第4話 余命3ヶ月
葛西は、10年ぶりに、かつての勤め先に電話し、山科葵を呼び出した。電話に出た葵は、「草刈鎌の御礼なら、住職からもらった。あんなことまでしなくてよかったのに」と、ぶっきら棒に言った。
葛西は、葵から借りた鎌をきれいに洗い、住職からもらった便せんに3,000円を包んで、寺に置いてきたのだ。
「いや、そのことじゃなくて、ちょっと、話したいことがあって。30分くらいで済むので、ちょっと会ってもらえるかな?」
「貸すようなお金は、持ち合わせてないわよ」
「金の無心じゃないから、安心して」
「じゃあ、30分くらいなら、いいけど。いつにする?」
「実は、会社のすぐ近くに来てるんだ」
「なに、それ、ストーカーじゃない」と険しい声を出したものの、葵は、「じゃあ、今から会いましょう」と言って、会社の近くの喫茶店を指定してきた。
カランカランと鈴を鳴らしてドアをくぐってきたビジネススーツ姿の葵は、昔より貫禄づいて見えた。太ったというのではない。重さと厚みが出たというか?
墓地であった時は、ラフなスタイルだったせいか、そのような変化は感じなかったのが・・・そう言えば、電話を取り次いだ女性は、「山科部長ですね」と念押ししていた。出世したのだ。
葛西が二人分の飲み物を注文し終えると、葵が、「どのようなご用件でしょうか?」と、いたって事務的に切り出した。
「病院の帰りなんだ」
「定期健診かなにか?」葵が、これもまた、事務的に聞き返す。
「病気なんだ。大腸ガン。それが・・・」何気なく、すらっと言ってのけるつもりだったのに、そこで、詰まってしまった。
葵が、形の良い眉を軽く上げて見せる。
「それが、末期なんだ。身体中に転移が進んでいて、医者によると、あと3ヶ月の命だそうだ」
「そうなの。それは、参ったでしょ」と他人事のような返事が返ってきた。それは、まぁ、確かに、彼女にとっては、「他人事」だが。
それでも、葛西は、勇気を出して、「これを話すのは、君が最初なんだ」と付け加えた。
「それ、変だわ。あなた、奥さん、いたわよね。それとも、離婚したの?」
「いや、このところ、別居状態だが、別れたわけじゃない」
「だったら、まず、奥さんに話さなくっちゃ。あなたが死んで、保険金を受け取るのも、葬式を出すのも、奥さんなのよ。真っ先に、奥さんに話さなくっちゃ」
葵は、昔と変わっていなかった。葛西が韻文的な対応を期待しているときに、きわめて散文的な答えを返してくる。それでも、今日の葛西は、ひるまなかった。というより、なかば、ヤケクソでも、あった。
「君に、真っ先に話したかったんだ」声が裏返る。
葵が身体を少し震わせて、イスに深くかけ直した。
「私に惚れてたから・・・なんて、つまらない事を、言わないでよ」
「自惚れるな」と強がってみたいところだが、今の葛西に、そんな気力は残っていない。「本当に、君に惚れてたんだって、言ったら?」
葵が、奥二重の目をきりりと引き締め、葛西を正面から見据えた。
「聞いたことを忘れて、この店を出ていく」
葵なら、本当にやりかねない。ここは秘めた恋を打ち明けるより、目の前の不安を聴いてもらうことが優先だ。
葛西は淋しく割り切り、言い訳を構え直す。
「妻とは、この7年間に、4回しか会っていない。唐突に、自分の余命の話なんか、できない」
「私とは、この10年間に、1度しか、会っていない」
「説明を間違えた。回数の問題じゃ、ない。インターバルが重要なんだ。君とは、つい、2ヶ月前に会った。妻と最後に会ったのは・・・」そこで、言葉に詰まる。えーと、リクガメの定期健康診断は、おととしだったか、去年だったか?
