寺坂さんの事情

 信じられない思いで寺坂さんを見ると、真剣な……でも、なぜか怒りが浮かんでいる彼の顔が目に入る。

 なんでそんな顔をしているのかわからず、でもそれ以上に、そんなことを聞く彼にふつふつと怒りが沸き上がる。


「……なんなんですか、それは。なんでそんなこと、私に聞くんですか! 奥さんを裏切って、指輪を外してまで私を抱きたいんですかっ⁉」

「雀」

「酔って流されて抱かれた私が悪いんだけどっ! 奥さんのいる人をいつの間にか好きになって、でも好きな人に初めてを奪われて嬉しいって思った私が悪いんだけどっ!」

「おい、雀」

「避妊せずに抱かれることを嬉しく思う自分に嫌悪して、奥さんを悲しませることに罪悪感を感じて苦しんで……それでもそんな師匠が好きなんだからしょうがないじゃないですかっ! だからって、指輪をはず」

「おいっ! 雀っ!」

「はいっ! …………あ。…………きゃーーーっ! ななな、なんでもないです嘘です冗談ですごめんなさい忘れてくだっ、んっ!」


 怒りに我を忘れて、こんなところで言うつもりのなかった彼への気持ちが口から飛び出した。話を遮るかのように、怒鳴り声で名前を呼ばれてちょっと冷静になり、好きだと口走ったことを思い出してパニックを起こし、それを否定している途中で彼にキスをされた。


「んっ、ふ……っ」


 角度を変えながら何度もキスをされて、ようやく離れた時にはどうしてキスをされたかわからず、私はまだ混乱中だった。


「いいか? よく聞けよ? 俺に妻がいたことは一度もないからな? 嘘だと思うなら奥や所長、平塚さんに聞け。堺でもいい。それに、雀から好きだと言われて嬉しいし、誰が忘れるかよ。だって俺も……お前が好きだから」

「な、んで……嘘、だって、指輪……」

「ちゃんと指輪にまつわる全てのことを話すから、怒らずに最後まで話を聞けって」


 彼が車のエンジンをかけたので、慌てて途中だったシートベルトをする。彼もシートベルトをして車を発車させると、「六年くらい前だったかな……」と話し始めたのは、こんな話だった。


 その当時、今いる事業所はできたばかりで、役職者は所長と、今は別の事業所に行った人やもう辞めてしまった人しかいなかった。その二人が移動することや辞めることがわかり、役職者が所長しかいないのはのちのち困るからと奥澤さんと寺坂さん、私が入る直前に新しくできた事業所に移動した堺さんの旦那さんの三人で、主任研修を受けることになったという。

 研修を受けたあとは主任になれるシステムなんだって。

 もちろん、主任になっても主任研修はあるし、更にその上に行くための研修もあるけど、今は関係ないからと割愛された。


 研修場所は神奈川にある支社で、午後一時から七時、期間は五日間。その研修初日であり初対面である支社の女性の営業の人たちや事務の人たちに、かなりしつこく、その日のうちに何度も、頭がおかしいんじゃないかってくらい迫られたんだとか。

 いくらはっきりきっぱり怒りながら断っても、『照れちゃって!』と斜め上の解釈をして迫る自意識過剰な人たちや自信過剰な人たちに辟易。

 その日の夜に寺坂さんのお姉さん、次の日に所長や平塚さんに相談(当時、女性のパートやバイトは平塚さんしかいなかったらしい)したところ、『指輪を嵌めてみたら?』って話になったそうだ。

 研修期間中だけなんだから誤魔化せるだろう、と。

 隣の市に住んでいたお姉さんが研修に間に合うようにと、安物ではあったけどわざわざ指輪まで買って来て、会社まで届けてくれたそうだ。それを嵌めて研修に行ったら、寄ってくることもなくピタリと止まった、らしい。


「どんだけ男に餓えてたの、その人たち……」

「支社には同年代がいなくておっさんしかいなかったからじゃないか? あとで聞いた話なんだが、彼女たちはみんな独身で、脱独身を狙って若い男の従業員がくると毎回同じようなことがあったらしい。まあ……俺たちが行った時が一番ひどくて、次の日の朝に各事業所の所長から抗議されたのも、結婚している男に迫ったのも、初めてだったらしいがな」


