第5話


 モクモクと立ち込める煙の中で、集まった誰もがしばらく言葉を発せずにいた。

 ある者はその場に立ち尽くし、またある者は教室の窓枠に寄りかかり、そしてまたある者は階段で固まったまま。

「……!」

 みんな、目の前で起こった出来事に頭がついていかない……そんな感じだ。俺もまたみんなと同じように、煙を”ゼリー状の体いっぱい”に吸い込みながら、天井近くであんぐりと口を開けていた。さっきまでガラの悪そうな三人組のいた、その真ん中に、今では可愛らしいキジ猫がちょこんと座ってゴロゴロ喉を鳴らしている。両脇に取り残された二人が、猫になってしまった仲間を声も出せずに呆然と眺めていた。対照的に、オリヴィアはぱあっと花が咲いたように顔中に笑みを浮かべ、キジ猫を抱き上げ頬ずりを始めた。

「よーし、よしよし! いい子じゃ……お主が、ワシのシモベ第一号じゃ!」

「ミャーゴ……」

『……!!』



 


「オイ……」

「何あれ……猫?」

「一体どうなってんだよ??」


 白煙が薄まり、次第に廊下周辺がざわざわと喧騒を取り戻して行く。

 公衆の面前、大勢の生徒が行き交う忙しい朝の渡り廊下で。青いジャージを着た一年生が堂々と”この世界のものではない魔術”を使って見せたことに、全員が驚いていた。

 そりゃそうだ。

 現実世界に魔法なんてない。

 魔法なんて漫画やアニメ、隣の世界の中だけの話であって、だからこそみんなこぞって異世界に転生したがっている訳だ。今やこの世界の不文律として、異世界の”あれこれ”を現実に持ち込むのは法律で一律禁止されていた。政治、経済、文化、伝統、人種……”現実世界を守るため”として、日本政府も転生に関してはかなり厳しい法律を定めている。破ったら、罰金刑だけでは済まないだろう。魔法でガス代が浮いたなんて、本来浮かれている場合ではないのだ。それなのに……。



 


 今までその”不文律”を、大勢の人々が目撃している前で堂々と破るバカな奴なんて、見たことがない。それなのに、まさにそんな奴が俺の目の前にいた。しかもそれは、”俺”の姿をしていた。そいつはあろうことか出会い頭に生徒を猫に変えてみせ、どこか満足げな表情を浮かべていた。

「て……テメ〜……ッ!!」

「ショウちゃんに、何すんだ! この……ッ!!」

 仲間の一人を猫にされ取り残された二人組が、どこか腰が引けながらも、必死にオリヴィアに食ってかかる。次第に、渡り廊下は蜂の巣を叩いたような騒ぎになっていた。

「返せッ! この青ジャージ野郎ッ!!」

「一年のくせして、生意気なんだよ!!」

 目の前の理解できない事態に、恐怖の顔すら浮かべていた二年生のかたわらが怒りでその顔色を徐々に赤く染めて行く。オリヴィアは二人に構うことなく、口元に余裕たっぷりの笑みを浮かべうっすらと目を細めた。

「ミャ〜ゴ」

「よしよし」

「シカトこいてんじゃねえぞコラ!」

 啖呵を切った二人が拳を握りしめ、勢いよく猫を抱きかかえるオリヴィアの体へと突っ込んでいった。よく見ると二人ともなかなかの筋肉をしている。これから起こるであろう惨事が頭を過ぎり、俺は思わず身をすくめ目をつむった。だがオリヴィアは、向かってくる二人に逃げることなく平然と言い放った。


「フム。主らの仲間は預かった。返して欲しくば……」

「ざっけんな、オイ……!!」

 オリヴィアが言い終わらないうちに、バッコーン!! と肌を打ち付ける小気味良い音がして、二人のうちの一人が思いっきり振りかぶった拳をオリヴィアの顔面に叩きつけた。


 次の瞬間。


『ぎゃああああああああ!!』

 気がつくと俺は空中に浮いたまま悲鳴を上げていた。俺の顔面を激痛が襲う。鼻が潰れてしまったのだろうか、口の中に鉄の味が広がる。俺は痛みに耐えきれず、そのまま墜落し廊下の床をのたうち回った。だが霊体になった俺の悲鳴は集まった生徒の誰に届くこともなく、みんなオリヴィアと二年生の方に釘付けになっていた。顔面に痛烈な一打をもらったはずのオリヴィアは、顔に傷一つつけず、不敵な笑みを浮かべていた。

