第16話

「ヨッシー!!」


 角を曲がると、門の前に立っていたパジャマ姿のオリヴィアが俺に気づき、嬉しそうに顔を綻ばせこちらに駆け寄ってきた。

「心配したぞヨッシー!」

 オリヴィアがそのまま勢いよく俺に抱きついてきた。すっかり寝静まった深夜の住宅街の傍。俺は蹌踉めきながらも、ワシャワシャと頭を撫でてくるオリヴィアに、されるがままになっていた。

「勝ったんじゃな! アイツに……イノーに勝ったんじゃな!?」

 楽しそうにはしゃぐオリヴィアとは対照的に、俺は半ば夢見心地のまま、オリヴィアの問いに「はい」とも「いいえ」とも言えずにいた。


 ついさっき、一体俺の魂に何が起こったのだろう?


 ……気がついたら、俺は斬りかかってきた井納と一緒に、空の上に飛ばされていた。井納は俺が魔法を使ったのだと勘違いしていたが、あいにく俺にそんな力はない。オリヴィアもアリシアも魔法の道具を奪われていたから、彼女たちにもそんな芸当はできっこないだろう。そもそもオリヴィアに、気圧の差を利用した風の竜の撃退法など、思いつくはずもなかった。


 誰かが……きっとあの場にいた誰かが、俺を助けてくれたのだ。

 でも、一体誰が?


 俺はオリヴィアの胸に顔を埋めながら(これが異世界からやってきた美少女だったらどんなに嬉しかったか分からない。だが悲しいことに、俺が埋めているのは、他ならぬ俺の胸だった)、肩越しに、門の前で待っていてくれた家族を覗き見た。眠そうに目をこする小鳥に、アリシア、母さんと、それから親父……。

「でも……」

 再開を喜ぶオリヴィアを見つめながら、小鳥がぼそりと呟いた。

「どうやって倒したの?」

「それは……詳しクは分かりまセンわ。私も部屋の窓カラこっそり眺めていまシタけれド……気がついたら、ヨッシーさんと、イノーさんがフッと姿を消して……」

 アリシアが、小鳥の横で困ったように首をかしげた。あの時、騒ぎを聞きつけアリシアもまた家の前で行われていた騒動を見ていたのだ。


「ソレから、武器を持った人タチが急に慌て出シテ……一体どうなったんだろうと思っていタラ、たった今その子が帰ってきたんデスわ」

 アリシアがそう言って俺を指差した。

 俺はまだオリヴィアの腕の中で弄ばれながら、辺りをぐるりと見渡した。いつの間にか、井納とともについてきていた武装集団たちは姿を消していた。彼らも、何らかの手段で井納の身に起きた異変に気がついたのだろう。


 井納と、彼が喚び出したドラゴンがその後どうなったのか、俺には分からなかった。扉が壊された飛行機の中で、俺もまた外に押し出されないように、必死に魂の形を四角にして開け放たれた扉の前にしがみついた。上空一万メートル以上の高さを時速八〇〇キロメートルで飛ぶ旅客機の外は、異常なほど冷たい風が吹き荒れていた。一体どれくらいの間そのようにしていただろうか。気がつくと、俺はまたしても瞬間移動しており、見慣れた家の近くの遊歩道に移動していた。



「もしかしたら、誰かが魔法を使ったんじゃないか?」

 親父の何気無い一言に、その場にいた全員が振り返った。親父は顔を真っ赤にし、その右手にはまだしっかりとビール缶が握りしめられていた。

「ホラ……瞬間移動さ。きっとここにいる誰かが、二人を異世界に飛ばしたんだ。そして彼を向こうの世界の力で倒した。家族ヨッシーのピンチに、我々の中にある魔法の力が目覚めたんだ」

「でもソンな……杖もないデスのに」

「お父さん、ちょっと飲み過ぎですよ」

 すでに目が据わっている親父の横で、母さんが咳払いを一つしながら窘めた。


「でも私たち、異世界人でもないのに。そんな都合よく、ピンチの時に魔法の力なんて目覚めるかなあ……?」

「だってホラ、”魔法の杖”じゃなくてもいいんじゃないか? アリシアちゃんは”魔法のチェーンソー”だったろ? これが、急に”魔法の鯖の煮付け”になったっていいわけじゃないか」

 首をかしげる小鳥に、親父がオリヴィアから受け取った鯖の煮付けをひょいと掲げて見せた。何が”魔法の鯖の煮付け”だ。夕食のおかずが、急に魔法を使う触媒になっていいわけがないだろう。


