第2話 中編(1/2)
イラストの上達は速くもなかったが詰まることもなかった。
自慢ではないが俺には俗にいう『才能』というものがあったようだ。自分が書いた絵を見てどこが悪いか、どう直せばいいのかすぐにわかった。それに絵を書いている最中に集中が途切れるということもなかった。半日は平気で絵を書き続けることができたのだ。
瞬く間に過ぎていく日々の中、とある転機が訪れた。
新人賞だ。
大手というわけではないが、そこそこ有名なレーベルである。何処で描きたいという願望のない俺にはうってつけの機会だった。
すぐに、応募を決めた。
「というわけなんだ」
ちらりとカレンダーに目をやる。
六月二十九日。今からちょうど二ヶ月後が締切となっている。
「これからは本格的に漫画を書いていこうと思うんだ」
だからどう、ということはない。ただそう伝えたかっただけだ。別に応援が必要なわけでも、気を使ってほしかったわけでもない。
「そうですか……」彼女は目を伏せ、呟いた。
一瞬顔を曇らせたものの、彼女はすぐに顔を上げていつものような安心できる笑顔をたたえた。
「わかりました。応援しますね!あと一ヶ月、なにか私に手伝えることがあったら言ってください」
両手を胸の前で握ってやる気を表す彼女に、俺は笑いかけた。
「迷惑をかけるね」
「いいえ、大丈夫です!気にしないでください!」
たったそれだけの会話で、俺たちの生活は一拍分漫画に偏った。
自分語りになってしまうが、俺は今まで「何かをしたい」という欲が殆どなかった。
小学生の頃は学習「させ」熱心だった両親により多くの習い事をさせられていた。習字やそろばんなどのインドア系から水泳やバスケ、サッカーまでやっていた。おかげて義務教育時代は『やる気ないのになんでもできる人』というポジションだった。そんなおかしな立場のおかげで、いじめなどに合うこともなく平凡すぎる日々を送っていた。
そんな性格は高校、大学と変わらなかった。なにかしたいわけではない。故になにかしたくなったときのために将来の道を広げておく。そのために人並みと少しは勉強をしていた。
前置きが長くなってしまったが要するに何が言いたいかと言うと、大学三年生の半ばまでやりたいことがなかった俺はそれまでに卒業に必要な単位をほぼすべて取得していたのだ。もうそれは、これから大学に行く必要が無いくらいに。
漫画家を目指すまでに通っていたのは通っていたのは面白いことを見つけるためで、昨日まで通っていたのは絵を描く上で刺激になるものや運動不足を解消するためで。
大学に行く時間も惜しい今となっては行く必要なんてまったくないのだ。
故に、俺は今までどおりの時間に起床・就寝はするものの起きてから飯と風呂と多少のこと意外はすべて漫画に費やすこととなった。
そんな漫画一色の毎日、面白くないと思う人も大勢いるだろうがそうでもなかった。
自分でものを創っていく感覚はいつまでも新鮮であったし、そばには彼女がいてくれた。
最近彼女がうちにいる時間が減ってきているのは俺に気を遣ってくれているのだろうか。
『漫画』以外を黒く塗りつぶした世界で、俺は漫画に没頭していた。
時間は皆平等に流れると言うが、このときの俺にはそれが信じられなかった。
一ヶ月とはこんなに短いものだったか?と俺は自分自身に訪ねた。
目の前に茶封筒に入れられた完成原稿があるからには、それなりの時間が経っていたのだろう。
ふと、カレンダーを見る。
しかしカレンダーはなぜか五月のままで当てにならなかった。仕方なく携帯を探す。
数分探索し、布団の下から携帯を発掘する。日付は、六月二十七日。一応毎朝確認しているのだから、そうでなくては困る。
しばらく何も食べていなかったからか、不思議と空腹感はないものの頭が割れんばかりに痛い。さすがに何かを食べないと不味そうだ。
わずかにふらつく足で冷蔵庫までたどり着き、扉を開く。
ガチャ、と音を立てて開いた扉の向こうには、いくつもの洋菓子と賞味期限を過ぎた弁当しかなかった。
「まじかよ……」愚痴を漏らすが、だからといってどうにもなることはない。今からコンビニへ向かう気力もないので、仕方なく賞味期限が一番近い弁当を手にとってリビングに向かう。
途中、何かを蹴り飛ばした。
「……?」
痛む首を我慢しながら見ると、それは空き瓶であった。いつかに飲んだエナジードリンクだろう。
そんなに焦る時間でもなかったのに、と。今の俺は過去の俺を笑った。
