新しい幸せに手を伸ばしてみた

かスみ

第1話 前編

 きっかけとは本当に些細なもので。


 別に何年も夢見てきたというわけでもなくて。


 ただなんとなく、そうなりたいと思ってしまったのだ。




 俺には高校からの彼女がいる。色白で、身長はだいたい百五十前後。俺の肩くらいまでしか無い。その性格を一言で表すならば、一年付き合った今でも俺に対して『君付け』敬語な彼女である。


 そんな彼女と向かい合い、俺は自分の意志を伝えた。


 「俺、漫画家になろうと思う」


 たったその一言は無駄に長くその場に留まった。言い切った後になんだか恥ずかしくなってきて、顔をそらしたくなってしまった。


 フフっと、珍しく彼女が吹き出した。珍しさに恥ずかしさを忘れていると、彼女はいつものようにクスクスと笑みをこぼしはじめた。


 「べつに恥ずかしいことじゃないと思いますよ?どうしてそんな赤くなってるんですか?」


 口元を右手で隠したままの彼女の言葉に、俺は更に顔が熱くなったのを感じた。


 「いや、気にしないで。それで――」


 実を言うとこのことを彼女に話す必要はまったくない。しかしなぜだか、話さなければならないような気がしたのだ。偶然手にした漫画に感動した時、なにか考える前に起こした行動がこれだからだ。理由なんて、無いのかもしれない。


