第28話

「ン……んんぅ……!」

「気がついたか!?」


 しばらくして、顔を真っ青にして目を閉じていた王女が、苦しげに呻き声を上げた。俺は急いでオリヴィアの顔を覗き込んだ。


「起きろ、親父!」

「ング……グ……! ググ……ッ」

「おい……」

「オエエエエエッ!!」


 オリヴィアの口から、大量の鯖の煮付けが胃液とともに飛び出してきた。俺は逃げることもできず、真正面から彼女の吐瀉物を浴びせられ、この異世界ファンタジアに来て今までで一番のダメージを受けた。


「ぐわあああああああッ!?」

「ハァ、ハァ……ッ!」


 白目を剥いたオリヴィアがもう二度、三度と盛大に吐瀉物を噴いた。辺り一面、すっかり吐瀉物の海だった。俺が顔面を抑えゲロの海の中でのたうち回っていると、吐くだけ吐いて少しスッキリしたのか、青ざめたオリヴィアがよろよろと上半身を起こした。

「ム……!」

 オリヴィアは顔中に吹き出た玉のような汗を手の甲で拭い、広場を見渡してようやく事態に気がついた。


「いかん……!!」

 そう呟くと彼女は、自分の足元に転がっていたアルミ缶に手を伸ばし始めた。

「何やってんだよ、親父!」

 俺は海の中で怒鳴った。

「これ以上、飲むな! 死ぬぞ!?」

「し……しかし……!」

「!」


 オリヴィアが震える手でアルミ缶を手に取った。

 俺の方を振り向いたその顔は、顔面蒼白で、だけどその目の奥は今まで見てきた中で一番力強く燃え上がっていた。彼女のその目を見て、俺は思わず息を飲んだ。オリヴィアがぎゅっと小さな唇を噛み、瓦礫の向こう、火の海の中で逃げ惑う人々を指差した。


は……助けねば……!」

「……ッ!」


 俺は震える足で立ち上がり、地べたに膝をつくオリヴィアの元に駆け寄った。フラフラと倒れそうになるオリヴィアを後ろから抱きとめ、俺は彼女を支えながら叫んだ。


「分かった……分かったよ! 飲め! 飲んで、魔法で助けてやってくれッ!」

「うむ……!」


 オリヴィアが少し嬉しそうにほほ笑み、それからゆっくりと、残っていたアルコールを口につけた。その顔はもう青いを通り越して、白みがかっている。吐瀉物のせいで辺りは腐った卵のような匂いでいっぱいだ。人を助けるというのは、こんなにも汚くて苦しい思いをしなくてはいけなかったのか。俺は少し涙目になって歯を食いしばった。

「ング、ング……ンンン!!」

「頑張れ……後ちょっとだ……!」

 オリヴィアの喉が脈を打つように鼓動を繰り返し、アルコールが胃の中へと流し込まれたその瞬間だった。


「おお……!」

 ぱああっ、と空から青い光が雨のように降り注ぎ、燃え盛っていた火の海が次第に勢いを削がれて行った。『魔法のビール』だ。パニックになっていた市民たちも、雨に気づいて動きを止め、皆ゆっくりと空を見上げた。


 火が消えた。自分たちは、助かったのだ。怒号と悲鳴で溢れかえっていた広場が、徐々に歓声と笑い声に包まれて行った。


「……!」

「どうじゃ……見たか……!」

 オリヴィアが俺の腕の中で息を切らしながら、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。俺は何も言えなかった。まあ実際にやったことと言えば、ただ酔っ払いにアルコールを流し込んだだけだ。しかし、それで少なくとも街の火は消えている。俺は急に体の力が抜けて、ヘナヘナとその場にへたり込んだ。


「ング……!」

 ニンマリと唇を釣り上げていたオリヴィアが、突然真顔になって両手で口を押さえ、それから四度目の吐瀉物を盛大に吐き出した。俺はもう不思議と慣れっこになってしまって、オリヴィアの口から吹き出すそれを噴水でも見るような晴れやかな気持ちで眺めていた。俺は噴水を指差して笑った。