しかし「少しでも良い作品を」と寝る間も惜しんでいた俺を笑うことはできなかった。
空き瓶から視界を広げると、俺は言葉を詰まらせた。そこには自宅とは思えないゴミ屋敷が広がっていたのだ。
絶句、というのはこの状況を指すのだろう。確かにそう実感した。
そこら中に転がる空き瓶、ゴミ袋、食べ終えた弁当。きれい好きを自負している俺にとってその光景は見るに耐えないものだった。
すぐに掃除をしなければ。しかし今のまま始めてもすぐにエネルギー切れになって倒れるだろう。
結局俺は完成原稿を避け、唯一綺麗な、先程まで使っていたデスクで食事を摂ることにした。
弁当をデスクに置いて椅子を引く。重たい腰を下ろしてからお茶を忘れたことに気づいたが、取りに行くのも億劫なので飲み物無しでの食事とする。幸い、割り箸は弁当に輪ゴムでくくりつけられていた。
弁当を開封しながら考える。俺は今までどんな生活だっただろうか、と。
しかし全くと行っていいほど思い出すことができないので『なんとか生きることができる程度の生活』と結論づけた。
「いただきます」両手を合わせ、箸を手にとった。
――ピンポーン。
誰か来たようだ。
反射的に椅子を玄関の方向へ向けるが、ふと気がついた。誰か来る予定などあっただろうか。
もともと人との交流が少ない俺の家を訪ねる人なんて彼女か郵便配達員かのどちらかだ。彼女は合鍵を持っているから入れるし、郵便配達員に至っては―お茶を取りに行くのも面倒な状況で―でなくてもいいだろう。
居留守を使うことにした。
椅子をデスク正面に戻し、握りっぱなしだった箸を持ち直す。改めて、弁当に手をのば――
――ガチャン。
「お邪魔しまぁす」
箸を開いた状態で、彼女と目が合った。
「い、いらっしゃい……」
ものが散乱している床に気をつけながら入ってきた彼女は俺と弁当を交互に見比べた。
「夕ごはんですか?」
「え?」
弾かれるように時計に目をやる。てっきり昼頃かと思っていたのだが、時刻は夜の七時を回っていた。こんな時間だったのか。
俺が返事をする前に近づいてきた彼女は急に声を上げた。
「このお弁当、賞味期限過ぎてますよ!?」
「う、うん……でもこれしかなかったから……」
「これ、食べてくださいっ」
彼女は持っていたレジ袋からコンビニ弁当を取り出した。
「賞味期限を過ぎているものは危ないんですよ。あんまり迂闊に食べないようにしてください」
プンスカと怒りながら弁当を取り替える彼女を眺める。
そういえば彼女はパティシエになったんだったな。だから賞味期限には厳しいのか。甘いものは腐りやすいからな……
「……そうだ、しばらく訊いていなかったけどもう就職先は決まったのかい?」
ピクッと彼女の動きが一瞬固まった。「い、いえ。まだです。もう少しなんですけど、どこも決め手がなくって……」
えへへ、と笑う彼女はそそくさと身を引いた。
いくつか気になるところもあったが、まずは弁当をいただくとしよう。
「弁当、ありがとう」
「いえ、気にしないでください」
彼女に一言感謝を伝え、弁当を口に運ぶ。
いつぶりの食事だったのだろうか。サラダを口に入れた途端、顎がじわっと痛んだ。しかしそんな痛みも「美味い」という感情にすぐさま流されていく。
無心で弁当を頬張り続けた俺はものの数分で一人前を平らげた。彼女の存在を背後に感じながら、安心して食事を終えることができた。
弁当を食べ終わるとすぐに二人で部屋の片付けに取り掛かった。
「ごめんね、手伝ってもらっちゃって」
「いえいえ、二人でやったほうが速いですし。それに私もきれいな部屋で少しでも長く一緒にいたいので」
と、彼女はこんなときでさえ笑顔を絶やさなかった。
手伝ってくれる彼女に感謝しつつ、俺はできるだけ早く片付けを終わらせられるよう急いだ。
なんとか、手際の良い彼女と同じくらいはこなせたと思う。
「終わりましたね」
「ほんと、助かったよ。ありがとう」
時計の針は午後九時を指していた。二時間も経ったのかと思う半面、部屋を見渡して二時間でこれだけできたのは上等だと思った。
コーヒーをいれながらリビングに居る彼女に声を掛ける。
「やっと原稿ができたんだ。明日ポストに投函してくるよ」
「あっ、とうとうできたんですか」彼女はこちらを振り返った。「おめでとうございます」そして、笑った。
コーヒーの入ったマグカップと角砂糖を彼女の前まで運んだ。
