第4部

「それでさ、」

彼女は言った。


「なに?」

「これからの予定って何かある?」

「予定?」

「ま、自殺志願者のキミにそんな物あるとは思わないけどさ」

「だから」

「おっと失礼。記憶喪失のキミには思い出せないかもしれないけどさ。どうする予定だったの?」

「……今日はもう、家に帰る」

「どうやって?」

「携帯はおろか、交通費も持ってないのにどうやって帰るつもり? 

話聞くかぎりだと、歩いて帰るのはかなり険しい道のりじゃないかな」

「そ、それは……」

言われるまで自分でも気づかなかった。思わず眉間が険しくなる。


「そんなキミにさ、提案があるんだけど」

彼女はにやりと口を曲げる。

「しばらく私と付き合ってくれない?」

「は?」

「キミは今、記憶をなくしてるわけだ。実は私もなくしたものがあるんだよ」

彼女は窓の外にちらりと目をやる、

「で、なくした場所はわかってるから、一緒に来てほしいなと思って。

それで、無事さがしものが見つかった時には、キミに交通費を渡そうってわけ」


「……で、その探しものっていうのは何なの?」

「探し物っていうよりかは落とし物のほうが近いかもしれないね」

彼女はそういって窓の外を指差す。

暗くなりつつ街の向こうで、オレンジ色に輝く観覧車がゆっくりと回っていた。


「遊園地?」

「そ、あそこで遊んでいる間に落としちゃって」

「それなら、僕が行かなくてもいいんじゃないの?」

「ま、それはそうだけどね。一人で遊園地っていうのもほら、なんか嫌じゃない。失恋したみたいで」

「そうなのかな」

「そういうものなの。で、来てくれるかな。いろいろ差し引いてもキミにだいぶメリットもある交渉だと思うけど」

「……わかったよ」

今の僕にはそうする他ない。

どうせ彼女の提案を断っても、この寒さの中行き倒れるのが目に見えていた。

それに、僕が自殺を試みたという誤解も解いておきたい気持ちもあった。


「やった! じゃあさっそく行きましょう」

彼女は顔をぱっと輝かせると椅子から立ち上がった。

さっきまでのどこか冷たい雰囲気のただよう表情とはまるで違っていた。


外はもう真っ暗だった。時刻はもう六時を過ぎた頃。

まだ雪は降り止まず、冷たい風が肌から熱を奪っていくのがはっきりとわかった。

遠く、ビルの隙間から見える観覧車だけが篝火のように熱を放って輝いているようだった。

そんな観覧車を目指して歩く彼女の後ろをついて行く。

彼女の後ろ姿は、どこか軽やかで人混みに紛れても見失うことはないと思えた。


「そういえばさ、名前きいてなかったよね」

僕の数歩先で振り向き彼女は言う。

「私は……ってわざわざ言わなくてもいいかな」

「どうして?」

「そのうち、思い出すだろうから」

「どういうこと?」

「記憶喪失なんでしょ、キミ」

彼女は無邪気に笑ってそういう。


「僕は、キミと会ったことがあるの?」

「そのあたりもじき思い出すんじゃないかな。……少なくとも」

彼女の真っ直ぐな瞳がじっと僕を見つめる。

「私はキミのこと、ほんの少しは知ってるつもり」

その言葉に僕は思わず立ち止まる。

かけた記憶の中を必死に探してみるけれど、彼女の顔はどこにも見当たらなかった。

「なに止まってるのよ。はやく行こうよ」

そう言って歩き出す彼女の後ろ姿を、少しの間じっと見つめていた。


遊園地に近づくにつれて、観覧車が少しづつ大きくなってくる。

さっきまでは片手に収まってしまいそうなくらいに小さく見えたものが、今では空を覆うばかりに大きく見える。

雪はまだ降り続いている。そ

の寒さに手がぴりぴりとかじかむ。花束を脇に抱え、真っ白な吐息で、手を温める。

「そういえばその花束、いつまで持ってるの?」

「え?」

「なんのために持ってるのかもわかんないんでしょ? 邪魔なだけじゃない?」

「それは……。でも、捨てられはしないかな。もしかしたら誰かに花束を渡しに行く途中だったのかもしれない」


「ま、いいけどさ。キミの勝手だし。……でも」

彼女の顔はさっきと同じような冷たい表情だった。

「なんか嫌な感じがするんだよね。その花束」

「どうゆうこと?」

「さあ、私にもわからない。ごめんね、変なこと言った」

彼女はそう言って、また僕の少し前を歩き出す。


手に持った花束にそっと目をやる。

僕はいったい何をしようとしていたんだろう。

僕と彼女は、いったいどこで、いつ会ったんだろう。

そんな疑問を頭に抱えながら、僕も彼女の後ろをついて行く。

白い雪が、彼女の黒い髪とともに舞う。そのあいだから見える澄んだ瞳が、妙に心の何処かをくすぐっていた。

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