最終幕

第21話

「うぉおおおおおッ……!?」


 霧の向こうには、見渡す限りの大草原が広がっていた。白いモヤモヤから吐き出され、地面より数メートルばかり上空に体を放り出された俺は、目を細めたくなるようなに頭から突っ込み溺れた。

 草が生えているはずの地面が、まるで水のように液状になっていた。

「ウワッぷッ!?」

 プールの飛び込み台よろしく地中深くにその身を沈めた俺は、新鮮な酸素を求めて慌てて地表を目指した。口の中に入り込んでくる泥土を吐き出しながら、俺は藁にも縋る思いで必死に藻搔いた。何とか地表に顔を出すと、流れると、太陽の光に照らされたが俺の視界に飛び込んで来た。


 成功だ。

 間違いない、ここはどう見ても、俺が元いた日本ではない。

 やって来たのだ。異世界に。オリヴィアの故郷、ファンタジアに。


 成功だが……着地は大失敗とも言える。このままじゃ俺は親父を探し出すことなく、地面の中で溺れ死に、来て間も無くまた別世界に転生を余儀なくされるだろう。草原が海になっているだなんて、聞いてない。緩やかな傾斜の丘の向こうに、巨大な帆船が草原の上をゆったりと走っているのが見えた。

「助けてくれえ!!」

 俺は海で溺れた遭難者のように船に向かって叫び声を上げた。だが船は、膝の高さくらいはありそうな草むらの影に隠れた俺に気づくこともなく、大きな汽笛を上げて反対方向へと進んでいった。

「……!」

 風に揺らされ、地面から生えていた雑草が波打った。このままじゃ死んでしまう……そんな思いが頭を過ぎったその瞬間、俺の右手が何かに触れた。


「……オリヴィア!!」

 土の水面をプカプカと浮かんでいたのは、俺とともに白い霧の中に飛び込んでファンタジアにやって来たオリヴィアの魂だった。アメーバ状になったオリヴィアは紫炎の男にやられ、ボロボロになった魂を平べったく伸ばし、板のようにして溺れていた俺の近くを漂っていた。俺はブヨブヨとした彼女の表面を掴み、必死の形相で何とかその上によじ登った。


「ハァ……ハァ……!」

 ゴムボートのようになったオリヴィアの魂の上で、俺は土まみれになった体を震わせた。ようやく一息つけて、俺は改めて、自分が飛ばされてきた異世界・ファンタジアの光景を目の当たりにした。


 遠く向こうに、を走る帆船が見える。

 普通の海と違うのは、地表がボコボコと盛り上がり高低差がついており、一体どういう理屈か緩やかな丘や隕石が衝突した後のような穴が所々碧の海の表面に出来上がっていた。白い空には黄色のカモメが飛び、丘の向こうで野ウサギが跳ねて再び地中に「ポチャン」と潜った。

「……!」


 しばらく俺はオリヴィアボートの上で放心したまま、目の前に広がる見たこともない景色に息を飲んだ。ここが異世界・ファンタジア……自分が本当に、別の世界に来てしまったのだという実感が湧いてくるまで、そう時間はかからなかった。


 それから俺は草むらの上に漂っていた鞄やら荷物を何とか回収し、その夜はオリヴィアの上で一晩過ごした。

 夜になると、空が今度は深い青に染まり始め、オレンジの月が二つ地平線の向こうから登って来た。オリヴィアボートは波に流されるようにゆったりとアテもなく地表の上を漂い、マングローブ林のような、木々が複雑に曲がりくねった森の中へと入って行った。白い雨雲から、霧のような細かい雨が降って来て頬を濡らす。オリヴィアは俺の上に屋根のようなものを作ってくれて、俺はカプセルにでも入れられたような格好で横になった。時折、森の中から聞こえてくる猿とも鳥とも区別がつかない生き物の鳴き声を聞きながら、俺は束の間の浅い眠りについた。


◼︎◼︎◼︎


「……ん?」


 ……どれくらいの時間が経っただろうか。

 ふと目を覚ますと、ボートはマングローブの森を抜け、再び拓けた土地へと辿り着いていた。空は左の方からだんだんと青ずみ始めていて、真っ白な太陽が地平線の向こうに姿を現していた。朝だ。霧雨の中に目を凝らすと、遠く向こうに明らかな人工的な建物の影が見え、俺の胸は高鳴り始めた。天高くそびえる塔のような建物、草原の海に向かって伸びる直線の光、列をなして並ぶ巨大な帆船の群れ……港だ。俺とオリヴィアは、夜の間に森を抜け港町近くまで辿りついていた。草原の海の切れ端が近づくにつれ、俺は思わず目を擦った。


 草原の海の向こうには、青い水面が広がっていた。

 今度はに、ずらっと煉瓦造りの家や教会のような建物が並んでいる。時折太陽の光を反射して、キラキラと表面が光っている。その姿は、まるで海のようだった。

 港付近ではその水の上を人々が歩き回り、馬車のような乗り物が走っていた。俺はしばらくぽかんと口を半開きにしていた。俺が元いた世界とは、まるで真逆だ。広い草原は海になり、海の上に人が暮らしている。今までの常識とはかけ離れた世界が、目の前に広がっていた。


 ボートはやがて船の並ぶところまで辿り着き、俺たちは巨大な帆船の間を縫うようにして青い地面を目指した。


「でもヨォ……」

「!」


 すると、不意に頭上から声がして、俺は思わず首を引っ込めた。ボートの数メートル上、隣に停まっていた帆船の甲板から、船員たちの会話する声が聞こえて来た。船の形状からして、昨日すれ違った船だろう。俺は何となく身をかがめ、物音を立てないようにして彼らの声に耳を澄ませた。 


「オリヴィア様も、修行から戻られてよな……」

「ああ」

「何ていうか、子供の頃は元気の良いちょっとお転婆なお嬢様って感じだったのに……」

「最近じゃ、ずっと酒、酒、サケだもんな」

「元王女様が、あんなに飲んだくれになっちまうとは、落ちぶれたモンだねえ」

「シッ! 聞こえるぞ……」

「構うもんかよ。どうせ今朝も酔いつぶれて眠ってるよ。それか便所でゲエゲエ吐いてるか」

「よせよ……」

「本当に、一体どうしてあんな……オリヴィア様は本当に、ファンタジアを取り戻す気があるのでしょうか?」

「もしかして悪魔にんじゃねえか?」

「まさか……」

「ハハ……」


 しばらくして、どこかに引っ込んだのか、甲板にいた船員たちの声は聞こえなくなった。俺はオリヴィアの魂の上に身を潜めたまま、改めて横の巨大な帆船を見上げた。オリヴィアボートの数十倍はあろうかというバカにでかい船の横には……一体誰がこの異世界に文字を持ち込んだのか……『オリヴィア号』の文字がデカデカと描かれていた。

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