第18話
「オリヴィア……お前、オリヴィアだよな?」
目の前に現れた青白いものに、俺はベッドから身を乗り出し囁きかけた。ソイツはオリヴィアの顔でキョトンと首をかしげ、何やら口をパクパクと動かした。だけどソイツがどんなに喉を震わせても、俺の耳には何も聞こえやしなかった。喋れないのだ。俺がオリヴィアに体を奪われ、魂だけになった時と同じだ。天井付近を浮かぶ青白い霊体から目を逸らさないようにして、ゆっくりとベッドから降りソイツに近づいた。霊体オリヴィアは、鯖の煮付けを大切そうに抱きかかえながら、俺の顔を不思議そうに眺めていた。
「オリヴィア……お前、こんな近くにいたのか」
『…………』
「生まれ故郷に……ファンタジアには戻らなかったのか?」
『…………』
「魂だけになっちまったんだな……俺が、体に戻ったから?」
『…………』
俺が話しかけても、オリヴィアは何も答えなかった。俺がそっと人差し指の先で霊体に触れると、オリヴィアは震えるように体を波立たせ、やがてその形をアメーバ状に崩してしまった。魂が弱りすぎて、形を保ったままでいられないのだろう。宙に浮いていたアメーバが、手にしていた鯖の煮付けを落としてしまわないようそっと床に着地した。俺はうねうねと蠢くオリヴィアを両手で抱きかかえ、深いため息を漏らした。
「全く……お前のせいで、俺の高校生活は滅茶苦茶だよ」
『…………』
俺の言葉に、オリヴィアはゼリーのように体を震わせた。
「だけど、その、まあなんだ……」
俺は顔の横をポリポリと掻いた。
「井納の時は、心配してくれて、ありがとうな……小鳥や母さんも、お前に会いたがってたぞ」
腕の中で、一瞬霊体がオリヴィアの驚いたような顔を作って、またすぐに液状に戻った。俺はちょっと照れくさくなって、誤魔化すように白い歯を見せた。
「とにかく、無事で良かったよ。親父も帰ってきたんじゃないかな。みんな下の階にいるから、顔見せてけよ。これからのことは、その後考えようぜ」
□□□
「恨むんならその”オリヴィアちゃん”を恨むんだなア!!」
「ぎゃあああああッ!?」
目の前から灼熱の炎が矢のように降り注いで、俺は思わず悲鳴を上げた。かろうじて避けた火球の群れは、そのままコンクリートの地面を深く抉って、通学路に巨大なクレーターを作った。俺はへなへなと腰を抜かした。目の前に出来た穴から立ち上がる黒煙が、焦げ付いた匂いで俺の鼻をツンと刺激した。粉々に砕かれたコンクリートの破片から、熱気とともに紫の炎が轟々と燃え盛っている。火の手はあっという間に道全体に広まった。不思議な色をした火の海に囲まれ、あまりの出来事に俺は絶句した。
早朝の通学路。
いつものようにバスに乗るために坂道を下っていた俺の前に、またしても灰色のスーツ姿の男が現れた。髪の毛を真っ赤に染めたソイツは、挨拶もなしに突然俺に向かって火の玉を飛ばし始めたのである。ガタイの良い大男は、手にした灰色のマグカップを啜りながら、ゆっくりと俺に近づいてきた。
「観念しな! テメーが井納のバカをやったって、もう調べはついてんだ!」
「……!」
大男ははち切れんばかりに大きな胸筋を揺らし、太い眉をピクピクと動かして俺に不気味な笑みを浮かべた。通学の途中で襲ってきた謎の暴漢……風のドラゴンを操っていた、井納の仲間なのだ。
「俺じゃねえって!」
ズシンズシンと、巨体を揺らしながら大股で男が近づいてくる。幸いなことに、周囲には人は見当たらなかった。この時間帯はいつも学生で溢れているはずなのだが、何か不思議な力で人避けでもしているのだろうか? 座りこむ俺の上に覆いかぶさるように、男は巨大な影を作り朝の陽の光を遮り、ニヤリと笑った。
「安心しろ、殺しゃしねえ。ちょっとばかし別の世界に転生してもらうだけだ」
