第2話
『……!?』
俺は絶句した。
俺の目の前で、寝ていたはずの”俺”が動き出している。一体何が起きていると言うのか。ふわふわと天井付近を漂いながら、俺は俺の意思とは無関係に動き出す”俺”をじっと眺めた。中肉中背。やる気のなさそうな顔。やる気のなさそうなボディ。やる気の見られない目。どこからどう見ても、こいつはいつものやる気のない俺だ。
「ム?」
ベッドから起き上がった”俺”は、俺の視線に気づいたのか上の方を眺め首をかしげた。
「……気のせいか。誰かに見られておるような気がしたんじゃがのう」
(……!)
どうやら”俺”には、幽体になった俺の姿が見えていないようだ。
俺は子供の頃に観た、悪霊に体を乗っ取られるホラー映画を思い出した。額を流れる汗を拭い、生唾をゴクリと飲み込む。どう考えても、今”俺”の体の中には『俺じゃない誰かの魂』が入り込んでいる。
『異世界転生』だ。
こちらの世界から別の異世界に転生することはままあるが、まさか向こうからこっちにやって来るとは……しかもそれが、俺にだったなんて。
俺は空中に体を漂わせたまま、自分の手のひらを眺めた。体から剥がされ、魂だけになった今の俺の手のひらは、半透明のゼリーのように薄くなり向こう側の景色が透けて見えた。
「さて。喚ばれたのは良いものの、ココは一体どこじゃ? ククク……」
ゼリー状になった俺の二の腕の向こうで、”俺”が不敵な笑みを浮かべ、キョロキョロと部屋の中を見回し始めた。俺は混乱する頭でじっと”俺”の体を眺めた。喚ばれた? 一体誰に? オイ、やめろ。高校生にもなって、「ククク」なんてそんなあからさまに痛々しい笑い方をしないでくれ。というか、そのジジくさい語尾やめてくれ。そんなセリフ、クラスメイトの誰かに聞かれたら恥ずかしくて明日から学校に行けなくなってしまう。おまえこそ何者だ。勝手に俺の体に入って、何をしようってんだ。
「フン」
『あ……オイ!』
不意に、”俺”が机の上に並べられた物理の教科書を手に取った。だが”俺”は教科書を一目眺めただけで、鼻で笑ってゴミ箱にポイと投げ捨てた。
『何すんだ!?』
俺は相手に聞こえていないと分かっていながらも、叫ばずにはいられなかった。
「何じゃ、これは? 難しすぎて、さっぱり分からん」
『捨てんなよ! 何で分かんないのに自慢げなんだ! 何なんだおまえ……!?』
「何じゃ、”今回”は男か。つまらん……」
『ズボンを脱ぐなズボンを! 何やってんだてめ……!』
「貧相なモノぶら下げよって。何じゃ……本当に男か?」
『ウ……ウオオオオオオッ!!』
急に”俺”がベルトをカチャカチャと外し始め、下着の中を覗き見て冷たい目を浮かべた。予想外の辱めを受けた俺は、あらん限りの雄たけびを上げ”俺”の体に突っ込んだ。だが、俺は”俺”の体に触れることもできず、そのまま体を擦り抜けた。勢い余って顔だけ自室の床を突き抜けた俺の視界に、ちょうど真下にあるリビングで母さんがソファに寝っ転がって二時間ドラマを観ているのが飛び込んできた。俺は慌ててゼリー状の顔を床から引っこ抜いた。
『さっきから何してんだテメー!! 勝手に俺の体使ってんじゃねえ!! ズボン上げろズボンッ!!』
「フム。おかしいのう……さっきから何となく、騒がしい気がするわい」
「お兄ちゃん?」
「『!』」
すると、突然部屋のドアが開き、向こうから妹が怪訝そうな顔を覗かせた。妹は部屋の真ん中で下着をずり下ろした”俺”と、その足元にひざまずき必死にズボンを上げようとするゼリー状の俺を見て固まった。
「き……」
『小鳥!?』
「何じゃ、ここの家のモノか? ちょうど良かった。ワシは……」
「きゃああああああああああああッ!!」
中学生に上がったばっかりの、妹の甲高い叫び声が静まり返った夜の住宅街に響き渡った。
俺はこの日ほど、異世界に転生したいと思ったことはない。
□□□
「……ははあ、なるほど。あなたはそれじゃあ、異世界『ファンタジア』から来た転生者ってことですな?」
「ウム、いかにも。ワシこそは、ファンタジア随一の偉大なる魔女、オリヴィアじゃ。これからは良きに計らえ」
「オリヴィアちゃん。……な、言ったろう? このオリヴィアちゃんが、息子の体に入ってるんだよ、母さん」
「あらやだ。芳樹はどこに行ったのかしら……あの子ったら、まだ宿題も終わらせてないのに」
『ここにいるっての……』
困り顔の母さんに、ゼリー状になった俺は気づかれることもないまま横からボソリと突っ込んだ。
妹が気絶してから、急遽開かれた緊急家族会議にて、”俺”の体に転生してきた何者かが自己紹介を始めた。”彼女”の話によると、正体は『ファンタジア』という異世界から日本へとやってきた魔女らしい。三百年以上封印されていたと言うオリヴィアは、何の因果か眠っていた俺の体に転生し、俺の魂を体から引ッぺがした。かくして幽体となった俺は、テーブルの上をふわふわと漂い、家族の会話に参加することもできずただ聞く羽目になったと言うことである。
「芳樹はきっと転生したんだろう」
リビングのソファで気絶したままの妹を看病している母さんに、親父が真顔で頷いた。