 それから彼女が右手を下ろすまでは、一瞬だった。


 「いいんじゃないですか?」


 そう言い残し、徐に彼女は立ち上がった。


 俺が口を開こうとするが、それを遮るように彼女が歩き出した。


 その足で彼女は台所に向かい、椅子にかけてあったエプロンを慣れた手付きで身につけた。


 いつもならその流れで冷蔵庫を開くのだが、今日はなぜか一度戻ってきて彼女のカバンに手をつっこんだ。


 「だって」


 そして中からトックを引っ張り出し、かぶった。


 「その気持ち、私にもわかりますから」


 ニコッと、両手を体の後ろで組んで笑った。


 彼女は子供の頃から一つの夢を追いかけているらしい。


 パティシエになる、という夢だ。


 理由は何度聞いても頑なに教えてくれないが、もう十年以上変わっていないという。それだけで、そう単純な理由でないことは容易に想像がつく。


 故に彼女は俺と同じ高校を卒業後、専門学校に通った。


 そんな立派な彼女に対して俺はと言うと、平均よりは勉強ができるからと若干名のしれた国立大学になんとなく進学したという始末だ。


 人間としては、彼女のほうが優れているのは間違いないだろう。


 もしかすると彼女に報告したのは、俺が対等な存在になりたいという願望をどこかで持っていたからかもしれないな。


 この年になっても子供っぽさが抜けていない自分を鼻で笑い、立ち上がった。


 「手伝うよ」


 冷蔵庫を覗き込んでいる彼女の背中に、投げかけた。


 「ありがとうございます」


 彼女はわざわざ冷蔵庫から目線をこちらに向け、返事をした。


 やっぱり、彼女は素晴らしい人だ。


 どうして俺なんかと思うことは度々あるが、いつまで立っても結論には辿り着けそうにないので毎度考えを放棄している。


 それだけ、今この状況は奇跡であり幸福であるということだ。


 俺はエプロンを身に着け、彼女の横に立った。


 一応俺も一人暮らしをしている。彼女には遠く及ばないが、料理もできる。


 彼女から見れば俺がやる作業はどれも効率が悪くじれったいだろうが、彼女は不満そうな顔ひとつせずいつも待っていてくれる。


 その顔はこちらが罪悪感を抱かないようになるほどに、輝いていた。むしろ、その状況を楽しんでいるのかもしれない。


 しかし俺も料理初心者ではない。そう失敗はしない。一般主夫並みには料理ができると自負しているのだ。


 二人で作業を分担したおかげか、二十分かからずに簡単な夕食が完成する。


 二人でリビングのローテーブルに料理を運び、エプロンを脱ぐ。そして、それぞれの席についた。


 「手伝ってもらってすみません」


 「いやいいよ。というか、俺がやりたかったんだ」


 二つのコップにお茶を注ぎ、手を合わせる。つられるように彼女も手を合わせた。それを確認してから、口を開いた。


 「それじゃ、食べようか」


 「はい」


 二人の声が重なった。


 続いてカチャカチャと食器がぶつかるような音がして、静かになった。


 俺は彼女が作った料理を。


 彼女は俺が作った料理を。


 それぞれ手にしたまま相手を凝視していたのだ。


 そんな事に気づき、二人同時に笑いだした。


 今まで何度も互いの手料理を振る舞ってきたのに、未だに相手の感想が気になるのだ。


 そのことがおかしくてつい顔をあげると、また彼女と目線があってしまった。


 「食べましょうか」


 「そうだね」


 もう一度小さく笑い、同時に一口目を口に入れた。


 よく咀嚼し、飲み込む。そして、感想を口にする。


 「うまいね」


 「美味しいですね」


 クスッと。今度は「またか」という意味で笑ってしまう。


 幸せとはいつの間にか感じなくなってしまうと言うけれど。


 俺にはそれが理解できなかった。


 付き合い始めて一年と数ヶ月。


 未だに俺は、幸せの真っ最中だ。




 幸せな時間というのはすぎるのが速い。幸せであればある程に速くすぎるというのだから、人間の感覚というのは残酷だ。


 四時間程度の幸せは、毎日変わらずあっという間に過ぎてしまう。


 今日も例外にもれず、一瞬で彼女と別れる時間になってしまった。


 「家まで送るよ」


 「毎日すみません」


 「気にしないでよ。こんな時間に女性が一人で出歩いてるのは危ないしね」


 特に彼女は細身で小柄。実年齢以上に見た目は幼い。


 夜の街には人一倍気をつけなければならない。


 対して俺は体格だけはそこそこだ。夜彼女を家まで送っていると、おまわりさんに声をかけられるくらいの見た目はある。


 毎日のことだから、この辺のおまわりさんとはもう顔見知りとなっている。


 俺は彼女より先に前に出て、玄関の扉を開けた。


 目に飛び込んでくるのは、いつもどおりの少し霞んだ夜空だ。


 あまりの変わらなさに目を奪われていると、突然脇腹に衝撃が走った。


 「ッ!?……なにするんだよ」