「かなりの自信作だよ。佳作くらいなら全然取れると思うんだけどなぁ」慢心ではなく、事実そう思っていた。
両手に持った皿を彼女の前において、自分の分を取るために台所に戻った。
「受賞、できるといいですね。そうしたら早速デビューですか?」
「本当にね。俺も漫画家に慣れたら君と対等になれるのに……」
コーヒーに角砂糖を入れていた彼女の手が止まった。
「私と対等……ですか?」トングで挟んでいた角砂糖がぽちゃんと音を立てて落ち、白いソーサーに黒い斑点を作った。
なんで?というような顔をしている彼女に対し、俺はコーヒーを持っていない方の手を横に振った。
「ごめんごめん、なんでもないよ。忘れて」
どうしてあんなこと言ったんだろうかと、自分でもわからなかった。
翌朝。うちに泊まっていった彼女と一緒に原稿をポストに投函した。ポストに向かって手を合わせる彼女に、思わず笑ってしまった。ただ、悪い気はしなかった。
受賞と一口に言ってもいくつかあり、最優秀賞から奨励賞まである。まぁざっくり分けると「よくできました組」と「がんばりました組」と「がんばりましょう組」に分けられる。受賞作品数は上から順に三作品、四作品、五作品だ。そして上位三作品は連載確約、それから四作品は多少の修正となる。
その中で佳作は「がんばりました賞」の中程に位置する。獲ることができれば、ほぼ連載を開始できるという賞だ。
それくらいは取れるだろう。
何度も言うが、そう思っていた。
漫画家は『なってからが難しい』としか聞いたことがなかったからだ。
現実は甘くない。当然そうだ。俺もその意見には賛成する。
ただし、現実を敵に回すのは努力をしなかったやつに限る。それが俺の持論だ。
しかし俺はできる限りの努力をした。これ以上無いほどに熱意を注いだ。
これだけすればいいだろう。そうとすら思うこと無く描き続けたのだ。二ヶ月間も。
俺が応募した新人賞の第一次選考結果が発表されるのは、締切から約一ヶ月後の八月三日だった。
そのレーベルの新刊発売日が毎月の第一木曜だそうなので、それに合わせているのだろう。
その一ヶ月。そわそわして時間を浪費するのが嫌だった俺は今度は大学の卒論に打ち込んだ。色んな意味で早すぎると思うかもしれないが、とにかくなにかしていたかったのだ。
最初は絵の練習時間の三分の一ほどを卒論に回していたのだが、卒論を書き始めた途端集中ができなくなってしまうことが多かったので七月半ばからは一日中卒論と戦っていた。速く終わらせたかったのだ。
結果、八月二日の昼頃に卒論が出来上がった。漫画に比べるとかなり手を抜いているが、将来に役立つものでもなければ心から書きたいと思ったものでもないので別にいいだろう。
その日の夜、結果発表のことを伝えてくれた彼女がうちに来てくれた。
「お邪魔します」
ガチャン、と鍵に開く音がしたので玄関まで出迎えた。
「いらっしゃい、わざわざありがとうね」
「気にしないでください。それよりも」彼女は持っていたビニール袋を胸の高さまで掲げた。「お祝いのケーキ、先に食べちゃいます?」
彼女を部屋に上げた俺は皿と飲み物を準備し、先祝の小さな宴を開いた。
それからしばらく。
日付が変わった後、俺は彼女から今日は何も予定がないと言うことを聞いた。どうやら久しぶりに一日中一緒に居られるらしい。
先祝のケーキを食べながら、俺は彼女に選考の順序を説明した。
「今日の朝七時にネットで発表されるのが第一次選考通過作品。それで第二次選考なんだけど俺が応募したレーベルは特殊で、第一次選考と第二次選考が同時に発表されるんだ。といっても第一次選考はネットで。第二次選考通過は電話でだけどね」
最後まで残していたショートケーキのいちごを飲み込んだ彼女は静かにフォークを置いた。
「ではその受賞作品というのは第二次選考を通過した作品から選ばれるんですか?」
「だいたいはね。でもこのレーベルに限っては第二次選考通過作品は三十作品。その中から十作品が受賞する」
「十作品ですか。でしたら……」彼女はすぐに気づいた。「残りの二作品は何処から来るんですか?」
「残りの二作品は奨励賞と言って、二次選考脱落者の中から選ばれるんだ」
このシステムについては賛否両論ある。二次選考通過作品はすべて担当編集がついて受賞までをサポートしてくれるらしい。対して奨励賞は担当編集がつくことには変わりないが主に超短編漫画や一枚絵などの仕事が多く回されるようになり、そちらで実績を積むとデビューとなる。
