第10話
……誰かに名前を呼ばれた気がした。今いいとこなのに。一番気持ちいいんだよ、この微睡みが。おれはもう少し寝ていたいんだ。邪魔しないでくれ。
「……修哉さん。起きてください。起きないと、すね毛をライターで燃やしますよ」
不穏すぎる言葉にガバリと身体を起こす。誰かに呼ばれて起こされる習慣はないので、心底驚いた。いやいやスネ毛を燃やすて。怖すぎるだろ。
目の前には女の子がひとり。誰だ、この子。昨日ワンナイトで楽しんだ子か?
いやいや有り得ない。だってそんなこと出来る甲斐性が自分にないのは、痛いほどによくわかってるからな。本当、悲しいことにだけど。
「完全に私の事わかってない様子ですね。まだ寝ぼけてるんですか? 冷水、ぶっかけてあげましょうか。あ、それもご褒美になっちゃうか」
「……だからおれはMじゃねぇ。いい加減そこから離れてくれよ、舞」
「ふん、ようやくお目覚めですか」
「お陰様でな。今何時だ?」
「午前6時です」
「はや!」
「遅いくらいですよ。さ、行きますよ。顔を洗って、とっとと身支度してください。40秒でね」
身支度は万全、と行った感じで踵を返す舞。おれはまだ、ホテルが用意してくれたバスローブ姿である。このまま外に出たらいろんな意味でヤバい。
待ってくれ、とおれは舞の背中に声を掛けた。
「行くってどこに? まだシーは開いてないだろ?」
「腹が減っては何とやら。つまり腹ごしらえです。朝食は私にとって外せない習慣ですので」
朝メシか。あんまり食わないんだよな、おれ。忙しい社会人にとって、朝の時間は貴重なのだ。朝メシを食うよりは、少しでも長くベッドで寝ていたい。そんな奴はきっとおれだけではないはずだ。
「舞、悪いけどひとりで食べに行っててくれ。おれ待ってるから」
「却下です」
「なんでだよ! 朝メシ食わないのは別におれの自由だろ?」
「いいえ拒否権はありません。同じ釜のご飯を食べて
結束をより強めるのです」
「おれ朝メシ食わない派なんだよ。それにどうしても食べなきゃいけない時は、パン派だから」
「それじゃあ、同じ窯のパンを食べましょう。ミラトスカのブレックファストビュッフェは絶品ですよ」
振り返った舞はにこやかに笑っていた。いやいや、その手のモノは何だよ。どっから取り出したんだ、そのライター、ってそれおれのじゃねーか!
「修哉さん、特別にあなたに選択肢をあげましょう。私と朝食を一緒に食べるか、すね毛を燃やされるかの2択です。さぁ、お好きな方をどうぞ」
言われてすぐさま準備に取り掛かる。別にスネ毛に愛着はないが、燃やされるのは勘弁つかまつりたい。絶対ヤケドするじゃねーかそれ、しかも何故にちょっと楽しそうなんだよ!
「あと20秒……19、18、17……」
唐突に始まる死へのカウントダウン。ゼロになったら終わりだってことだけは容易にわかった。
舞のその目が本気だからだ。あれは覚悟を決めた者の目である。絶対間違いない。
こんなところでおれは死ねない。まだやるべき事がたくさんあるんだ。つまり、ここはもう覚悟を決めるしかない。
一瞬でバスローブをキャストオフ。バスローブが宙に舞う。そしてそれが床に落ちる前に、トランクに掛けておいたチノパンに……っておれ、いつの間にかノーパンじゃねーかよ! いつ脱いだんだよおれのバカ!