 俺が脇腹弱いの知ってるだろ?と。


 ジト目を向ける俺を気にすること無く、彼女は俺のそばをくぐり抜けた。


 そして「行きましょ?」と歩き出した。


 その後ろ姿に、俺は慌てて部屋の鍵を締めて彼女を追った。


 彼女の家までは徒歩で約二十分だ。


 決して遠くはないが、近くもない。


 もう少し遠ければ親に同棲を許してもらう材料にできたのに、と彼女と話したこともある。


 いつもはこの時間独特の雰囲気を楽しむために無言なのだが、今日は彼女から口を開いた。


 「漫画家……本気なんですよね?」


 疑問形ではあるが、その声音からして本気かどうかを疑っているわけではなさそうだ。


 単純に、この話題についてなにか話したかったのかもしれない。


 視界の隅で、正面を向いたまま口を開いた彼女に習い、俺も正面を向いたまま答えた。


 「もちろん。きっかけは小さいかもしれないけど、初めてこんなにモノを作りたいって思えたんだから」


 「そうですか……」


 視界の隅で、彼女が微笑んだ気がした。


 「なら心配はいらないですね。漫画家、頑張ってください。私も頑張りますからね!」


 彼女の家が見えてきた辺りで俺を追い抜いた彼女は振り返り、こちらに向かって微笑んだ。


 「ありがとう。頑張るよ。幸い絵にはちょっと自信があるんだ」


 それからの数分はいつものように明日の予定などについて話し、彼女とは別れた。


 「それじゃあ、また明日。おやすみなさい」


 「ああ、おやすみ」


 小さく彼女に手を振り、彼女の姿が完全に見えなくなるまで待った。


 バタン、という音を境に辺りの虫の声が大きくなったような気がした。


 「さて、帰りますか」


 寂しさを紛らわせるためか、無意識にそうつぶやいた俺は踵を返した。


 振り返った先の景色はいつも通りで落ち着く半面、これからもずっと変わらないのではないかというような気がした。


 僅かな寒気を覚え、俺は足早に歩き出した。




 帰路の真っ最中。もしかしてと思い立った俺は途中の曲がらなくていい交差点を曲がり、少し広めの道へと出た。


 お目当ての店に視線を向けると、店内が煌々と光っているのが見えた。


 あと十数分で九時なので、多分閉店はその時だろう。客がすでにほとんどいないように見えるし、きっとそうだ。


 信号のタイミングに合わせて歩く速度を調整し、ちょうど青になったタイミングで横断歩道に踏み込んだ。


 車のライトが眩しく、顔を左にそらし気味に歩く。


 横断歩道を抜けたすぐにあるのが、お目当ての文具屋だ。ガラス製の自動ドアに記されている時刻を見ると、やはり閉店時間は午後九時のようだ。


 自動ドアを抜け、元気のない店員の声を聞いた俺は立ち止まること無く足を進めた。


 買うものは決まっている。が、どこにあるかはわからないので天井から吊り下がっている案内板を確認しながら通路を進む。


 学生にとっては生活必需品である文具が見やすさ重視に並べられた棚の間を、俺は天井に視線を向けながらすり抜けていった。。


 当然、俺が買いに来たのは漫画関係の道具だ。予め下調べはしてある。俺のような初心者にはどのような道具が必要なのか、一応わかったつもりだ。


 生憎自宅周辺には大きな画材屋はない。故にほぼ強制的にここに来ることになったのだが、意外にもそれは正解だったのかもしれない。


 店の最奥の隅に『漫画』という板は垂れ下がっていた。


 人気が無いから隅に追いやられたわけで、品揃えも少ないだろう。足りないものはネットで注文しよう。そう思っていたのだが、実際は違った。


 決して広くはないが、限られたスペースに所狭しと。無駄が一切なく文字通り商品が敷き詰められていた。


 最低限の商品に関する情報以外は掲示されていない。しかし、俺がネットで見てきた画材はほぼすべておいてあるように見えた。もちろん、俺が求めていた商品もすべて揃っていた。更に言うとこれから必要になりそうなものも、全てそこにはあったのだ。


 良かったと安堵の息を吐きながら、商品を次々とカゴに放り込んだ俺は謎の高揚感を覚えながらレジへと向かった。


 どうやら今この店には店員が一人しかいないようだった。そこまで大きい店ではないので、一人でも十分回せるのだろう。


 あのときの元気のない青年が、レジをうってくれた。


 手早く会計を済ませた俺は、財布をカバンに突っ込みつつ文具屋を後にした。


 横断歩道を渡り、振り返ると文具屋の電気は消えていた。腕時計は、午後九時一分を指していた。


 ふと俺は一瞬、彼女の家の方向に顔を向けた。しかし俺の視界の先はすぐ闇に消えており、先程通った路地の奥さえ見えなかった。俺はまっすぐ家に帰ることにした。




 それからは特訓の日々だった。大学がある日も時間があるときはすべて絵に費やした。休日は食事も忘れて絵に没頭するほどだ。もともと絵を書くことは好きだったので、特に嫌気が差すこともなく特訓は続いた。


