五話 騎士と主の後悔

(やってしまった……! 言い訳のしようがないほど無様に、やらかしてしまいました……)


 王妃と対面した後、サフィニアはマローネの謝罪も途中で押しとどめた。

 顔の傷すら気にもとめず、マローネを引きずるように城から連れ出し、屋敷に戻ってきたのだ。 


 マローネの胸中は、ただただ己の不始末に対する自責の念で満たされていた。

 当然である。

 サフィニアが傷つけられた事で、かっとなって口を挟んでしまったが、結果はどうだ。

 主を守るどころか、自身の軽率な行動のせいでサフィニアは侮られ、誇りを傷つけられる事態になったのだと何度も何度も自分を責める。


(……わたしの馬鹿……、大馬鹿者……。未熟者の役立たず……)


 守ると決めた決意は、ただ空回りしただけだった。


「……大人しいですね」


 ふと落とされたサフィニアの声に、マローネはびくりと肩をすくめた。


「ここはもう城ではありませんから、好きにわめいても結構ですよ?」


 無能な護衛だと、憤って当然な状況であるはずなのに、サフィニアの声からは微塵の怒りも感じない。


(もう、怒ってさえもらえないなんて……)


 怒る気力もわかないほど、失望されたに違いない。

 そう考えると、途端マローネの目の前は真っ暗になった。


「…………もうし、わけ……」


 なんとか言葉を発しようとするが、のどに石でも詰まってしまったのか、上手く出てこない。


「おちびさん? ――っ」


 サフィニアに顔をのぞき込まれ、マローネは慌てて背けた。


 主に迷惑をかけたのだ、これ以上の醜態をさらしたくはなかった。しかし、息をのんだサフィニアは、顔を背けることを許さなかった。

 伸びてきた手がマローネの両頬を挟むと、いささか強引に上を向かせる。


「……何を泣いているんですか、貴方は」

「申し訳、ありま、せ……」


 困ったような顔が、マローネを見下ろしている。

 あぁ、また迷惑をかけてしまったと情けなさで一杯になる。


「わ、わたしは、なんでもありませんので、サフィニア様は、手当を」


 マローネは、赤い爪痕を見て、つっかえつっかえ言葉を吐き出した。


「なんでもないようには見えませんよ」


 王妃の爪で引っかかれた傷が、頬に痛々しく残っている。痛くないはずがない。それなのに、サフィニアは動かない。役立たずは捨て置いて、自分の事を優先して欲しいのに。


「か、かおに、きずがのこったら」


 この美しい主の顔に、傷跡が残ってしまったら……もし、そんな事態になればマローネは自分を許しておけそうにない。けれど、サフィニアの反応は、あっさりとしていた。


「この程度、どうという事はありません」


 無頓着に言ってのけ、「そんなことより……」と、マローネを優先しようとする。


「どうして泣いているんですか?」

「か、顔がっ、サフィニア様の、顔にっ、傷がっ」

「だから、こんなもの、気にするほどのものでは無いと言っているでしょう。貴方が、泣くほど心配することではありません」

「でもっ、わたしのせいで、あんなっ」


 サフィニアは、ますます困った顔になり、親指でマローネの眦を拭った。


「こんなに泣いて……。目が溶けてしまいそうですよ」


 幼い頃。初めて会ったときにと同じ言葉。あの時はマローネを救ってくれた言葉だったのに、今はただ胸が苦しくて仕方が無い。


「――……そんなに、あの方が怖かったのですか……?」


 泣き止まない理由を、サフィニアは王妃と結びつけた。

 たしかに王妃は、恐ろしい。サフィニアに向けた一言で言い表せない表情と、凶行を目にすれば、大多数が“恐ろしい方”だと思うだろう。


 けれど、違う。

 マローネが怖かったのは……、怖いのは王妃などではない。

 恐ろしいのは、サフィニアに失望される事だ。

 守ると言ったその口で、主を辱める原因を作った騎士なんていらないと思われて当然だと、誰でも無い自分自身が果てしない怒りを感じていたから。


「サフィニア様に、恥をかかせてしまいました……! 役に立つどころか、足を引っ張って、傷をっ」

「…………。貴方は、サフィニアの騎士として、十分に役割を果たしてくれましたよ」


 たどたどしいマローネの言葉から、泣いている理由を察したサフィニアは、柔らかく微笑んだ。


「あの方に立ち向かい、サフィニアのために声を上げてくれたでしょう。――何の力も持たない隠れ姫の……私のために、見て見ぬ振りをすること無く、声を上げてくれた。貴方の真心は、きちんと伝わりました。真を示してくれた貴方の目を抉られるなどという非道を、黙って見過ごせるわけが無いでしょう」


 恥などでは無いと、サフィニアは言う。


「剣を捧げてくれた騎士の信に応える事の、何が恥だというのですか」

「サフィニア様……っ」

「――また泣く。…………貴方は、存外泣き虫なのですね、マローネ」


 からかうような口ぶりだったが、こぼれてくる涙を飽きもせず拭うサフィニアの手は、どこまでもマローネに優しかった。




 ◇◆◇◆




 べっとりと頬に傷薬を塗りつけられ、サフィニアは顔をしかめた。


「痛い」

「文句言わない。手当を後回しにした報いだ。ったく、勝手にこんな傷つくって……。だから、おちびちゃんを城に連れて行くのは、やめた方がいいって言ったのに……」


 サフィニアの私室にて、傷の手当てを施していたヨハンが不機嫌そうに言い放つ。


「挙げ句、おちびちゃんを引きずって帰ってくるわ。帰ってきたら傷の手当てもしないで、延々おちびちゃんを泣かせてるわ……、自業自得だ」

「最後のは違う。泣かせたりしてない」

「ばーか。あの子は騎士だぞ? お前を守るためって名目で、勇んでこんな所に来たのに、目の前で怪我させたんだ。そりゃあ、大泣きするに決まってる。……今頃、あの子の矜持はズタボロだろうな」


