第5話 終幕
葛西は、葵が会社帰りに見舞いに寄りやすそうな病院を選んで、入院した。とはいえ、葵に病院を連絡した時は、本当に見舞いに来てもらえるか、半信半疑だった。
仮に来てもらえなくても、喫茶店での、あの一瞬があっただけで、自分は十分に幸せだと思っていた。
ところが、葵は、本当に、見舞いに来てくれた。会社帰りが多かったが、日曜日の午後に本と雑誌の差し入れを持って現れることもあった。
葵は、葛西の病状については、一切尋ねなかった。かつては葛西も一員であった会社の内輪話を、差しさわりのない程度に語り、世間で話題になっている事柄について話し、ネタが切れたら、黙って、ベッドサイドの椅子に座って、彼女が持ってきた本を読んだ。
その本は、仕事関係の本であることもあれば、彼女が好きなミステリ―小説であることもあった。葛西も、彼女が差し入れてくれた歴史小説を読んだ。
葵が多くを語らなくても、慰めてくれなくても、傍らにいてくれるだけで、葛西は、心が和んだ。
そんな葵が、ある日、読んでいたミステリー小説を膝に置くと、思いがけないことを言い出した。
「葛西さん、そろそろ、ご家族に連絡とった方がいいんじゃない?」
「えっ」と答える葛西の声に不安を感じ取ったのだろうか、葵は「いいえ、今すぐ何かが起こるということじゃなくて、入院していることくらいは、伝えた方がいいんじゃないかと思って」と答えた。
「実は、娘が、今年、大学受験なんだ。余計なことで、家族の気持ちの負担を増やしたくない」
「余計なこと・・・」と、葵は、葛西の言葉を口の中で噛みしめるように復唱した。
「それでなくても、3度もの自殺未遂で、十分に迷惑をかけてきた。3度目なんかは、娘の中学受験の前の年だった」と言いつつ、実は、葛西には、もう一つ、気がかりなことがあった。それは、葛西の妻子が病院に顔を出すようになると、葵が訪ねてくれる回数が減るのではないか、ということだった。
「うーん、超現実的なことを言って、いい?」
「なんだい?」
「入院してから、葛西さんの口座には、会社からのお給料でなく、健康保険組合からの傷病手当金が振り込まれているわけよね。奥さまは、それに気づいて、心配していらっしゃるかもしれないわ」
「だったら、メールの1本でも、送ってくるだろう。幸い、入院してから、一度も、家族から、メールも、電話もない」
「わかった。ご家族の間のことに、他人が余計なくちばしを突っ込んで、ごめんなさい」葵がすわったまま、ペコリと頭を下げた。
「あっ、でも、ひとつだけ、お断りしておくことがある」顔を上げた葵が、葛西を正面から見つめた。「葛西さんのご家族がお見舞いにいらっしゃるようになっても、私は、今まで通り、ここに来させてもらうから。ご存知だと思うけど、私は、図々しいのよ」
葵はかすかに微笑んで、読書に戻った。葵から持ち出された件について、それ以上考えたくなかった葛西も、自分の読書に戻ったが、どうにも集中できないまま、葵の手前、本を手にしているだけという格好になった。
五分もしないうちに、「さて」と、葵が本をたたみ、「今日は、これで帰るわね」と立ち上がった。「来てくれてありがとう」と微笑んで葵を送り出した葛西だったが、その夜は、結局、寝つくことができなかった。
その日以来、葵は、葛西の家族のことを、二度と、持ち出すことはなかった。葛西が、重い腰を上げて、妻に連絡したのは、主治医から「もし、ご親族がいらっしゃったら、そろそろ、お知らせになった方がいいでしょう」と言われたからだった。それは、葛西の死が間近に迫っているという宣告だった。
末期ガンで入院しており、もう先は長くないことを電話で妻に伝えると、妻は、電話の向こうでしゃくりあげ始めた。
給与が傷病手当金に切り換わった時に、真っ先に頭に浮かんだのは、葛西が精神疾患で入院したことだったと、妻は言った。
3度目の自殺未遂の後に家から追い出したことが、葛西の精神疾患の悪化につながったのではないか?それを思うと、とても、自分からは連絡を取れなかったと、妻は涙ながらに続けた。
そこを気にするなら、むしろ急いで連絡してくるべきじゃないのか?違和感があった。
しかし、人生に残された、わずかな時間を、家族と平穏に過ごしたかった葛西は、つまらない揚げ足取りは、止めた。
その週末、妻が、見舞いに訪れた。おととしのリクガメの健康診断以来、2年目に見る妻は、老け込み、くたびれて見えた。
もっとも、彼女の目には、自分は、もっと、老いて、疲れて見えているに違いない。
妻は、病室にいる間中、泣いていた。
妻が泣きたい気持ちが、葛西には、わかる気がした。自分が、彼女の立場でも、泣くだろう。
ただ、そういう涙が、妻と自分の関係をネットリと重たいものにしている感じもあり、それが、妻への連絡をためらっていた、もう一つの理由だったことに、葛西は気づいた。
