第17話

「おい……見ろよ」

「アイツだぞ、アイツ」

「TVに出てた……」

「一年の、”吉澤芳樹”」


 背中の方から囁き声が聞こえてくる。一年から三年まで、全校生徒たちが入り乱れる早朝の靴箱の前。噂話など気にしまいと思っていても、どうしても自分の名前が出るたびに耳をそばだててしまう。俺は生徒たちのヒソヒソ話に聞こえないフリをしながら、急いで先端が青色の上靴に履き替え臨時教室へと向かった。


 久しぶりの、二本足が揃っての登校はやはり感慨深いものだった。

 崩れかけた廊下の壁。

 そこに集まった、まだ眠そうな生徒たちの顔。

 今までずっとプカプカと宙に浮きながら、あるいは地べたをずるずると這いずり回ってオリヴィアの後ろをついて歩いていたものだから、自分本来の視線の高さに戻っただけでも新鮮に感じる。

 昨日の午後、井納の襲撃を受け自分たちの教室が粉々になってしまったので、生徒たちは”臨時教室”として裏手側にある旧校舎で授業を受けることになっていた。こんな時くらい、学校なんか休みにすればいいのに……とも思うが、どうもそう言う訳にはいかないらしい。案の定、今朝登校してきた生徒たちはみな、不平不満ここに極まれり、といった顔をしていた。


 何よりその原因が、この学校に所属する一年にあると言うことを、昨日のニュースの報道で全員知っていた。俺は誰とも目を合わせないように、必死に顔を伏せ、生徒の集まった廊下を縫うように走った。


 旧校舎の臨時教室に入ると、俺の顔を見るなり、すでに登校していた生徒たちが興味深げにジロジロと眺めてきた。みな話しかけては来ないが、俺の方を指差し小声で何事かを囁き合っている。絡みつく彼らの視線を振りほどくように、俺は早足で自分の席まで行ってさっさと座り込んだ。だがその後も、チラチラと俺を盗み見る好奇の目は絶えなかった。


 無理もない。何せ彼らはその目で見てきているのだ。俺が(正確には、オリヴィアだが)この間まで、この教室で何をしてきたのかを。俺は普段読みもしない数学の教科書をカバンの中から取り出して、読んでいるフリをした。


「おはよう」

「!」

 すると、前の席に座った生徒が俺に挨拶してきた。吉川だった。吉川は俺が机の上に立てかけていた『数学1A』の教科書を見て、ふっと小さな笑みを零した。

「相変わらずだね」

「……どこがだよ」

 俺は急に肩の力が抜けたようになって、机の上にヘナヘナと倒れ込んだ。


 吉川の方こそ、相変わらず吉川だった。

 昨日の出来事も、それからニュースで報道されたことも、吉川は全部知っているはずだった。にもかかわらず、同じように接してくれる吉川が今の俺には心底ありがたかった。

 それから午前中の授業が終わり、昼休みになって俺は吉川と一緒に中庭で昼食を取りながら、彼に一連の出来事を話して聞かせた。


 突然オリヴィアが異世界から俺に転生してきたこと、俺の体を使って、オリヴィアがやりたい放題やり始めたこと、かと思ったら彼女の妹がコッチにやってきたり、井納と名乗る男が突然現れたこと……吉川は腰を折ることなく、俺の話に最後までじっと耳を傾けてくれた。


 教室で暴れていたのが俺ではなくオリヴィアだったと言う話になると、吉川はようやく合点が行ったと言うように何度も深く頷いた。俺は俺で、人間の喉を取り戻しちゃんと言葉が通じることに改めて感動していた。こんなにも、意思疎通できることがありがたいものだったなんて。


「……それじゃ、オリヴィアちゃんはどこに行ったの?」

 大体の話が終わると、吉川は少し不思議そうに首をかしげ俺の顔を眺めた。俺は肩をすくめた。

「さァな。分からない……朝目が覚めたら、いつの間にか自分の体に戻ってたんだ。アリシアも部屋からいなくなってた」

「二人とも自分たちの世界に無事戻ったのかな……だと良いんだけど」

「良いもんかよ。かァなり無茶苦茶な王女様だったぜ、アイツは」


 人の良さそうな心配顔を浮かべる吉川に俺はそう吐き捨てた。昼休みの中庭には、人はまばらにしかおらず、太陽の光が旧校舎の壁に遮られて涼しげな日陰スポットを作り出していた。

