第9話
シャワーを浴びて人心地ついた。髪をバスタオルで拭きながらベッドの方に戻ると、舞がグラスに入った水を差し出してくれた。ミネラルウォータだろう。舞の左手に、そのペットボトルが握られていたから。
おれは礼を言い、一口それを飲む。
「……うまい。乾いた身体には、よく冷えたミネラルウォータに限るな」
「水道水ですよ、それ」
「まじかよ! 恥かいたわ!」
「あはは、嘘ですよ。修哉さんって反応がいちいち良すぎるから、ついつい弄りたくなっちゃいますね」
マジでやめてくれ。このまま弄られ続けるのは絶対良くない気がするのだ。
……なんか新たな趣味に目覚めそうだし。
「さて、お互い人心地ついたところで。修哉さん、今日はお疲れ様でした。残念ながら目標達成には至りませんでしたが、ここでの立ち回り方はだいたい把握できた気がします」
「おれもそう思う。立ち回りの基本は、各アトラクションのクイックパスを取りつつ、ビーストのタイムライン更新を待ち、そして場所が示されていればそこに走るって感じだな」
「明日は東京ディスティニーシー、略称はTDSです。修哉さん、シーに行ったことは?」
「ランドも初めてだったんだから、シーも初めてに決まってるだろ。ていうか、今日のランドと明日のシーはそんなに違うものなのか」
「そうですね、まずコンセプトがまるで違いますよ。ざっくり言うと、シーは『大人向け』と言われているパークです。シーではなんとお酒が飲めるのですよ」
「へぇ、酒が飲めるのか。ていうか、ランドは酒を出してないのか?」
「限られたお店でしか出してないそうです。残念ながらそのお店は、一般向けのお店ではないんですよ。ですので私も行ったことはありません」
「会員限定の店ってことか?」
「クラブ31と言うお店らしいですよ。主にスポンサー向けの、会員制のお店だとか」
何かアイスクリーム屋の名前に似てる気がするが、そんなクラブがディスティニーランドにあるとはな。ま、おれには縁のない話だ。きっと今の会社で重役になったとしても、行く機会なんてないだろう。
「修哉さん、やたらお酒に反応してますけど、お酒が好きなのですか?」
「まぁ、嗜む程度だよ。そこまで強くない」
「それならよかった。明日は飲まないで下さいね。きっと明日はものすごく走ることになるでしょうから」
「走る……?」
「ただでさえ大きなパークなのですが、シーにはその中央部に、大きな海があるのです。だから、その反対側に行こうと思えばかなりの距離を移動する必要が出てきます。ほら、あれですよ」
そこで舞は、窓の向こうに映るディスティニーシーを指差した。確かに、その中央部に海のようなものがある。パークの光を反射して、きらきらと輝く海だ。
「あれ、まさか東京湾の海水を引いてんのか?」
「……海水ではありませんが、海です」
「いやそれ、もはや海じゃねーだろ。つまりここでは、そういう『設定』なんだろ?」
「ちょっと何言ってるかわかりません。あそこは海。たとえ真水を引いていても、海なのです」
出たよ。ディスティニーマニアのこの発言。大方、本物の海水を使えば、いろいろと設備に劣化が生じるから真水で海に見せかせているのだろう。なんか生物とか沸いて来そうだし。カニとかフジツボとか。
「とにかくあそこは海なんですよ。きっとあの海を間近で目の当たりにしたのならこう思いますよ。あぁ、ここは海だ。自分の心の中に海はあったんだ、って」
「いや何言ってんのかわからねーぞ」
「ご心配なく。明日あの海を目の前にすれば、自ずとわかりますから。さてと、という訳でもう寝ましょうか。明日は今日よりきっと、疲れると思いますし」
「てことは、シーはランドよりも広いのか?」
「単純な広さで言えばランドの方が広いです。でも、さっき言った通りシーの真ん中には例の海がありますので、移動時間だけで言うと入口から最奥まで、ランドは10分ほど、シーは15分ほどかかるってところですね」
てことは、明日も結局疲れるってことじゃねーか。今日は楽しかったが、でも正直疲れた。普段の仕事は車での移動が圧倒的に多い。だからこんなに歩くのは久々だった。足が棒になってるぜ。
「さて、明日に備えて私たちはもう寝ましょう。眠らないのはパークだけで充分です。それでは、おやすみなさい。良い夢を」
そう言った2秒後に寝息を立て始めた舞。隣のベッドですーすー言ってる。いやガチ寝じゃねーか。もっとこう、ないわけ? ドキドキな展開とかさぁ。
……ま、あるわけねーか。目の前でこんなに無防備で寝られたら、悪さしてやろうなんて気も削がれてしまう。いや、男扱いされてないだけかも知れないが。
何の気なしに窓の外を眺めると、まだ明かりが落とされていないシーが見える。例の海までキラキラ光っていて美しい。
舞が言っていたが、パークは眠らないらしい。
明日の朝、ゲストが心から楽しめるように夜通し準備をするらしいのだ。掃除をしたり、商品の補充をしたり、機器のチェック、メンテナンスをしたり。
早朝にはきっと、ショーのリハーサルや確認をするのだろう。それもこれも、全てゲストのためだ。
お客様第一、というのはよく聞くフレーズではあるけれど、本当にそれが出来ている企業は一握りだ。ウチの会社も見習ってほしいものである。
ウチの会社はしがない食品メーカーなのだが、とにかく売上主義で数字のことしか頭にない。その瞬間瞬間で商品が売れれば満足、というスタンスなのだ。前はそうでもなかった。経営陣が変わってからだ。先の展望も考えず、闇雲に商品を押し売るように指示されるようになったのは。
このままでは、いつかウチの会社はダメになるかも知れない。でも、別に転職しようとも思わない。この会社に拾われた恩もあるし、そもそもおれには野心と言うものがない。
別に会社で偉くなろうなんて思わないし、もっと売上を伸ばそうとも思わない。仕事なんてあくまで金を稼ぐ手段。だから仕事に人生を捧げようなんて思わないけど、仕事に人生を捧げている人を馬鹿にもしていない。というかむしろ羨ましい。
おれには何もない。人生をかけてやりたい事も、やらなければならないことも。何も持ってない、持たざる者なのだ。
こういう素晴らしい環境で働いているキャストの人たちには、仕事に人生を捧げている人も多いのかも知れないな。あくまで持論だけど、それは本当に良いことだと思う。
仕事が楽しいなら人生は楽園だ。
仕事が義務なら人生は牢獄になる。
これは誰の言葉だったか。少なくともおれは、この言葉に共感を覚えている。まぁ、楽しいと思える仕事でも、そこにキツさ、辛さがあることももちろんわかっている。人生は綺麗事だけではないのだ。
でもやっぱり羨ましい。仕事が楽しいと、一度でいいから思ってみたいものだ。
「……うーん、カレー、カレー食べたい……」
むにゃむにゃ舞が寝言を言っている。しかし寝言でカレーかよ。なかなかパンチが効いていらっしゃる。
明るいから眠りが浅いのだろうか。ならば、そろそろ明かりを消しておれも眠ろう。
こんな夢の王国の中で眠れるのだから、きっと良い夢を見られるんじゃないだろうか。そんなことを思いながら、おれは眠りに落ちて行った。
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