「見ろよ……虹だぜ」

「……フン」

 降り注ぐ青い雨が気持ちよかった。俺の隣にどさりと倒れこんだオリヴィアが、不機嫌そうにプイと顔を横に向けた。俺はオリヴィアのゲロで出来た虹を見上げた。助かった大勢の人々の歓声が、何だか心地よい音楽のように耳に届いていた。確かに、オリヴィアは吐いた。何度も吐いた。だけど、街の人を救った。十分だ。これで、もう十分……。

「まだじゃ!」

「ングッ!?」


 心地よいBGMとともに、ゆっくりと目を閉じようとした俺の顔の上に、突然オリヴィアがにゅっと顔を突き出してきた。オリヴィアの口の端から滴り落ちてきた吐瀉物が、俺の鼻の穴に直撃した。俺は甲高い悲鳴を上げて飛び起きた。


「キマイラに乗れ……カルディナス大統領を追うぞ!」

「お、おい……!」

 オリヴィアが白い顔のままフラフラと立ち上がり、瓦礫の中を歩き始めた。

「後一回……後一回くらいなら、飲めるかも知れぬ」

「ちょっと待てよ。何する気だ?」

「後一回の『魔法』で……カルディナスを叩く! 勝負は一度きりじゃ……!」

「オイ!」

 俺は急いで彼女の背中に追いつき、ブツブツと独り言を呟くオリヴィアの肩を強引に掴んだ。俺は焦点の合っていない酔っ払いの顔をこちらに向き直らせた。


「何言ってんだよ、親父。そんな体で……もう十分だよ」

「親父……?」

「みんな助かったんだ。これ以上、他所様の体で無茶するな……」

「お前こそ何を言っとるんじゃ、芳樹?」

 俺の目と鼻の先で、金髪少女が不思議そうに首をかしげた。


「ワシは、お前の親父なんかではない」

「はあ?」

「ワシの体は、今まで一度も、誰にも乗っ取られとりゃせん」

「えーっと……」

「正真正銘、身も心もこの国生まれの、オリヴィア=フォン=キルスト本人じゃ」


 俺はぽかんと口を開けた。

 親父め、とうとうボケ始めたのだろうか? 哀れ親父は自分の国を捨て、体を捨て、アイデンティティを失い挙句自分を異国の王女だと思い込み始めたのかもしれない。重症だ。呆然とその場に立ち尽くす俺の目の前に、突如大きな翼を持った影が空から舞い降りてきた。キマイラだ。ライオンの頭と胴体に、ヘビの尻尾、それからワシの翼を生やした魔法生物が大きな羽音を立てながら俺たちの前にふわりと着陸した。


 オリヴィアがしっかりとアルミ缶を握りしめ、キマイラの背中によじ登った。それからオリヴィアは、真っ白になった顔を何故かほんのりと赤らめ、恥ずかしそうに俺を上目遣いに覗き込んだ。


「何をしておる芳樹。水臭いぞ。 ……ワシらはもう、か、家族じゃろうが」

「何だって?」

「ワシを、絶対連れて帰ってくれるのじゃろう?」

「お、おう……当たり前だろうが」


 オリヴィアが嬉しそうに俺に手を伸ばしてきた。俺は訳も分からず、成り行きのままにオリヴィアの手を握り返し、キマイラの背中によじ登った。


「行くぞ!!」


 オリヴィアが絞り出した掛け声で、キマイラが素早く翼を広げ大空へと舞い上がった。一瞬にして広場は豆粒のように小さくなり、俺は振り落とされないようにしっかりとオリヴィアの体に掴まった。オリヴィアは何故か、少し嬉しそうだった。キマイラの翼が大きく羽ばたき、ファンタジアの空を猛スピードで突っ切って行った。

 

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