「なるほど! そうじゃったのか!」

 だがこれに目を輝かせたのが、オリヴィアだった。

「素晴らしい! フム。確かに、よく見れば見るほど、何と美しい食べ物なんじゃ!」

 オリヴィアは俺をほっぽり出し、親父の左手に握られた鯖の煮付けを食い入るように見つめた。

「やはりファンタジアの神々は、ワシを見捨ててはいなかった! ヨッシーと、この”魔法の鯖の煮付け”がその証拠! 機運はワシとともに熟せり!」

「まあ! そうだったンデスね!」

 オリヴィアの言葉に、アリシアもようやく納得したように頷いた。ダメだ。このままでは日本が、ただの缶詰の保存食がどんどんおかしな方向へと誤解されていく。

「母様! もっとこれが食べたい! 明日も夕食は鯖の煮付けにしてくれ!」

「はいはい、分かりました。もう今日は遅いから寝なさい。明日は学校ですよ」

 母さんが小さく欠伸をしながらオリヴィアを軽くあしらった。頰を紅潮させたオリヴィアは、食べかけの鯖の煮付けを大事そうに両手に持ち、家族と一緒にぞろぞろと家の中へと入っていった。

 その晩、俺はオリヴィアにトランポリン代わりにされながら(「ふわふわじゃ! ヨッシーには弾力がある!」)、疲れ切って朦朧とした頭でぼんやりとさっきの出来事を考えていた。俺を見つけた時の、オリヴィアの嬉しそうな顔……電気が消され真っ暗になった部屋の本棚の上には、サランラップに包まれた鯖の煮付けがまるでのトロフィーのように大切そうに飾られていた。


 誰かが”魔法の力”を使ったことは間違いない。

 ”鯖の煮付け”は置いておくにしても、他に何か触媒があれば、例えばアリシアが知らず識らずのうちに魔法を使ったとしてもおかしくはない。”鯖の煮付け”以外で、あの時家族が手に持っていたもの……。


 親父のビールだ。


 そう思った瞬間、俺は激しく後悔した。”魔法のビール”だなんて、発想が親父と同じだ。こんなところで家族の繋がりを見せつけられるだなんて、不意打ちもいいとこだった。

 でも、だとしたら少し合点がいく。

 最近の親父は、アリシアと初めて会った時に見せたあり得ないほど素早い動きもそうだし、なんだかいつもとちょっと違う。思えば親父が『異世界に転生したい』と言い出したあの日から、俺は転生してきたオリヴィアに振り回されっぱなしで気が回らなかったが、魔法だの何だのと俺の日常におかしなことが起こり始めた。

 それに、ここ数日の親父ときたら、いつも以上に家にいる時はずっと右手に缶ビールを握りしめている。てっきり会社で嫌なことでもあったのかと思っていたが……。


 ……とにかく、明日から親父を注意深く観察しよう。


 無理やりそう結論づけ、俺は眠りに入った。今日は一日中色々ありすぎて、疲れていたせいかすぐに眠ってしまった。


 その晩、俺は久しぶりに夢を見た。


 激しい揺れとともに、壊れていく校舎、灰色のスーツに身を包みあざ笑う井納。それを睨みつけるオリヴィア。それから、知らない景色……道端には色とりどりの花が咲き乱れ、夜空には七色の流れ星が飛び交っていた。日本ではない、まさに夢のような見慣れない風景が、目の前をゆっくりと通り過ぎて行く。


 夢の中で、俺の視点はふわふわと風のようにに流されながら、やがて大きな城のようなところに辿り着いた。城の中では、大勢の人が集まっていた。長テーブルにずらりと並べられた豪勢な料理、壁際に飾られた黄金の甲冑、ダンスに勤しむ人々……。その中で、一際高いところにある玉座に、純白のドレスを着た女性が座っていた。ウェーブのかかった金色の髪の毛、プロポーションの取れた体つき……まるで物語の中の王女様だ。


 王女様の顔。その顔は、オリヴィアだった。


 夢の中のオリヴィアはアリシアにそっくりな顔をしていて、それでいて妹よりも精悍な、気の強そうな顔つきをしていた。理由は分からないが、俺は彼女がオリヴィアだとすぐにわかった。そうか、ここがオリヴィアのふるさと、いつも話題に上がっていたファンタジアなのだ。舞踏会では、華麗なステップを披露するアリシアの姿も見えた。オリヴィアは目の前で繰り広げられるダンスの様子を退屈そうに眺めていたが、やがて不意に、夢の中の俺と目を合わせた。オリヴィアは俺に向けて笑みを零し……そこで俺はパッと目が覚めた。


「……ン?」


 だが目を覚ましても、俺は違和感が拭えなかった。

 それまで魂が抜け出ていた俺は、その日の朝、気がつくと俺の体の中に戻っていた。

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