【仮題】6日目その3、或いは多分に想像が含まれます。

 俺の言葉を受けてミフユさんは優しい微笑を返す。


 別に全てがどうでも良くなったわけではない。この先こうしてミフユさんとのやり取りを続けていればいずれ機会だって訪れるだろう。


 無いなら無いでも構わない。全てを知ってしまうことが必ずしも俺にとって良い事とは限らないのだから。


「そういえば、録音は……しないんですか?」


「ああ、そういえば気付いてらしたんですよね? でも良いんですか? 気になってやりづらくありません?」


「でも『気になる』と言ってもやめないんでしょう?」


「ふふ……、ええ、そうですね」


 ミフユさんは花柄のケースに包まれたスマホを取り出すと、いつもそうしていたように画面を操作し、


「はい、大丈夫です」


 そう言って改めて視線を合わせた。


 それからは以前にあの喫茶店でしていたように小説の書き方についてミフユさんと話し合った。相変わらずミフユさんの執筆論は難解で、賛同できるところもあれば時に意見が食い違ったりもした。一方的な講義というよりは次第に討論となり、俺たちは〝どちらの番〟とか関係なく執筆に対する想いをぶつけ合った。


 とても不思議な気分だった。結局肝心なことも解決できていないし、こんなことをしていて良い状況でないことはわかっていたが、俺は心の底から彼女との討論を楽しんでいた。


 疲弊し切った頭に目まぐるしく様々な感情がぶち込まれ、まともな思考力なんて残されていなさそうだったが、とにかく、この時ばかりは色々なことを忘れ彼女との会話を楽しんだ。


 それから二時間程話しただろうか、熱中するあまり時間を忘れてしまっていた。いずれにしても俺の家に到着した時にはとっくに終電はなくなっていたのだし、同じことだ。あとはこの後どうするかだが、やはりタクシーだろうか。


「ヒイラギさん、コーヒーでも淹れましょうか?」


 俺が財布の中に彼女に渡すタクシー代が残されているか気にし始めていると、ミフユさんは台所に視線を向けながらそう口にした。棚にはインスタントのコーヒーが常備されている。まあ、最近は気温も上がってきたのであまり温かいコーヒーは飲まないが、眠気を覚ますには丁度良いかもしれない。


「でもミフユさん、コーヒー飲めましたっけ?」


「飲めます」


 子供扱いがやや気に障ったのか、ミフユさんは妙にはっきりとした声色でそう断言した。別に俺にそのつもりはなく、いつも喫茶店で甘い飲みものばかり頼んでいたので一応聞いただけなのだが。


「その、ミルクとお砂糖があれば……」


 ミフユさんは気恥ずかしそうに声を落としてそう続けた。こういうところは高校生ぽかった。


 ケトルとコーヒーカップの場所と、ついでにミルクとスティックシュガーの常備があることを告げるとミフユさんは台所へ向かった。


 台所でコーヒーを淹れる彼女の後ろ姿。何だか同棲しているみたいで変な感覚だ。


「ヒイラギさん、それは?」


 コーヒーを淹れながら冷蔵庫に無造作に立て掛けられた奇妙な物体に気付いたミフユさんが怪訝そうに問う。まあ、そんな表情になるのも無理もない。


「魔法の杖です」


 あの謎の魔法少女のことは今日の出来事なのでまだ日記には記載していない。俺は簡単に池袋で体験した奇妙な遭遇のあらましを話した。


「ですから気を付けて下さい。火が出るかもしれませんから」


「火が……ですか、それは実に危ないですね。小さな子でしたらきちんと注意した方が良いのでは」


「ですから取り上げたんです」


 正確にはあの少女の方から差し出してきたのだが、そういうことにしておいた。


「さあできました」


 ミフユさんが湯気の立ち上る二人分のコーヒーカップを持ってテーブルに戻って来る。そして「ヒイラギさんはこっちです」とブラックの方を差し出し、再び座布団に腰掛けた。俺はこそばゆさを誤魔化すように受け取ってからすぐに彼女の淹れたコーヒーを啜る。そのお陰で口の中を少しやけどしてしまった。