 例の文房具屋にも幾度となくお世話になり、あの青年とも多少会話する仲になった。


 その間も彼女は毎日のように自宅に来て、絵に没頭する俺を応援してくれていた。本当にかけがえのない存在だ。


 有意義な時間ほど速く過ぎていくのは常識で、どうやらこんな毎日は俺にとってかなり有意義な日々だったらしい。


 気がつくと、半年が過ぎていた。


 桜の花が、散り始めていた。


 俺は大学四年生へと無事進級し、彼女は専門学校を卒業した。なかなか特殊な学習体制の学校だったようだ。


 故に彼女はこれから社会人となる。就職し、働き、生活する。律儀な彼女のことだ。社会人になったからには親からの支援もほとんど受取らないだろう。


 「これからもよろしくおねがいしますね!」


 晴れ着をまとった彼女は、専門学校の校門を背に笑顔を咲かせた。


 俺はカメラのレンズ越しにその笑顔を目に焼き付け、続けてシャッターを切った。


 「もちろん、こちらこそよろしく」カメラを下ろしながら言った。


 雲ひとつ無い青空は、こんなめでたい日を祝うのには最高なものだった。


 後ろに並んでいた人に場所を譲り、俺は彼女の案内のもと学校の外をぐるっと一周することにした。


 「もう就職する場所はきまった?」


 「いえ、まだです。でも誘いは何件か受けていますよ」


 それはすごい、とつぶやいた俺に彼女は謙遜してみせた。


 「そんなことないですよ。誘いと言っても全国チェーンのお店ですし、私の同級生には在学中に有名店から誘われた子もいるんですよ?私なんてまだまだです」


 照れ隠しのためか頬を掻く彼女は、微笑みながら続けた。


 「でも、夢が叶うのは嬉しいですよ。これで私も立派なパティシエですね」


 「そうだね。頑張って美味しいお菓子を作るんだよ?」


 「もちろんです。そうだ、今度お菓子をたくさん作ってあげます。甘い物好きでしたよね?」


 「へぇ……話したことあったっけ?」


 彼女に俺が甘党であると話したことはないはずだ。完全に好奇心から、そう訪ねた。


 「ま、まぁそうですね。さすがにこれだけ一緒にいたら気付きますよ」


 すると彼女は軽く笑い、その場で一回転して見せた。


 「どうです?似合いますか?」そう言って笑った。


 「もちろん。すごく似合ってるよ」意図せず、自然と頬が緩んだ。


 フフッと、彼女も笑った。


 「わかりました。今日お菓子を作ってあげます」


 前に向き直った彼女は俺に背を向けてそう言った。


 わずかに風が吹き、地面に落ちていた桜が舞い上がった。


 「何が食べたいですか?」


 肩越しに、彼女は笑った。


 その笑顔は、これまでにないほど純粋なものだった。


 夢を叶えた人特有の、かもしれない。


 その笑顔を羨望なくしてみることは、俺にはできなかった。


 「じゃあ、モンブランを作ってもらおうかな」




 見た目は少し崩れているが、味はそこらへんの店よりも格段に美味い。それが彼女が作ったモンブランの感想だった。見た目と味に五十・五十で振るべき能力を三十・七十で振ったようだ。


 そんなモンブランが目の前に四。もうすでに三つ食べている俺の胃は限界に達していた。


 「作り過ぎちゃいました……」それが彼女の言い分だ。


 無理して食べなくてもと気遣ってはくれているが、せっかく作ってくれたのだ。残す訳にはいかない。


 それに、べつにただモンブランを食べているというわけではない。彼女には俺の話に付き合ってもらっているのだ。


 「理想……ですか?」


 「そう。どんな出会い方をしたい、とか。そんな感じのことを教えてもらってもいいかな」


 俺が書きたいのは感動モノだということは既に説明してある。


 というか、俺が漫画家になろうと思ったきっかけになった漫画が、感動するものだったのだ。


 所詮漫画だろうと手を出した結果、情けないことに泣いた。それまで文章や絵なんてのは人の心を動かすにはとるに足らないものだと思っていた俺にとって、その出来事は非常に新鮮だった。


 漫画家になるのが難しいことくらいはわかる。俺だってもう大学四年生だ。将来のことも考え始めている。漫画家がどれだけなりにくいか、売れにくいかくらい知っている。


 ただ、それでもなりたいと思ったのだ。自分の手で、あの感動を創りたいと思ってしまったのだ。


 彼女はそんな馬鹿げた夢物語に協力してくれた。それだけで俺は何でもできるような気がして、今に至るのだ。


 「そうですねぇ……よくある話ですけど、助けられて出会ったり、昔の約束が関係していたりするものが万人受けするんじゃないですか?」


 「昔の約束、かぁ……」なにか引っかかった。「やっぱり幼馴染系が強いのかな」


 「そうですね。幼馴染で……そうだ、一度離れ離れになったほうがいいかもしれませんね」


 五つ目のモンブランに手を出しながら考える。


 「だとしたら離れ離れになった原因がいるね……あと出会いと約束も」


 「変なことをしなくても、小学生からは学年が上がるに連れて男女間の友情は勝手に薄れていきますよ」


 やけにスラスラと話す彼女に、俺は訊いた。


 「すごい簡単に出てくるね。どこかで経験したことが?」


 彼女は一瞬言葉に詰まった。


 しかしすぐに何事もなかったかのように平然と語り始めた。


 「私も女の子ですから。そういうことを考えたりもしますよ」


 「……そういうものなの?」


 「……そういうものなんです」


 押し通された感が否めないが、一応良しとした。


 俺も初めてかくものだ。完璧は求められない。それに、それが「彼女の理想」であることは何よりも価値が在った。


 それからもいくつか「彼女の理想」を訊いた。それは実に具体的で、それでいて良案だった。俺が書きたいもののど真ん中だった。


 それからしばらく。ストーリーは、ほぼできた。


 物語とは書いている途中で予想からはずれるというので、プロットも大きな流れしか書いていない。だがきちんと通過地点は書いてあるので物語としてはまとまるはずだ。


 残る問題は、俺のイラストだけとなった。

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