第8話

 太陽はすでに、遠く西の方に半分近く沈んでいた。

 坂道の途中にあるカーブミラーや、立ち並ぶ家々の窓ガラスがオレンジ色に染まる夕暮れの頃。普段はどこか物悲しくも穏やかな空間であるはずのこの遊歩道に、今や大勢の見物客の騒ぎ声があちらこちらから響き渡っていた。皆一様にスマホのカメラを構えたり、誰かに電話しながら、騒ぎの中心を興味深げに眺めている。彼らのカメラのレンズが中央に捉えているのは……俺の姿だった。正確には、俺の体に転生してきた魔女・オリヴィアだった。


「覚悟してクダサイ、オリヴィアお姉様!!」

「何を! 生意気な!!」

 アリシアと呼ばれた少女が道の真ん中で大声で叫び、オリヴィアも負けじと言い返した。彼女たちは、舞台の上にでもいるつもりなのだろうか。その音量に耳を塞ぎたくなりながら、俺は誰にも見られていないのに顔を真っ赤にして俯いた。

「何、あれ?」

「撮影?」

「アイツ、吉澤じゃね?」

「マジじゃん。何やってんの?」

 周りを取り囲んでいた人々が口々に騒ぎ立てる。二人の大声に引き連れられ、ギャラリーはさらに集まってきた。中には同じ高校の、知った顔もちらほら見受けられた。俺の魂はとうとう人の形を保てなくなり、ドロリと地面の上で溶け出した。


「お友達かい?」

 オリヴィアの隣にいた親父が、のん気にそんなことを尋ねた。オリヴィアはコクリと頷いた。

「ウム。奴はワシの妹の……」

「お姉様! さあ! こんなところでウロウロしていないで、早くアリシアとファンタジアに戻りまショウ!!」

 オリヴィアがいい終わる前に、ピンクのフリフリを着たアリシアが険しい顔で叫んだ。

「召使いたちも、城にいる者は大変心配していマス。ポット係のロシアンヌなんか『オリヴィアお嬢様がいなくなった』と、かわいそうに紅茶も喉を通らなくなって……」

「嫌じゃ!」

 オリヴィアは、だがアリシアの提案を受け入れはしなかった。

「ワシはこの国で家来をかき集め、憎っくき反逆者どもをこの手で打ち倒すのじゃ!」

「まだそんなことを言っているんデスか! もう王の時代は終わったのデスよ」


 イヤイヤと子供のように首を振るオリヴィアに、アリシアが呆れたようにため息をついた。

「全く……いつまで経ってもそんなだから、三百年も封印されちゃうんデスよ」

「何じゃと?」

 アリシアの口調にカチンときたのか、オリヴィアの顔もまた一層険しくなった。


 彼女たちはさっきから何を言っているのだろう。

 俺はちんぷんかんぷんのまま、親父を挟んで睨み合う二人を交互に見比べた。オリヴィアが元いた国で何があったのか知らないが、このアリシアと言う少女は、彼女を連れ戻しに来たと見て間違いない。


 これは、渡りに舟かもしれない。俺は突然現れた少女に希望を見出し、歓迎した。もしかしたら、この少女が俺の体からオリヴィアの魂を引っぺがしてくれるかもしれないのだ。それにしても、三百年も封印されておいて最初にやることが他の世界に転生して家来を集め出すとは、オリヴィアの方もよっぽど腹に据えかねるものがあったのだろう。アリシアが肩をすくめた。