「アイツもようやく決心がついたんだ。宿題より、大切なものが見つかったのさ。俺にはその気持ちが良く分かる。それに、この世界にいたってどうせ碌な者にはならなかっただろうからな。芳樹のタメにもなったのかもしれん」
『聞こえてんだよクソ親父。勝手なこと言ってんじゃねえぞ』
「そうね……あの子が自分で選んだ道なら……。親が反対する理由なんてないのかも……」
『母さんまで……』
二人とも何かを納得したような顔で頷き合い、それからテーブルで残り物の肉じゃがをガツガツと貪り食っている”俺”を振り返った。
「それに、オリヴィアちゃんがいるものね」
「ム?」
「そうだな。過ぎたことを言ってもしょうがない。芳樹のことは、もう忘れよう」
『オイ!』
目の前で淡々と告げられる家庭内戦力外通告に、俺は思わず大きな声を上げた。いくら何でも、見切りが早すぎる。実の息子が別の世界に転生したんだから、もうちょっとこう……あるだろう? だが、半透明の魂だけの存在になってしまった俺の言葉は、あいにく家族の誰にも届かなかった。俺の話題はものの数秒で打ち切られ、今や家族の話題はオリヴィア一色になっていた。母さんがうれしそうに”俺ヴィア”の頭を撫でた。
「オリヴィアちゃんは、魔女なのよね? 魔法とか使えるの?」
「ウム。使えるぞ」
「そりゃすごい!」
俺ヴィアはじゃがいもで口の中をいっぱいにしながら、褒められてまんざらでもない顔で頷いた。
「じゃが、三百年も”ぶらんく”があっての……やはり多少は力が弱まっとる。昔なら辺り一面を昼にしてしまうくらいの火球を出したもんじゃが……今じゃこの通りじゃ」
「おおッ!?」
俺ヴィアが空中に文字を書くかのように人差し指をくるくると振ると、途端にテーブルの上に巨大な火の玉がボウッ! と出現した。火の玉は瞬く間に消え去ったが、親父と母さんは思わず感嘆の声を上げて仰け反った。その反応がうれしかったようで、俺ヴィアはますます得意げな顔をして見せた。
「こりゃたまげた! ガス代いらずだ!」
「助かるわあ」
少し間を置いて顔を見合わせた両親が、にっこりと笑みを浮かべ合った。息子の魂の行く末よりガス代の節約を喜ぶ二人に、俺は自分の魂が泣く声を聞いた。
これ以上、最悪な状況なんてあるのだろうか? 俺は天井付近に呆然と"浮かび"尽くした。そんな俺をあざ笑うかのように、親父が突然俺ヴィアの肩を掴んで叫んだ。
「オリヴィアちゃん! ぜひ俺に転生術を教えてくれ!」
「ム?」
「俺も転生したいんだよ。頼む!」
「ちょっとお父さん。またその話ですか。みっともないですよ……」
今までニコニコと笑っていた母さんの顔に、スッと影が差した。
「私は行きませんよ」
「母さん、そんなこと言わずに。今時転生なんて、海外旅行みたいなモンじゃないか。オリヴィアちゃんに習えば、きっと楽に渡航できるし」
「でも……」
「フム……できることにはできるが、魂の転生術はそれなりに高度な魔術じゃぞ。習得するまでに、半年はかかるじゃろうな」
俺ヴィアが少し考え込むように口元を手で覆った。
「ほ、本当か!?」
「ちょっと!」
母さんの非難にも聞く耳持たず、親父が半ば興奮気味に目を開いた。俺はそのやりとりを間近で眺めながら、ゼリー状になった顔をより一層青ざめさせた。
マズイ。
このままじゃ、家庭崩壊だ。一夜にして俺の体は別の魂に乗っ取られ、さらに親父は役所を通さず『違法転生』に手を出そうとしている。いくら転生が身近になったとは言え、個人での魂のやりとりは倫理的問題からご法度中のご法度だ。それこそ転校や海外旅行よろしくそれなりの手続きをしなければ、政府が管理する『ゲート』を通させてもらえない。転生者もプライバシーの保護で守られていて、魂の行き先やどうなったのかさえ周りには知らされないのが普通だ。母さんは法律に疎いが、親父がそのことを知らないはずがない。
……まさか親父が、そこまで異世界転生を考えていたとは。
目の前で親父が、子供のように目をキラキラと輝かせた。俺は顔の右半分を天井からぶら下がる蛍光灯に埋めながら頭を抱えた。俺にはどうしても、このオリヴィアとか言う三百年も封印されていたと言う魔女が、正式な手続きを踏んで日本にやって来たとは思えなかった。このままでは最悪の場合、親父は悪い魔女に懐柔され違法に魂をやりとりする悪の手下に身を落としかねない。
「ククク……覚悟するが良い。生半可な修行じゃないぞ?」
「ああ……!」
親父がキッチンに引っ込んだ母さんの目を盗んで、俺ヴィアの手を力強く握りしめた。俺はさっき見た夢を思い出し、少し戻しそうになった。
「ワシも久しぶりの娑婆じゃからのう! 血が騒いで騒いで、今すぐにでも暴れ回りたくてしょうがないわ!」
ふわふわと頭上に浮かぶ俺の絶望もよそ知らず、俺ヴィアが今時古臭い高笑いを決め込んだ。俺はますます顔色を悪くした。何とかして半年以内に俺の体を取り戻さないと、取り返しのつかないことになってしまう……。
「お兄ちゃん……?」
『!』
すると、いつの間にかソファの上で意識を取り戻した妹の小鳥が、天井付近に浮かぶ俺の幽体と目を合わせ、驚いたように眉を吊り上げた。
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