 容赦の無いヨハンの言葉に、サフィニアは眉を寄せて「そんなつもりはなかった」と、呟く。


「……ただ、覚悟を試してみたかったんだ」


 憮然としたサフィニアの声は、常より低く、口調も姫君らしからぬほど砕けている。

 しかし、ヨハンは気にした様子もない。

 これが、目の前の主の素だと知っているから、構わず質問を続けた。


「あーはいはい、左様でございますか。……それで? 健気なおちびちゃんを泣かせて得た答えはどうだ? 納得のいく答えだったか?」

「…………あぁ」


 答えたサフィニアの表情は暗い。

 望む答えを手に入れた人間がする顔とは、思えない。

 それを鼻で笑うと、ヨハンは言った。


「あの子、その顔の怪我は、完全に自分のせいだと思い込んでるぞ。お前が、あえて試したとも気付かないで……な。いつもは、俺がお前のところに行くなら自分も一緒にって、お預けくらった犬みたいな顔して見てくるのに、その元気も無い。……あんなに泣いて目ぇ赤くして……ったく……可哀想に……」


 途中までは、皮肉るような言い回しだったが、最後の呟きだけは感情がこもっていた。ヨハンにしては珍しい事だ。サフィニアの目つきが、無意識に鋭くなった。


「……いやに、彼女に肩入するんだな」

「そこで睨むなよ。……仕方が無いだろ、あんなに馬鹿正直な生き物なんだから」

「おい、聞き捨てならないぞ。彼女を、許可無く馬鹿呼ばわりするな」

「許可って……あーのーなぁー……今は、独占欲を出す場面じゃ無いだろ。――とにかく、もう痛々しくて見てられないから、早くなんとかしてやってくれ!」

「……そんなに落ち込んでいるのか?」


 ヨハンはサフィニアの問いに、ひょいと肩をすくめただけだった。まるで、直に見て確認しろというかのように。


「……気にするなと、あれほど言ったのに」

「だからぁ~……。お前は、顔の傷くらい、全く気にならないかもしれないけど、世の女性はそうじゃないの! 総じて顔に傷が残ることを良しとしないんだ。それくらいは、朴念仁のお前でも分かるだろ」

「…………」


 サフィニアの沈黙を、無言の肯定と受け止めたヨハンは「じゃあ次だ」と話を続ける。


「おちびちゃんだって、なりは小さくても立派な淑女だ。そこら辺の機敏に疎いお前よりもずっと、ご主人様の顔の傷を深刻に受け止めてるんだろ」


 可哀想に――、ヨハンは繰り返し呟いた。


「素直なあの子は、すっかりお前を信じ込んでる」

「……いい事だろう」


 そう答えたサフィニアの顔を、ヨハンはちらりと一瞥した。


「どこがだよ」


 苦笑を浮かべたものの、その目は探るようにサフィニアを見つめている。


「いい事だなんて、……毛の先ほども思ってないような顔してるくせに」

「――言っている意味が、分からない」


 どこか含みのある物言いを、サフィニアはバッサリと切り捨てた。付き合ってられないとばかりに、椅子から立ち上がった。


「……手当はもういいです。私は、あのおちびさんの様子を見てきますから」


 そうして、がらりと口調を変える。

 するとヨハンは、面白がるように唇をつり上げ「心得ました」と一礼した。


「あのおちびちゃんなら、庭で素振りをしていましたよ。……くれぐれも、今度は泣かせないで下さい……?」

「…………」


 サフィニアは、無言で自室を出て行った。

 取り残されたヨハンは、傷の手当てで使った道具を片付けていたが、ふと何か思いついたように手を止めた。


「――あいつ、おちびちゃんを前にしてるとき、自分がどんな顔してるか自覚してるのか?」


 マローネをそばに置くと決めた時も、我が主ながら随分思い切った決断をしたと驚いた。 

 だが、あの小さな騎士と二人きりでいる時のサフィニアの表情……。あの顔を見た時は、それ以上に驚いた。


 母と双子の片割れを亡くした、忌まわしい事件から、ずっと。常に自分を殺し、《サフィニア姫》であり続けた乳兄弟は、この部屋以外で気を緩める事が無かった。


 しかし、マローネとといる時に無意識に浮かべている表情……あれは《サフィニア姫》がする顔ではない。


 否。《サフィニア姫》が、していい顔では無い。

 つまりは、サフィニアが、普段から気負って隠しているはずの素の部分が、剥がれかけている事を意味するのだから。


「……サフィ、アイツもいよいよ、自分を許せる時が来たのかな……けど……」


 薄い笑みを唇に浮かべたヨハンは、誰も居ない部屋で独りごちた。


「――そんな事……、俺は絶対に許すものか……!」


 そこにいたのは、親しみやすい青年でもなければ、サフィニアの信頼されている従者でもない。

 吐き出された声は、先ほどまで気心の知れた会話を交わしていたとは思えないほど、憎しみに満ちていた。

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