 独り言を呟いたつもりが、寺坂さんにバッチリ聞こえてしまったらしい。同じ女として恥ずかしくなるような、初対面で何やってんだよ、お前ら痴女かよ、仕事しろよ! と言いたくなる答えが帰って来て頭を抱えた。

 それはともかく……なんで指輪を嵌めることになったのか、なんでそれを採用したのか小一時間ほど問い詰めたい気もするけど、その時はかなり切羽つまってたんだろうし、検討している時間もなかったっぽいから聞かない。


「……」

「もちろん、婚約したばかりの堺や既に結婚してた奥と一緒に迫られてたから、三人でその女たちの上司や周囲に抗議して遠ざけてもらったのもある。だが、実際問題、指輪をしてからのほうが効果はあったんだよ。……頭のおかしい女だけじゃなく、独身狙いの自信過剰・自意識過剰な女すら寄ってこなくなったんだから」


 信号待ちをしている中、当時を思い出しているのか、イライラしながらハンドルを指で叩く寺坂さんが微妙に怖い。


「そのおかげで残りの四日間は平和だったんだが、研修も終わっていざ指輪を抜こうとしたら、抜けなくてな……」

「……はあ!?」


 寺坂さん曰く、どうやらお姉さんが指輪のサイズを間違えたらしく、少し小さいサイズのものを買って来てしまったらしい。交換にしろ買い直すにしろ時間もないし、入るには入ったからいいかとそのままにしていたら、重いものを持ったりする仕事の関係でその間に少しだけ指が太くなり、完全に抜けなくなった、と。

 そんなバカなと思ったものの、実際に抜けなくなっているんだからどうしようもない。それに、平塚さんに私の気持ちがバレた時に言いかけた話ってこの話じゃないのかな……堺さんが話せないって言ってた話も。今度聞いてみよう。


「当時、虚言癖のある女に振り回されていたせいか、余計女に幻滅してな。だからそれ以前はともかく、今まで付き合うこともなければ結婚したいとも思わなかったんだよ……雀に出会うまでは」

「え……」

「初めてだったんだぞ? 一歩も二歩も引いた態度で俺と接して話し、俺が言ったことに対していちいち突っ込みを入れて来た女は。いつもなら女ってだけで嫌悪感を抱くのに、嫌悪感すら感じさせることがなかった女は雀だけだし、抱きたいと思った女はお前だけだ。それが面白くてな……どう言えばどんな突っ込みがくるか予想したりして、でも予想外の突っ込みが来て、それを結構楽しみにしてた節はある。まあ、今後もやめるつもりはないが」

「そこはやめましょうよ!」

「いやだね。今みたいに、打てば響くほど突っ込みがくる雀と話すのは楽しいから」


 私も同じことを考えてたって言ったら、どんな顔をするのかな。そう思うものの今はそんなことじゃなくて。


「で、話を戻すけど……雀は指輪の外し方、知ってるか?」


 真剣なその声にふざけたことは言えないからちゃんと答えるし、その方法をいくつか知っている。

 なんで知ってるかって? 義姉が指輪のサイズを間違えて買って来て填めてしまい、抜けなくなったからとその外し方をいろいろ調べ、義姉の指輪を二回ほど外したことがあるからです。

 もちろん、兄と二人でOHANASHIしましたとも、きちんと調べてもらってから買えと。それ以来、義姉は必ず調べてもらってから買っている。

 それはともかく。


「いくつか知ってますよ。お金はかかりますけど、宝石店で切ってもらう」

「却下」

「ですよねー。……なら、意外と知られていないらしいんですけど、消防署に行って切ってもらう。これは無料です」

「消防署に行くのが面倒だから却下」


 面倒だからって言わんといてくださいよ、もう。


「あとは、糸かデンタルフロスを使う方法か、油を使った方法しか知りませんよ。石鹸とか試しました?」

「姉や同期の堺たち、平塚さんに教わって石鹸も油も試したが全くダメだったんだ。糸はともかく、デンタルフロス? 歯の汚れを取るあれか?」

「そうです。歯間ブラシみたいに短いのじゃなくて、好きな長さに切れるほうのですけど」


 そんなことを話している間に大型スーパーに着き、駐車場に停めた寺坂さんは。


「雀、その方法を教えてくれ」


 真剣な目を私に向けた。


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