「お姉様。城では何一つ、不自由のない生活を約束されていたではないデスか。政治を王から民へと譲り、我々は生活を保証される……何が不満なのデスか?」

「少なくともワシは椅子を譲った覚えはない」

 オリヴィアが苦々しげに吐き捨てた。

「ワシは戻らん! 何が民主主義じゃ、何が平等じゃ! ワシは王家の血を継ぐものじゃぞ。ワシの見下ろす民のいない国など、戻るに能わぬ!」

「やれやれ……一体いつまで、黴の生えた古臭いタワゴトを言っているのやら。仕方ないデスね」 

 アリシアがその水晶のような瞳に暗い光を宿し、その瞳でオリヴィアをじっと見つめた。


「ワシを連れ戻すつもりなら、殺す気で来いッ!」

「てやっ!」

 オリヴィアが言い終わるか終わらないうちに、アリシアが可愛らしい声を上げそのまま彼女に向かって突進してきた。

「うおお……ッ!?」

 突如周囲にどよめきが走る。俺は目を見開いた。アリシアのか細い両手には、いつの間にか巨大なチェーンソーが握られていた。チェーンソーは鉄の刃を目にもとまらぬ速さで回転させ、耳をつんざくほどの機械音を辺りに鳴り響かせた。幼気な少女の、一体どこにそんな力が隠されていたのか、色白の少女はチェーンソーを振り回しながら躊躇なくオリヴィアの頭の上に叩きつけた。


「きゃああああ!!」

 誰もが次に何が起こるかを想像して、目を瞑った。振り下ろされた鋼鉄の刃は無慈悲にも俺の体を真っ二つ……にはしなかった。オリヴィアもまた杖を構え、彼女の攻撃に合わせて青白く光る楕円形の膜を空間に出現させていた。膜は盾のようにチェーンソーを受け止め、間一髪、オリヴィアの目と鼻の先で止まっていた。膜にガードされそれ以上チェーンソーが進まないと見ると、アリシアは舌打ちし、飛び跳ねるように二、三歩下がった。

「フン。三百年経ってもその程度か」

「くぅ……!!」

 オリヴィアが舌でペロリと唇を舐め、アリシアを見下ろした。アリシアは少し悔しそうな顔をしながらも、再びチェーンソーを振りかぶった。

「戻る気がないノナら……この”魔法のチェーンソー”で、その体バラバラにしてでも連れ帰りマスッ!」

「その意気や良しッ!」

 アリシアが再び突進を繰り返し、オリヴィアは白い歯を見せて笑った。オリヴィアもまた再び杖を構え、杖の先から今度は盾ではなく剣のような青色の光を伸ばし、刺し違える構えを見せた。

『ちょ……!?』

 俺は絶句した。こいつらは、人の体で勝手に何をやろうとしているんだ。何が「その意気や良し」だ。ちっとも良くない。本人の了承も無しに、勝手に体をバラバラにして異世界に持ち帰らないで欲しい。

『やめろおおぉッ!!』

 俺は誰にも聞こえないと知りつつ、大声で叫んだ。だが当然二人は止まることなく、振りかぶったそれぞれの武器の切っ先がぶつかり合うその瞬間、再び周囲から爆弾のように悲鳴が上がり、俺は思わず目を瞑った。

「きゃあああああああああ!!」

 悲鳴は夕日に染まる住宅街に木霊し続け、しばらく耳の奥から離れてくれなかった。やがて悲鳴が収まり、俺が恐る恐る目を開けると……。

「!」


 薄紫色のチェーンソーと、青色の剣の間に割って入った親父の姿が目に飛び込んで来た。

 俺は目を疑った。

 親父は振りかぶった二人の手首をしっかりと抑え、仁王立ちしていた。チェーンソーも剣も、どちらの体を引き裂くことなく宙で動きをピタリと止められていた。先ほどまでの騒ぎが嘘のように、その場は静まり返っていた。俺も、周囲で見ていた人々も、オリヴィアもアリシアも、みんな親父を見つめ言葉を失っていた。やがて親父は、夕陽の光を眼鏡に反射させ、諭すような口調で二人に語りかけた。

「やめなさい。若い女の子が、物騒なものを振り回すもんじゃない」

「…………」

 親父に睨まれ、アリシアは少し怯えるような表情を見せ、持っていたチェーンソーは煙のように消え失せた。オリヴィアの構えていた剣もまた、細かい光の粒が辺りに拡散して霧消した。


「いい子だ」

 二人が武器を手放したのを見ると、親父は笑みを浮かべ、その場で呆然とする二人の頭をくしゃくしゃと撫でた。

「オリヴィアちゃん、それからアリシアちゃん」

「「!」」

 親父に呼びかけられた二人が、ビクリと肩を跳ね上がらせた。親父は少しくたびれた顔で、坂道の上を指差し静かに呟いた。


「……帰ろうか。そろそろ晩ご飯の時間だよ」

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