第3話 一帖 春三年 咲かぬ都の蕾 その3

「熱っ!」

 顔にきつけてきた熱風を両てのひらさえぎったが、真佐智は悲鳴をあげてしりもちをついた。すかさず奈津のせいが飛び、えりくびを引きずられた。

「この鹿ろう! 火から離れろ!」

 目の前にある竈の中は、真っ赤に燃えて、低くうなるような音をひびかせている。ぼうぜんとへたりこむ真佐智の手首を、奈津は乱暴ににぎった。

「掌、外ので冷やせ。火ぶくれになる。行け」

 を言わさぬ口調に逆らうこともできず、厨の外へ出た。そもそも逆らおうにも、逆らえない。奈津の命令通りにしなければ、熱風にあぶられた両掌が大変なことになる。

 くりやの外の井戸からおけに水をくみ、井戸のかたわらにしゃがみ込んで両掌をつけた。

 冷たい水にひたすと、じんじんしていた痛みが引く。

 美味宮になるために、さいぐうりようの炊部司にほうりこまれ三日目。この三日、竈の火を見守れと命じられていた。

「火の番? なんで? わたしは料理のしゆぎようをしろと言われて炊部司に来たんだ」

 火の番を命じられた初日はそう言って反発したが、奈津は「火の番をしろ」の一点張りで、とりつくしまがなかった。

 ほうに暮れながら、今日の朝も竈の前に座っていたのだ。

 真佐智は、ろうそくの火以上に大きな火を見たことがなかった。竈の中で赤々と燃え、おどり、ねるほのおは、ぼんやりと見つめていると意識を吸い込まれそうになる。

 今朝はくべるまきが多かったのか、いやに火の勢いが強かった。

 誰かがそれに気がつき、竈の近くにいた真佐智に向かって、「薪を一本け」と命じた。ぼうっとしていた真佐智はあわて、何も考えずに、竈のはしからき出ている薪を引っこ抜いたのだ。それによって内部の薪のきんこうくずれ、どっと竈から熱風と炎が吹き出した。

 あのとき奈津が襟首をつかんで引きずってくれなかったら、ほおに火ぶくれができていただろう。

(奈津は「責めてるんじゃない」と言ったけど、やっぱり、わたしのような考えのやつが美味宮になるのはおもしろくないだろうな。だから料理を教えようとしないんだ)

 美味宮になるためには、これからずっと、竈の前で座っているわけにはいかない。

(教えてくれないなら、自分の力だけで習得するしかない)

 そう思うのだが、これが簡単ではなさそうだった。奈津たちはものを使い、様々な手順を重ねて料理を作るが、それを横目で見ていても、何をしているのか、さっぱりわからない。

 今まで何気なく口にしていた料理は、目の前にぽんと出されるだけのものだった。作るのには人の手が必要だと知ってはいても、感覚的には、さらさらと文を書くのと同じ程度の手間としか想像できていなかった。

 しかし実際料理とは複雑で、たんねんさと手間が必要なものらしい。

 ずっと幼かったころぎつしやを仕立て、父と一緒にきたやまへ桜見物に出かけたことがある。初めて都の外に出る真佐智は、大はしゃぎだった。

 北山の山桜の下で、りの箱にめられた、めしの小さな握りを食べた。それらは幼い真佐智の掌にちょうどる程度で、まん丸で、あざやかな緑の細切りのきぬさやや、うすきにして作った卵のひも、甘い桜色の海老えび粉で、まりのようにそうしよくされていた。黒い塗りの箱に詰められている様子があまりに可愛かわいらしく、食べるのが躊躇ためらわれるほどだった。

 真佐智の手でそれを父の口に入れると、父はとろけるようながおになった。

 小さな鞠には、青のり、と、いくつもちがった風味と味わいがあり、食べきなかった。れる花と父の笑顔と一緒に食べた小さな鞠の、あまの香りとやさしい味わいが忘れられない。花の美しさと、その場のなごやかな空気も一緒に食べたから、一層しかったのかもしれない。

 あれは、どれほど手間をかけて作られたものなのだろうか。

 そこまで考えたとき、父と食べたあの味をうっかり思い出している自分に気がつき、むかむかした。父の存在そのものにも、自分の現状にも腹が立つ。

 腹が立つといえば、奈津ときの場所が同じなのも腹立たしい。

 厨に近いひとむねには、厨で働く十人が住む。炊部の奈津も、彼らと同じ棟に住んでいる。

 まとめ役の炊部なので、奈津が寝るのはさすがに戸で仕切られた場所だ。しかし十人の気配も声もつつけ。そしてその奈津のしんじよに、真佐智も寝起きすることになっていたのだ。