「思い出せないくらい、昔なのね。だから、最近言葉を交わしたことのある知人に打ち明けたくなった。まぁ、あり得ないことでも、ないか・・・」葵が助け舟を出すように、先回りしてくれた。
葵の視線が和らいで、目の端に好奇心の翳らしきものが浮かんでいた。葛西には、葵に後光がさして見えた。
「そう。プライベートな話をした最後の相手は、君なんだ」
「それで、こうして、私を喫茶店に呼び出し、余命3ヶ月と宣告されたことを、伝えている」
「その通り」
「で、私に、何をして欲しいのかしら?」
「えっ」と、答えに詰まった。葛西は、自分があと3ヶ月しか生きられないと宣告され、無性に、人恋しくなったのだ。そして、最も恋しかったのが、山科葵だった。だが、具体的に何をして欲しいという希望があったわけでは、ない。
「別に、何も・・・ただ、聴いて欲しかった」
葵がイスの上で姿勢を正し、左右対称の顔をわずかに傾けた。「わかった、じゃあ、聴く。話して」
あゝ、こういうところも、変わっていない。真面目すぎるというのか、人情の機微に疎いというのか、話していて、こちらが、拍子抜けしてしまう。
しかし、今の葛西には、拍子抜けしている余裕はなかった。醒めたコーヒーを一口で飲み干し、胸に溜まっていたことを吐き出し始めると、止まらなくなった。
3回の自殺未遂を経験した果てに、自分の意識が何を命じようと、自分の肉体は、絶対に「生きたい」と願っていることを知った。これからは、命を大切に、生きられるだけ生きようと誓った。
それなのに、肉体の死が目の前に迫っていると知らされ、どう受け止めてよいか、わからない。何より、恐い。そう、死ぬのが恐い。俺は、ひたすら、恐いのだ。
気がつくと、空になったコーヒーカップに、ポロポロ、涙がこぼれ落ちていた。「イイ大人が、他人の目がある喫茶店で、何をしている」と自分を叱咤しても、涙は止まらなかった。
「死後の世界って、あるのかな?」徹底した合理主義者の葵に尋ねても、答えが分かり切っていることを、つい、尋ねずにいられなくなった。
「あるんじゃない」葵から、意外な答えが返ってきた。
「それ、俺を慰めようとして、言ってる?」
「本気で思ってることを、言ってるだけよ」
「だったら、あちらの世界で、また、会えるかな?」
「誰と?」
「君と。山科葵と」
「あゝ、それは、ないわね」葵がにべもなく言った。
「こうして向き合って話している私たちは、現世と呼ばれる、この世界にいる間だけの姿なの。あっちへ行ってから、私の名前を呼んでも、誰も答える人間なんか、いないわ」
「どういうこと?」
「現世を卒業した人間は、宇宙を生成する巨大なエネルギーに合流する。そこでは、現世での個人の区別は消えちゃうの。みんな、いっしょくた。ひと塊よ」
「そんな・・・」カップに涙が流れ落ちる。
急に、葛西の右手が温もりに包まれた。涙でかすんだ目で手を見ると、葵の両手が葛西の手に重ねられていた。
「あなたが葛西真一で、私が山科葵で、こうして、温もりを伝え合い、言葉を交わし合えるのは、私たちが、現世にいる間だけなの。宇宙の無限の時間に比べたら、ほんの刹那の出来事だわ」
葵が手に力を込めた。「だからこそ、あなたが葛西真一として、私が山科葵として生きているこの時間は、とても、とても、大切だと、私は、思う」
葛西が葵の手から顔に目を移すと、葵は、きりりとした目の形はそのままに、瞳に柔和な光をあふれさせていた。
「葛西さん、痛みや何やかやで、これ以上耐えられないって思ったら、あっちへ行っていいけど、それまでは、生きて。そして、私と会ってちょうだい。これ、お願いよ。私から葛西さんへの、生涯、たった一つのお願い」
葛西は、今、自分に起こっていることが、奇跡の一種であるとしか思えなかった。自分の人生の中で、特別な一瞬。闇夜にロウソクを点すような一瞬。
葛西が言葉を発しようとした、その時、葵が、葛西から両手を離して、すっと、立ち上がった。
「仕事に戻らなくちゃ。入院する病院が決まったら、教えてちょうだい」そう言って、葵はさっと伝票をつかみ取り、レジに向かって歩き始め、足を止めた。葛西を振り返る。
「あなたのスマホのメルアドも、教えてちょうだい」
葵がハンドバッグから取り出したメモ帳に、彼女から渡されたボールペンでメルアドを書く間も、葛西は、まだ、夢でも見ている気分だった。ふと我に返った時には、店内に、葵の姿はなかった。
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