葛西は、自分が不治の病に侵されていることを打ち明けて以来、葵が泣くのを、一度も、見たことがなかった。そのことが葛西に一種の解放感を与えてくれているのだが、それは、葵と自分が、所詮は、他人だからなのかもしれない。
家族の間柄は、そんなに、スッキリ、サッパリできるものではない。
それから、日曜日には、妻が顔を出すようになった。月曜から土曜までパートを入れている妻には、大変なことだ。
大学生の息子が、ふらっと、平日の夜に、それも面会時間を過ぎてから姿を現したこともあった。
受験生の娘も、模試の帰りに、見舞いに来てくれた。娘は、泣かなかった。何も尋ねなかった。ただ、ベッドサイドの椅子にすわり、黙って、葛西の手を握ってくれた。
「昨日も、奥様がお見えになったのね」月曜日の夜、会社帰りに訪れた葵が、妻が花瓶に生けていった花を見て、言った。妻は、必ず、花を持って見舞いに来る。
一方、葵は、花を持ってきたことがない。本と雑誌だけだ。病状が今より軽かったころは、菓子を持ってきたこともある。
葵には、何事につけ、実質重視で散文的なところがあり、実は、それが、葵に強く惹かれる理由だということが、今、この状況になって、よくわかった。
「葛西さん、私、異動になったのよ」葵が花から窓の外に目を移して、言った。
「どこへ?」
「シンガポール」
10年前まで、葵と一緒に、海外への転勤が当たり前の会社に勤めていたというのに、葛西にとって、葵のシンガポール転勤は、寝耳に水、晴天の霹靂だった。
「それで、出発は、いつ?」
「それが、急な話で。今週の土曜日に日本を発つの」
葛西は、頭の中で、自分に残された時間を計算する。あと4日。葵と会う機会は、あと4回しかない!
「準備とか色々あって、お見舞いに来られるのは、今日が最後なの」葵が葛西に背を向けたまま、言った。
天が頭上に降ってきたような衝撃を受けた。「そ、そんな」と口にしてはいけない言葉を漏らしてしまった。
葵が振り向いた。「ごめんなさい。そういう事だから」その時、葛西は、葵の目に光るものが浮かんでいるのを、初めて見た。
そのままドアに向かおうとする葵を、引き留めてはいけないと知りながら、引き留めずにいられなかった。「待ってよ、もう少しだけ、5分でいいから、いてくれよ」
「私のワガママで、ごめんなさい。でも、今、出ていかないと、もう、出て行けなくなる気がする。私は、葛西さんの最後の時間を、ご家族から奪いたくない」
葵の言葉が、葛西の胸に突き刺さった。「所詮は、他人だから」などと思った自分を、恥じた。
今、自分にできる唯一のことは、葵に礼を述べることだ。そのうえで、葵の心の痛みを少しでも和らげることが出来るなら、そうしたい。
「わかった。葵さん、ありがとう。君のおかげで、私は、幸せだった。君が勧めてくれたとおり、家族と連絡を取って、私も、家族も、救われた。私と家族のことを心から思ってくれて、本当に、ありがとう」
葵が身体を震わせているのがわかった。
「君がシンガポールに行っても、私たちは、同じ空の下にいる。命がある限り、ずっと、ずっと、君に想いを飛ばし続ける」
「葛西さん、さようなら」葵が病室から駆け出して行った。それが、葛西が見た山科葵の最後の姿となった。
葛西の容態は、その翌日、急激に悪化した。ここで死んだら、葵に、彼女が去ったために葛西の死期が早まったと思わせてしまう。踏みこたえなければ。初めは、そう思った。
しかし、葛西が粘れば粘るほど、妻は病室にはりつきになり、息子と娘も、いつ病院に呼び出されるかわからない、不安な時間を過ごすことになる。
葛西の家族のことも思いやってくれた葵は、決して、そういうことを、望まないだろう。
逝くべき定めの者は、逝くべき時に逝く。それが、残される者に対する愛だ。葛西は、そう、思い定めた。病に身を任せることにした。木曜日の夜、葛西は危篤に陥った。
火曜日からつきっきりだった妻は、目を真っ赤に泣きはらして、葛西の左手を握っていた。
消えそうになっていた意識が、「オヤジ、オヤジ」という声で、ふと、よみがえった。長身の息子が、ベッドの右手に立っていた。「最後が、自殺じゃなく、ガンで、良かったな」息子は、そう言うと、しゃくりあげ始めた。
その時、右手が温もりで包まれた。ベッドサイドにひざまづいて、娘が手を握ってくれていた。娘は目を潤ませていたが、声に出して泣くことは、なかった。かすかに笑みをたたえて、葛西の手を握り締めてくれた。
最後の瞬間、葛西の中に幸福感があふれた。
そして、死が訪れた。
死、生、愛、そして、生と死 亀野あゆみ @ksnksn7923
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