 真佐智は初日の夜からずっと、きが悪い。

 ゆかに横たわるとてんじようの板目が見えるのだが、それは戸のすきからかすかな蠟燭のあかりがれているからだった。戸の向こうでは、何人かが博打ばくちを打っているようだ。からからさいる音と、ひそひそ会話する声が聞こえる。しかも手を伸ばせば届く所に、奈津のとこがある。彼が少しでもがえりを打つと、その気配と音が、いちいち気になってしまう。

 昨夜も寝付けないままに天井の板目を見つめていたら、こちらに背を向けていた奈津が、ふいに声をかけてきた。

「寝られないのか。にぎやかな都に比べて、田舎いなかさびしすぎるか」

 いやみたらしく訊かれたので、すこしむっとした。「ろくに仕事もさせない奴が、わたしに声をかけてくるな」と言い返したかったが、さすがにそれはまずいだろう。

「違う。逆だ。ここは賑やかで慣れない。しきでは、乳母うばと二人だけだったから」

 奈津が寝返りを打ち、こちらを向く。ぎようした真佐智の横顔を見ているのはわかったが、彼の顔をまともに見るのが嫌で上を向いたままでいた。

 するとまた、「寝ろ」と強く命じられたので、仕方なく目を閉じた。彼の言葉に従いながらも、高圧的な態度への不満がくすぶった。

(冬嗣と寝起きできれば、まだ良かったのに)

 けれど冬嗣も、どことなく軽々しくていい加減な男だ。斎王から真佐智を仕込めと命じられながら、結局、奈津に丸投げしているのだから。

火傷やけどしたの?」

 頭の上にかげが差し、とつぜんやわらかな声が降ってきた。おどろいて振りあおぐと、いぬみたいに目がくりくりした十四、五歳の女の子が、心配そうな顔をして真佐智の手元をのぞきこんでいた。

「……だれ?」

 思わず問うと、少女は少年みたいにあけっぴろげな笑顔になる。うめがきをあしらった表着うわぎの明るい色が、そのすがすがしい表情に似合っていた。

「わたし? 斎宮寮の人たちは、かみきみと呼ぶけど」

(頭の?)

 斎宮寮には神事をつかさどる神職とは別に、さいぐうをつつがなく営むためのかんがおり、その配下に十二司がある。十二司をまとめる上級官吏は四部官と呼ばれ、その筆頭がりようのかみ

 この斎宮寮で「頭」といえば寮頭のことであり、要するにこの斎宮寮を実際に取り仕切る、最高責任者でもある。

(ということは、この子は)

 気がついたたんに、真佐智は桶から手を引き抜き、思わず立ちあがっていた。

「寮頭のひめぎみ!?」


 ◆◆◆


「そうよ? ねぇ、手を見せて」

 真佐智のきようがくをよそに、頭の小君は真佐智にずいと近寄って、彼の両手首を取った。

 前であれ、寮頭の姫君ともあろう人が屋敷をはなれ、一人遠歩きするとは、都では考えられないこと。

 驚きでこしが引ける真佐智を意にかいさず、てのひらに鼻先がくっつきそうなほどまじまじと見る。「すこし赤くなってるけど、だいじようみたい」と言うと、視線をあげる。

「火傷になりかけるなんて、ひどい。あなたよね? 美味宮うましのみやになるために、都から来た人は」

 同年代に見えるが、はきはきとした口調と、躊躇ない振るいは、たのもしい姉のようだった。

「どうして知ってるんですか?」

「だって、あなたに会いに来たのだもの。父君から美味宮になる子が来ると聞いて、どんな子かなって興味はあったんだけど。じよたちのうわさばなしを聞いてたら、奈津の所にいるというじゃない。心配になって。ねぇ、奈津に意地悪されてない? いいえ、それよりも炊部司に寝起きさせられているのこそ、おかしいわ」

 頭の小君は真佐智のあつかいについて、ふんがいしているらしい。その目はしんけんだ。

「心配してくださったんですか? 見ず知らずなのに。どうして」

 うれしいよりも、驚いてこんわくした。こんな親切な人が出現するとは、思ってもみなかった。

「ひどいあつかいを受けている人がいると聞いたら、あなただって心を痛めるでしょう?」

 頭の小君は真佐智を勇気づけるように強くうなずき、語気を強める。

「大丈夫。わたしは、あなたの味方よ。じんなあつかいに、断固こうしましょう。あなたが、男ばかりの場所に寝起きさせられてるなんてどうかしてる。裳着の前とはいえ、どうしてこんなことがまかり通っているのかしら」

 頭の小君の言葉のおかしさに、真佐智は何度かまばたきした。今、彼女は裳着と言わなかったか?