全裸でチノパンを穿こうとしているおれと、舞の視線がぶつかった。そう、ぶつかってしまったのだ。あ、おれ死んだなコレ。
何らかの衝撃に備えて歯を食いしばる。しかし、受けた衝撃は物理的なものではなかった。
……全裸を見られたおれは、舞に鼻で笑われた。
蔑んだ笑い。ダメ、もうお嫁に行けない。
「修哉さん、早く服を着て下さい。朝食に遅れてしまいますから」
「こ、これはとんだ粗相を……」
「大丈夫です。小さくてよく見えませんでしたので」
そのセリフの方がショックだった。
───────────────────────
「大丈夫ですか、修哉さん」
「お、おう。大丈夫……うぷっ」
時刻は午前8時45分、そのちょっと前。つまり、シーのパークオープンまであと少し。
そしてさっき食べた朝メシが、おれの口からリバースするまでもあと少し。
やばい。舞に唆されて完全に食いすぎた。
しかし何故だ。何故だ舞。おれと同じか、それ以上食べてたよな? なのに全然平気そうじゃねーか。ちらりと横目で見ると、舞は例の呆れた表情。
あなたはアホですか、と言外に言ってる顔だ。
「これからパークオープンだというのに、なんですかその体たらくは。たったあれだけの量なのに。それでよくMが名乗れますね、まったく」
「だからおれはMじゃ……ねぇ」
くそっ、ツッコミの鋭さも鈍くなってるぜ。
ミラトスカの朝食は、ビュッフェスタイル。あれもこれもそれも全部食べてたら、こんな状態になってしまった。
舞がおれにアレコレ食べさせたからなんだが。
「でもやっぱり、美味しかったですねぇ、朝ごはん。あんなに美味しい朝ごはん、本当に何年振りでしょうか、と言うくらいに美味しかったです」
こんなに胃の中に物を詰めたのは何年振りだろう。舞はビュッフェに並んでいる全ての料理をパクパク食べていたのだが、おれにも同じことを要求するのだ。
いわく、連帯感が必要だそうで。いや絶対嘘だと思うけど。
「修哉さん、聞いてます?」
「あぁ、聞こえてる」
「大丈夫ですか、調子は?」
「何とかな……もう少しで、胃の中のものが少しは消化されてマシになりそうだ」
「それじゃ、もう走れますね」
「絶対無理」
おれのセリフを聞いた舞は、大きな溜息を吐いた。舞と出会ってもうそろそろ丸一日が経つ。おれにはわかる。もう嫌な予感しかしない、と。
「仕方ないですね。じゃあ選んで下さい、特別に3択です。私のゴールドフィンガーで強制リバースか、右ショートフック→左ボディのコンビネーションで強制リバースか、鳩尾へのジャンピングニーで強制リバースか。さて、今朝のご注文は?」
「どれ選んでも強制リバースじゃねーか!」
「オススメはゴールドフィンガー強制リバースです。想像して下さい。私の指があなたの喉に入るのです。そしてさらに奥をぐりぐりと掻き回されるんですよ。そののちにイケるなんて、まさにMの本懐ですよね」
「うおぇ……っぷ!」
しまった想像しちまったじゃねーか!
舞に顔を掴まれて無理矢理、指をねじ込まれる姿。
きっと舞は例のサディスティックな笑顔なのだろう。
想像するだけでリバ……あれ?
ちょっとアリなのか……?
いやいや違う違う、毒されてるぞ、おれ。
ゲロ、ダメ、ゼッタイ。夢の王国で女の子に指を突っ込まれてリバースし、そして恍惚の表情を浮かべるなんてマジでこの先、出禁確定だぜ。
落ち着け、落ち着くんだおれ。素数を数えて落ち着くんだ……。2から数えようとしたのに、舞がそれを遮った。
「で、どうするのですか、修哉さん」
「その指をクイクイしながら言うの、マジで止めてもらえませんか」
「それは残念、オススメなのに。まぁいいでしょう。服がきっとゲロまみれになるし、そんなゲロまみれの修哉さんと一緒に歩いて注目を得ても、喜ぶのは修哉さんだけですものね」
「いや喜ばねーよ!」
「これは失礼。悦ぶ、の間違いでした」
「エツの方に言い直さなくてもいいからな!」
舞とそんなアホなやり取りをしていたら、時刻は8時45分となった。今日のパークオープンは9時。なぜ15分前なのか、というと。
「さて、8時45分となりました。ディスティニーホテルに泊まっている宿泊客の特典は、なんとパークオープンの15分前からインパークすることができるのですよ。これが、アーリーエントリーというディスティニーホテル宿泊特典です」
「15分で変わるものなのか?」
「変わりますよ! だって考えてもみてください。まだエントランスに並んでいる人がいるのに、こうして優雅にインパークできるというこの優越感。さらに空は快晴で、風も穏やか。ああほら、控え目に言ってももう最高ですよね」
舞はその瞳をキラキラとさせて、両手を広げてシーのエントランスゲートをくぐる。おれたちの前には既に何人か人が入っているものの、それでも通常のエントランスゲートに並んでいる多くの人達を追い抜いて入ることが出来た。アーリーエントリー様々である。
かくして、舞と共に過ごす夢の王国ツアー、2日目が始まりを告げたのであった。
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