「おお……ッ!?」

「なんだ? なんでアイツ、避けねーんだ?」

「痛くないの?」

 オリヴィアは避けるそぶりすら見せなかった。正面からモロに食らったパンチに、廊下で見ていた他の生徒たちがざわめいた。


「どうなってん……だよッ!?」

 驚きの表情を浮かべつつも、今度は二人組のもう一人がオリヴィアに蹴りを繰り出す。低身長だがガタイの良さそうな彼の足が、仁王立ちしていたオリヴィアの股の間を見事に痛打した。だが……。

『ぐおおおおおおおおおおおおッ!!』

 その瞬間、突如全身を貫くような激しい痛みに襲われ、俺は再び床の上で悶絶した。廊下に、誰にも聞こえない叫び声が響き渡る。

「フム」

「何ぃ……!?」


 またしてもオリヴィアは無傷だった。蹴り込んだ二年生が、驚いたようにオリヴィアを見上げた。オリヴィアの腕の中で、キジ猫が退屈そうに欠伸した。オリヴィアは少し楽しそうに笑った。

「どうした? ホレ、もっと力強く蹴り上げんと。体には届いてもワシの魂には届かんぞ」

「何言ってんだアイツ?」

「オイオイオイ……!」 


 まるで手応えのないオリヴィアに、二人組が怪訝そうな目で顔を見合わせた。俺はようやく治まってきた痛みに歯を食いしばりながら、よろよろと顔を上げた。

 おかしい。

 何かがおかしい。

 さっきから殴られているのはオリヴィアの……俺の”体”の方なのに、なぜかゼリー状の俺の霊体の方にばっかりダメージが飛んでくる。


 こんな理不尽があっていいのだろうか。


「これぞ、我がファンタジアに伝わる”守護霊術”よ!」

 涙目になった俺の視界の端で、キジ猫が喉をゴロゴロと震わせ、無傷のオリヴィアが楽しそうに挑発した。

「来い! もっと強く殴らんと、守護霊の憑いた今のワシは倒せんぞ! さあやってみろ!」

『や……やめ……』

「う……うおおおお!!」

 誰が守護霊だ。だが俺の切実なる声は二人組に届くことなく、彼らは再び勇気を振り絞りオリヴィアに殴りかかった。



「はあ……はあ……!」

「フム。残念じゃ」


 しばらくして、オリヴィアが退屈そうにそう言い放った。

 合計、二十発か三十発は殴っただろうか。

 微動だにせず廊下に立つオリヴィアの足元で、二人組が息を切らして膝をついていた。殴る方にも、体力がいる。最後の方は二人とも疲れて、ペチンと頬を撫でるようなパンチになっていた。その間、オリヴィアはかすり傷ひとつつけることなく、悠然とその場に佇んでいた。キジ猫がオリヴィアの頰を撫でるように、細長い尻尾をゆらゆらと揺らした。

 そして俺は。

『…………』

 オリヴィアの”なんとか”という魔法で全ての物理ダメージを転移された俺は、ボロ雑巾のようにゼリー状の体を投げうち、廊下の片隅で蹲っていた。


 ”目立たず・騒がず・浮かれずぎず”。


 それが俺のモットーだったはずだ。

 なのにこの仕打ちは一体なんだ?

 そもそも話に聞く転生とか転移って、こんな感じだったっけ?

『…………』

 この異世界の魔女に転生”されて”から、マジで碌なことになっていない。

 俺は朦朧とする頭で、オリヴィアの放つ冷たい声をどこか遠くの方に感じながら聞いていた。

「……我がファンタジアの奪還に、弾除けにすらならないような弱者はいらぬ」

「ひッ……!?」

 やがてオリヴィアが倒れこむ二人にゆっくりと近づき、冷たい眼光を向けた。二年生の二人はオリヴィアから少しでも遠ざかろうと恐怖に顔を引きつらせ後ずさった。

「うおおッ!?」

「きゃあああああッ!」

 オリヴィアがどこからともなく杖を取り出し、シュッと一振りし風を切った。するとそれだけで、激しい爆発音とともに二階の校舎の窓ガラスを粉々に砕いて壁に巨大な穴を開けた。壁に開いた丸い穴からは、晴れ渡る早朝の空と中庭の景色が綺麗に写っている。固唾を飲んで見守っていた生徒たちの悲鳴が、あちらこちらから巻き起こった。


「オラアアアアアアアアッ!!」

「ぎ……ぎゃあああああああ!?」


 ”目立たず・騒がず・浮かれずぎず”。


 そんな俺のモットーをあざ笑うかのように、オリヴィアは二人組をボールに変え、右足で思いっきり蹴り上げて半壊させた校舎の外に放り出した。

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