「頭の小君。炊部司で、何してる」

 奈津の声がした。

 くりやの方をふり返って見ると、奈津が嫌そうな顔でこちらに向かってきている。頭の小君は真佐智の両手をにぎりしめたまま、かばうように前に出る。

「気の毒な姫君の話を聞いて、いても立ってもいられなくなったのよ。しゆぎようとはいえ、あなたのような意地悪に使われるなんて見過ごせない。しかも水干なんか着せられて、男の中に置かれるなんて、どうかしてる。許せない。事実をかくにんしたから、わたしは父君に抗議するわ」

 確かに今、頭の小君は「姫君」と言った。やはりと、真佐智はかたを落とす。

 奈津は頭の小君の正面に立つと、あきれるでもなく、たんたんと無表情で告げる。

「そいつは、男だ」

「ええ、男の身なりをさせて、男として修業させているのでしょうね。けれど、こんなれんな男子がいるものですか!」

 憤慨してくれるのは嬉しいが、同時にどんどん落ちこむ。

「頭の小君。わたしは、……男です」

 きょとんとして、頭の小君がふり返った。

「そんなはず、ないでしょう? だって美味宮は女ですもの」

さいおうかどのお血筋の姫君と決まっているが、美味宮は男女どちらも務められる。現在の美味宮が、たまたま女なだけだ」

 奈津が説明すると頭の小君は目をまん丸にして、「本当か」と問うように真佐智を見る。

 真佐智は引きつりながらも、なんとかがおを作り頷いた。すると彼女は握っていた真佐智の手をぱっとはなし、数歩飛び退き、両ほおに手を当て真っ赤になった。

「わたし、てっきり……! しかも、この人があまりにも可愛かわいいから」

 の当たりにしてすら、頭の小君に「女」と認定されていた事実に、真佐智はもはや半笑いだ。「そうですか……」という、究極のあきらめに似た気持ちになる。

「おまえが学問ぎらいなのは知ってるが、寮頭の姫君なら、少しは勉強しろ。そうすればこんな鹿鹿しいかんちがいで、はじをかかなくてすむぞ」

 奈津が、寮頭の姫君を「おまえ」呼ばわりしたことにぎようてんした。しかもさらりと、無礼なことも言っている。最初からことづかいも、ぞんざいすぎる。頭の小君はきっとにらみつける。

「でも、男の子だとしても、意地悪なあなたと修業するのはわいそうだわ」

 頭の小君は憤慨しているが、それは、おまえ呼ばわりされたことに対してではない。つう、身分の低い炊部が、寮頭の姫君を「おまえ」と呼べるはずはないのに。

(それが当然のように許されている? どういうこと? 奈津は、何者?)

 疑問がき、げんそうな奈津の横顔を見やる。

「それに文句があるなら、しようぐうに言え。俺に言われても困る」

「ほら、そういう言い方をする。そんな言い方しかできない人といつしよにいて、都から来たせんさいな人がどれほど傷つくか。あなた、真佐智というのよね。男なら炊部司にいるのは仕方ないかもしれないけど、わたしはあなたの味方よ。奈津の意地悪なんかに負けないでね」

「あ、うん。わかった」

 はくりよくに押されて頷くと、彼女は笑いかけてくれた。そして奈津にはべえっと舌を出してから、つんとそっぽを向いてその場を去った。真佐智はぜんとした。春のとつぷうみたいな姫君だ。

 奈津はためいきをつくと、真佐智を睨む。

「で、おまえは、意地悪な俺と一緒に修業する気があるのか」

 八つ当たり気味な彼の言葉に、反論した。

「意地悪と言ったのは、わたしじゃなくて頭の小君だ。しかも修業をやめるなんて、一言も言ってないだろ」

「じゃあ、早く厨にもどれ。おひめさん」

「お姫さん!? なんでわたしが、お姫さんなんだ」

「ああ、悪い。つい」

 おざなりに謝った奈津は、すたすた歩き出す。真佐智もあわてて彼を追う。

「ついって、なんだ」

「見た目? 頭の小君より、女っぽく見えた」

(こいつ、腹が立つ──!!)

 しかし、いくらわめこうが、奈津は「うるさい」の一言で真佐智をふうじてしまいそうだ。しかも頭の小君には、実際目の当たりにしてからの女性認定を受けた直後だったので、いまひとつ強気になれない。くすぶる不満をかかえつつ厨に戻りながら、さっき不思議に感じたことを問う。

「そういえば、頭の小君と奈津は親しいの? ずいぶん、無礼な口をきいてたけど」

「ただのおさなみだ」

 奈津は当然のように答えたが、しかし寮頭の姫君と炊部の少年では、身分がちがいすぎて接点などないはずだ。

(奈津はどんな経緯いきさつで、ここにいるんだろう? 生まれは? 家族は?)

 興味がわいたが、無表情な横顔を見るといらいらして問う気にもならない。

(まあ、どうでもいい。お友だちでもないんだから)

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双花斎宮料理帖 三川みり/角川ビーンズ文庫 @beans

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