「だから、それ死んでるじゃん!」
「一体どうやったんだ? え? 魔法の杖も取られて……まだ何か力を隠してやがるな? 俺に見せてみろ」
「違うって……俺、なんもやってねえんだよ! オリヴィアってやつが俺に乗り移ってきて……!」
「分かった、分かった。俺も井納の高慢ちきには、嫌気がさしていたところだ。だけどな」
大男が、テニスボールくらいはありそうな大きな目玉をぐいっと俺の顔に近づけて言った。
「アイツの腕だけは確かだった。いくら井納が威張り腐った奴でも、そう簡単にやられちまうとは思えねえ」
「……!」
「俺は
「ひッ……!?」
男はそう宣言して、”魔法のマグカップ”をその巨大な口に運んだ。
その途端、彼の周りに再び紫色の炎がいくつも浮かび上がった。まるで鬼火だ。墓場で見かけたら霊魂と見間違うような、半ば幻想的な火の飛礫が宙に浮かび、突撃はまだかと彼の合図を待っていた。大気を伝って感じる熱気に、俺は背中にじっとりと冷たい汗を掻いた。
なんてことだ。
すでに井納の件は、彼らの耳に入っていたのだ。それから間髪容れず再び俺を襲いに来た……俺はすでに体を取り戻し、何の力も持っていないってのに!
「だらしねえなあ……こないだまで散々カメラの前でギャンギャン叫んでたじゃねえか」
「ンなこと言われても……!」
あれは俺じゃなかったと、どうやったら分かってくれるだろう。灼熱の炎を前に身を縮こまらせる俺に、男が半ば呆れたように肩をすくめた。吉川の言う通りになった。井納がやられたことで、彼らはさらに躍起になって俺を倒しに来たのだ。
「なんで……」
「あ?」
気がつくと俺は、いつの間にか涙目になっていた。
「なんでそんな……俺を狙うんだよ!?」
「おーおー、ここに来て命乞いかよ。あんだけ大見得切って、今更怖くなったか?」
「もう良いだろ、杖は取り上げたんだから! 勘弁してくれ! もう何にもしないって、俺にゃできないって!!」
「アホか。お前は魔法の杖を取り上げられて、その状況でなお井納のバカを倒したんだ。誰だって警戒するに決まってんだろ」
「アンタらだって、そうやって魔法の力使ってんじゃんかよ! なのになんで俺ばっかり……!」
紫の炎がゆらゆらと大気を揺らし、俺の頬をかすめて飛んで来た。俺は顔を仰け反らせながら泣き叫んだ。
「だからアホかってんだ、お前は。良いか? 炎ってのは……」
大男が毛むくじゃらの太い指で、自分の周りを揺らめく紫の炎を指差した。
「簡単に誰もが扱えるモンじゃなかったから、他の動物を押しのけ人間が天下を取ったんだ。はるか昔、炎は魔法そのものだった。現代じゃ誰だって、百円も出しゃライターでポン! だけどよ……」
「……!」
「みんながみんな気軽に炎を扱えるんじゃ、そりゃ魔法でもなんでもねえ、ただの道具と同じよ。一部の特権階級だけが使うからこそ、魔法は魔法なんだ」
男はそう言ってもう一度マグカップに口をつけた。その途端、ふわふわとそこら中に漂っていた紫の炎が、又しても一斉に俺に向かって飛びかかって来た。
「うわああああッ!!?」
もうダメだ。炎の矢の雨を前に、俺は思わず目を瞑り、無駄だと分かりつつ両腕で顔を庇った。だがいくら待っても、炎の矢は俺の体に突き刺さって来なかった。俺は恐る恐る目を開けた。
「出やがったな。コイツがテメーの切り札……”オリヴィアちゃん”か」
目の前では、灰色スーツの大男が俺の前に仁王立ちして、ニヤリと笑っていた。
俺は驚いて目を見開いた。一体いつからついて来ていたのだろうか、ふわふわとした青白い霊体がその魂を薄い板のように伸ばし、俺と炎の間に立ちふさがって守っていた。
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