「仮に、ヨッシーの魂が抜け出たみたいに、オリヴィアちゃんもコッチの世界にまだいるんだとしたら、早く見つけないと」

「なんでだよ?」

「だって……」

 吉川が真面目な顔で、俺の目をじっと覗き込んだ。


「みんな君の体が乗っ取られただなんて、知らないじゃないか。彼女がいないことには、そんなの証明のしようもないし。その政府の人たちだって、君が勝手に魔法を使ったって思ってるんだよ。これからヨッシー、もっと大勢の人たちに狙われることになると思うよ」

 

□□□


「ただいまァ……」

「おかえり……なんだ、お兄ちゃんか」

「なんだってなんだよ」


 玄関を開けるなり、小鳥が俺の顔を見てがっかりしたように口をすぼめた。

「オリヴィアちゃんだったら良かったのに」

「……悪かったな、俺で」

 心底残念そうな顔で自分の兄を見上げる小鳥に、俺は悪態をついた。自分の家に帰ってきたと言うのに、落胆されるとは一体どう言うことなのか。小鳥はそれ以上何も言わず、俺から目をそらしてさっさと二階にある自分の部屋に引っ込んでしまった。


 それからしばらくして夕食の時間になった。

 親父は残業しているのかまだ家に帰っておらず、俺と小鳥と母さんの三人で席を囲んだ。食卓は何処と無く暗い雰囲気で、会話も盛り上がることなくみんな黙々とご飯を食べ続けた。テーブルの向こうに置かれたTVの笑い声が、やけに虚しく吉澤家のリビングに響き渡った。やがて小鳥が箸を下ろし、悲しそうな顔でポツリと呟いた。


「せっかく、オリヴィアちゃんとアリシアちゃんと、三人でカラオケ行く約束してたのにな……」

「…………」

 そう言って小鳥は、俺の方を少し恨めしそうにチラリと見上げた。俺はTVに夢中になっているフリをして、じっと画面を見つめ続けた。なんだろう。せっかく自分の体を取り戻したと言うのに、学校でも家でもちっとも歓迎されていないようなこの感じは。もしかしたら俺は、オリヴィアに転生されたままだった方が幸せだったのかもしれない。


「きっといつか戻ってくるわよ。ひょっこり顔を見せに来てくれるわ」

 母さんが小鳥を励ますように明るい声を出した。

「そうだと良いなあ……」

「そうよ。あれだけ仲良くなったんだもの。また芳樹の体に転生して来てくれるわ」

「そっか……そうだよね」

 小鳥の顔がぱあっと輝いた。

「あーあ、早く会いたいなあ。早く転生して来てくれないかなあ」

「そうね、私も楽しみ。会いたいわねえ、オリヴィアちゃんたちに……」

「…………」

 小鳥と母さんが顔を見合わせてほほ笑み合った。何だか居た堪れなくなって、俺は急いで鯖の煮付けを掻っ込むと、そそくさと自分の部屋へと戻った。


 部屋に戻っても宿題も何も手につかず、俺は早々にベッドの上にその身を投げ出した。視線の先に、昨日オリヴィアが本棚の上に飾った鯖の煮付けが見えた。


 吉川は何やら不吉なことを言っていたが、何より俺は体を取り戻せたことだし、これで十分ハッピーエンドなはずだった。一体何があったのか知らないが、オリヴィアもなんだかんだ言って、やっぱり家に帰りたくなったとかそう言うトコだろう。これからようやく、本来の高校生活が戻ってくるのだ。魔法や異世界とは無縁の、平凡で幸福な日常生活が……。


「ン?」

 その時だった。視界の端で何かが動いた気がして、俺は横になったまま目を凝らした。俺が見ている前で、本棚の上にあるサランラップで包まれた食べかけの鯖の煮付けが、一人でに空中に持ち上がった。

「!」

 俺は思わず上半身を起こした。空中に浮いた鯖の煮付けは、まるで見えない誰かがそこにいて、持ち上げているかのように、勝手に動き始めた。もしかして、これは……。


 すると、目を細めて見つめていた俺の前で、部屋の壁の向こうから突然「にゅっ」と青白いぶよぶよしたものが顔をのぞかせた。俺は思わずその場でひっくり返りそうになった。


「……オリヴィアか!?」

 なんとか態勢を立て直した俺は、霊体のようなふわふわとしたソイツに向かって囁いた。


 ソイツは鯖の煮付けを握りしめたまま、黙ってその大きな瞳で俺を見つめ返して来た。淡い光を放つその謎の生き物は、間違いない……俺が昨晩夢で見たのと同じ……ファンタジアの国の王女様の顔をしていた。

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