 ミフユさんは両手で包み込むようにしてふーふーと数回息を吹きかけ、俺の私物のカップに軽く口を付けた。カップから唇が離れる際、「ふぅ」と吐息が漏れる。


「………………あつっ!」


 楚々としながらもどこか蠱惑的なミフユさんの所作に、思わず緊張が指先に伝わってしまい、俺は許容量を超えた熱いコーヒーを口内に流し入れてしまう。盛大に咽返り、揺れたカップから飛び出たコーヒーが服にかかった。


「ヒイラギさん!? 大丈夫ですか!?」


「え、ええ、大丈夫。大丈夫です」


 俺は平静を装いながらティッシュペーパーで服のシミを拭き取ろうとする。


「ヒイラギさん。ついでにシャワーでも浴びたらどうです? ほら、お会いした時随分と汗もかいていらっしゃいましたし」


「え? でも……」


「わたしのことは気になさらないでください。ちょうど休憩を挟みたかったんです」


 いや、俺の方が気にしてしまうのだが……。それに「休憩」って、まだ続けるつもりなのか。彼女が良ければ俺は別に良いのだが。しかし、ただでさえミフユさんを家に招くということ自体予想もしていなかったというのに、彼女を部屋に残したままシャワーを浴びる? 俺からするとそっちの方が問題だ。


 いや、別に〝何がある〟というわけではないが。


 しかし着替えたいのは事実だし、彼女に汗のことを指摘された途端、急に自分が汗臭くないか気になり始めてしまった。


「で、では……そうですね。お言葉に甘えます……」


 俺はそう伝えて脱衣所に向かった。


 脱いだ服を洗濯機に突っ込みスイッチを押し風呂場に入ると、あれだけ躊躇したにも関わらず妙に安堵する自分がいた。やはりずっと緊張していたのか、閉鎖されたこの空間が落ち着く。


 10分くらいだろうか、シャワーを浴び終え脱衣所に置かれているバスタオルで身体を拭いていると、俺は重大かつ深刻なミスに気が付く。


 そうだ、替えの服がない。


 いや、当然ここは自宅なので厳密にはあるのだが、ミフユさんという女性を部屋に入れたままシャワーを浴びるというあまりにも非現実的な状況に直面したが為に、すっかり脱衣所に持って入るのを忘れてしまった。さっきまで着ていた服は洗濯機の中で回っている。他の服はベッド下の引き出しかクローゼットの中だ。


 俺はそこからさらに10分程立ちすくむと、いつまでもこうしていても仕方ないと恐る恐る脱衣所のドアを開ける。


 バスタオルを腰に巻いたままほぼ全裸の状態で「ミフユさん……すみません……」と小声で断りを入れながらリビングに踏み入れようとする。


「って……ミフユさん?」


 そしてすぐに異変に気付く。


 先程までコーヒーを飲んでいた筈のミフユさんの姿が見えない。テーブルには二人分のカップが置かれたままだ。


「ミフユさん! あう!?」


 脱衣所を飛び出そうとするが、俺は焦るあまり、犬すら引っ掛からないようなドア縁の微妙な段差につまずいてしまう。


 無様に床に這いつくばりながら何とか態勢を保とうとしていると、視線のやや先、ベッド手前の床に何やら黒い布が置かれているのが目に入った。


 ハンカチ? いや、こんなもの見覚えが……。


 俺はしゃがんだまま徐に丁寧に畳まれた布切れのような〝何か〟を手にしてみると、それは重力に従ってはらりとほどけ、二股に分かれながら下方向へ長く垂れ下がった。手触りはすべすべで、極端に薄い素材のそれは微かに向こうの光を透かしている。


 間違いなく、それはミフユさんが先程まで着用していた(筈の)レギンスだった。


 ここまでの一切を消化しきれていないうちに俺の耳に微かに届く静かな呼吸音。俺はしゃがんだまま目の前のベッドを見上げた。


 いや、まさか…………。


 立ち上がってみると、俺のベッドに横になったミフユさんが小さな寝息を立てていた。


「っ!? な……」


 目の前の光景に絶句する俺。


 吐息のリズムに合わせて白いブラウスに包まれた決して慎ましくない双丘がゆっくりと一定のリズムで上下に動いている。記憶から呼び起こされる倉敷さんとの会話。「着やせするタイプだからあまりそうは見えないかもしれないけど、お胸のサイズはそこそこ立派よ」。  