当然そんな仕事をしていると自分の書きたい漫画を書く時間は減るし、新人賞からのデビューもできない。故に辞退する人が多いのが現実だ。
「ただこのレーベルは二次選考突破作品数が他と比べて多くてね。更に担当さんもついてくれるから描きやすくなるんだよ」
「ということは、二次選考を通過して担当さんをつけてもらうのが狙いなんですか?」
「まぁそうだね。できることなら受賞したいけど。奨励賞以外でね」
そう言って、モンブランの最後の一口を口に放り込んだ。
一ヶ月間我慢していた「そわそわ」を、その日一日でやり尽くしたみたいだった。正確には一日ではなく十七時間だが。
まずするのは午前七時一分の話。
午前六時三十分、目覚ましで起きた俺はその後に待ち受ける一大事を思い出し、一瞬で意識を覚醒させた。
そして寝ている彼女を起こさないように静かに部屋を片付け、その時を待っていた。
彼女が起きたのは、結果発表の十分前だった。珍しく慌てた様子の彼女を見て、わずかに緊張が和らいだ。
「選考、通ってますかね……」
俺以上にそわそわしている彼女に、笑ってみせる。
「大丈夫。きっと通ってるよ」
時計の秒針がやけに大きく響く部屋で、俺たち二人は黙って間においたパソコンの画面を睨んでいた。
そして時刻が七時を回った瞬間に開いていたレーベルのウェブページを更新。先程までなかった『新人賞』というタグをクリックする。
ゴクリ、と固唾を飲んだ。
ダウンロードが終わり、画面にページが表示される。俺のペンネームは五十音順に並べると確実に一番下だ。全速力でスクロールし、ページの一番下までたどり着く。
そこからゆっくりとページを上げていき……
「「あっ」」
二人して声を上げた。
一番下から二番目に。俺の名前が乗っていた。
ゾワゾワと、体感したこと無い感覚が昇ってきた。
弾かれるように勢いよく彼女の方を向く。
同じことをしていた彼女と目線が合い、俺はまた声を上げた。
「よっしゃぁーっ!」
彼女もかすかに赤くなった顔で「おめでとう」と言った。
本当に嬉しかった。しかしそれと同時、新たな緊張感が俺たちを襲った。
問題の、二次選考だ。
結論から話そう。二次選考は通らなかった。そして、奨励賞も取れなかった。
前者は俺に大きなダメージを与えた。しかし、後者はもっと大きなダメージを与えた。
もともと何百とある作品の内上位三十に入るなんて難しいと思っていた。初めての作品で上位百に入ることができただけでもほぼ奇跡だ。
しかし奨励賞くらいは取れると思っていた。『奨励賞』というのが俺の最大限落とした希望であり、最低ラインの評価だったのだ。
それすら、獲れなかった。
そのことがひどく俺を傷つけた。
「大丈夫ですよ。初めて書いた漫画で一次選考を突破できただけでもすごいじゃないですか」彼女はいつもより良い姿勢で、言った。
「他の人が何年もかけてする努力をたったの二ヶ月でしたんですから、すごいことじゃないですか。この調子で後半年も頑張ったら最優秀賞だって狙えますって」
彼女は日付が変わってからずっと励ましてくれている。今日はなにか予定があるそうなので、もう寝なければ体に障ってしまうというのに。
そんな彼女に対して俺は、何も言えなかった。「ありがとう、頑張ってみるよ」ただその一言すら言えなかった。
言わなければいけないのに。そのことはわかっているのに。
ありがとう、とさえ言えない自分に無性に腹が立った。
そして本心を無視して口をついた言葉は、俺の意に反するものだった。
「ごめん、帰ってもらえるかな」
空気が凍った。
時が、止まった。
「わかりました……」
悲しげに呟いた彼女は静かに立ち上がり、荷物をまとめた。
俺はその間も机の上のケーキの載っていた皿を見つめていた。
一分足らずで準備を終えた彼女は玄関の戸を開いた。そして蚊の鳴くような声で呟いた。「お邪魔しました」
扉が閉まり、外から鍵がかけられた。
「次も、頑張ってみるよ……」
遅すぎるその言葉は、部屋の外から響く金属性の階段を下りる音にかき消された。
時刻は深夜零時四十五分。
華奢な女性が一人で出歩くにはいささか危なすぎる時間だった。
部屋の中には二人分の食べ終えた皿とコップ、ケーキの箱だけが残っていた。
新しい幸せに手を伸ばしてみた かスみ @toki0001
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