると、今度は一転、丸々と太った、こちらは「医者の不養生」を絵に描いたような先生がにこやかに迎えてくれた。

 

「昨晩診に行って経口液だけ飲ませたんだけど、やっぱり大丈夫そうだな。二日酔いがつらい程度だろ。よし、ブドウ糖1本打っておくか」

 

 そうか。昨晩誰かが部屋に来たことはうっすらと覚えていたのだが、この医者が来たんだな。ぼくはもやもやとした記憶を探った。深夜に医者を呼びつけたり、こうやって好きな時間に治療させたり、あの社長の持っている力が強大であることに、あらためて驚いた。

 

 注射を打たれ、ぼくはまたタクシーに乗せられて、駅まで運ばれた。その頃には、少し体が楽になっていた。

 

「それでは、来週の社長との約束をお忘れなく」

 

 別れ際、秘書のイチカワが言った。分かりました、とモゾモゾ言って、ぼくは振り向いて改札に向かった。

 

 ―― ブドウ糖、かぁ。

 

 現実世界で売っていた、ブドウ糖入りのチョコレートを思い出した。

 

 iPhoneをいじる気にならず、ぼんやりと車窓を見ていた。高架から見渡す、ずらりと並ぶ屋根。この異世界にも、たくさんの人が住んでいるんだなぁ。そして社長やぼくみたいに、現実世界から迷い込んだ人もいるんだろうなぁ。いったいどれくらいいるんだろう。広く世の中に向けて呼び掛けることができたとしたら、「あ、おれも! わたしも!」と挙手してくれるのだろうか。いずれにしても、社長の話と存在は、衝撃的だった。

 

 自宅の最寄り駅に着いたが、ぼくは通り過ぎて大学に向かうことにした。注射が効いて、だるさが吹き飛んでいたからだ。

 

 ―― でも、なんとなく、あの秘書にはこれからも会いそうな気がするな。

 

 ぼくは根拠なく思った。

 


 

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る