 

 倉敷さん…………、確かに。


 いやいや、そんなことを思い返している場合じゃない。


 彼女の黒いロングスカートは膝の辺りまで捲り上がってしまっており、レギンスから解き放たれた素足が曝け出されている。動揺が足元に伝わり床を軋ませると、その音でミフユさんは軽く身じろぐ。顔を動かした拍子に長い髪が顔の上を這い、唇に掛かった。


 もし俺に絵の才能があるなら、是非とも絵画の一枚として残したい光景だった。


 女性向けのレギンスを手にベッドに横たわる無防備な女性を見下ろす半裸の俺。


 これはもう傍から見れば一発レッドカードだ。


 いやいや、だから何を余計なこと考えている。そんなことよりも。


 俺はそっと膝を折り、爆発物処理班さながらの手捌きでベッドの引き出しを開けると、何とか下着と替えの服を取り出し着る。これで最悪の事態は免れた。あとは彼女を起こすだけだ。


「あの、み…………」


 肩でも揺すって起こそうと伸ばしかけた手を止める。


 距離があると気付かなかったが、ミフユさんの目元には薄っすらとだが隈が確認できた。


 もしかして俺だけでなく、彼女も眠れていないのだろうか。俺があんな別れ方をした所為で、毎日気が気じゃなく……。それに加え自らが書いた小説の所為で犯罪が起こっているかもしれないという不安。そういえば今日会った時は自分のことで精一杯であまり気に留めなかったが、彼女は彼女で必死だったのかもしれない。


 恐らくひとりにされたことで急に疲れが出て、少しだけと横になってしまったが為に眠りに落ちたのだろう。


 俺は一度は伸ばした手を引くと、タオルケットを彼女に掛けた。何だか普段自分が使っているタオルケットを彼女に掛けるという行いは、彼女が牛丼を頬張る様子を眺めていた時にも増して背徳的な気持ちにさせた。


 でも、既に俺のベッドと枕を使用しているんだ、今更だろう。そう割り切った。


 することがなくなった俺はミフユさんの寝ているベッドに背を付けて床に腰掛ける。


 解けた緊張感、程よく温められた身体、静かな室内、規則正しい間隔で耳に届くミフユさんの呼吸音……。


 不眠不休で身体を酷使した附けがここにきていっきにのしかかってくる。


 俺は座った姿勢のまま何度か船を漕いだ挙句、最早限界と、床に置かれた座布団に頭を預け、横になった。


 座布団からやんわりと漂う甘い香り。


 そういえばこれも先程までミフユさんが座って…………。


 はっきりとした記憶はそこまでで、次第に俺の意識は微睡みに溶けていった。





 不覚にも、寝落ちしてしまった俺は下腹部の圧迫感で目が覚ます。


「…………?」


 寝惚け眼に点けっぱなしだった部屋の電気が差し込み、視界が定まらない。身体を押さえ付けるような謎の感覚の正体はわからないまま、順々に寝落ちする直前の記憶が蘇ってくる。そしてようやく「しまった!」と自覚できた頃には目の焦点が合い、俺の腰のあたりに跨るようにしている人影が確認できた。


「み!? ミフユさん!?」


 人影の正体はベッドで寝ていた筈のミフユさんだった。これはどういう状況だ。


「ヒイラギさん……」


 ミフユさんは俺に跨ったまま身体を倒し、顔を近付ける。明かりが遮られ、陰った所為で表情がよくわからない。彼女の長い髪が俺の胸のあたりに掛かる。布越しに感じる柔らかな肌の感触。あの甘い香り。俺の頭は混乱の一途を辿る。


「あなたがいたからわたしは……」


 ミフユさんの手が俺の顔に向かって伸びる。


「ヒイラギさん、あなたのお陰で……」


「ミフユさん……何を……」


「ヒイラギさん……あなたがいたから……」


 ゆっくりと伸びる彼女の白い手は、包み込むようにして俺の首に掛かった。


「あなたさえいなければ……」

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