【仮題】特になし

 ミフユさんに別れを告げてからというもの、俺の腑抜けっぷりには拍車が掛かり、それからはほとんど何もする気が起きずにいた。


 風呂と食事の他はひたすらベッドとデスクの往復。


 ただ、小説を書かない代わりに読む時間は増えた。


 何かに縋るように片っ端からカクヨムの投稿作品を読み漁って、結果的にいくつかの面白い作品にも出会うことができた。特に面白かったものには星を付与したりなんかもした。素人の良作に出会ったからといって以前程嫉妬心が芽生えることはなかった。


 それから人気作家〝ミフユ〟の作品も読み返してみた。出版社の倉敷さんが酷評していたあのデビュー作から最新作までところどころ掻い摘んで。あんなことがあった後でも彼女の作品はやっぱり面白くて、そしてやっぱり、あの夕日と野良犬のシーンで涙が毀れた。数ある名作の中でもやはり彼女の作品は精彩を放っていた。


 何の生産性もない毎日。趣味の小説執筆すら満足にできない、本当に無価値な毎日。


 何かを変えたくて、執筆中のファンタジー作品をデスクの隅に追いやったまま新たな小説を書こうとしてみた瞬間もあった。ジャンルはミフユさんが書くような現代ドラマ。でも、冒頭の風景描写を書き終えたところで筆は止まった。


 気力が続かなかった。


 それでも不思議と日記だけは書き続けていた。もう書いても意味はないのに。


 もう以前のようにミフユさん、いや、ミフユさんと名乗る彼女について無為に考えるようなことはしなくなっていた。まだ彼女に対してわからないことはたくさんあるのだが、俺の中の本能がいい加減もうこれ以上踏み込んではいけないと諭しているようだった。


 でも仮に、もし仮にだ。あの彼女との最後の会話をやり直せるならば、結果は変わらないにしても、もう少し柔らかい伝え方でも良かったのではないだろうか。ふとそう思ってしまうようになっていた。


 沈静化した頭に芽生える微かな罪悪感。


 確かに彼女は俺を騙していた。嘘は吐いていないにせよ、結果的に誤認させるような形で。そして恐らく彼女自身そうなる結果をある程度は期待していたに違いない。でも、思ってしまう。だって彼女は〝悪人〟ではない、それははっきりとしているのだから。


 彼女は他者に〝悪意〟を向けたことがない。〝悪意〟について、まだ理解が乏しい。だからこそファンタジーの執筆における悪役の描写に悩んでいた。


 ならば、俺が彼女から受け取った数々の事柄は、およそ俺の理解が及ばないだけで、彼女にとっては真剣な苦悩の中でのことだったのかもしれない。


 ならば必要以上に冷たい態度を取ることもなかったのではなかろうか。


 俺は深く溜息を吐く。


 いや、何を余計な事考えている。


 仮にやり取りの中に悪意が介在していなかったとしても、少なくともこれは過失だ。そして現代において過失は十分に罪である。


 俺は邪念を振り払うように乱暴な手つきでカクヨムのスマホアプリを起動し、良作の新規開拓へと思考をシフトさせる。


 時間帯は既に夜。


 余計なことを考えない為の良い手段は何かに没頭してしまうことだ。小説趣味のニートである俺にある選択肢は小説の執筆か読書。前者が上手くいかないとなれば自然とやるべきことは決まってくる。


 しかし、丁度スマホ画面を視界に入れたと同時に、触れてもいないのに画面に何かが表示される。カクヨムの新着情報。まるで狙い澄ましたかのようなタイミングだ。


 『ミフユさんが新作を公開しました。仮題:ファンタジーⅡ』


 投稿主は〝ミフユ〟そしてそのタイトルは以前喫茶店で読んだあの至高のファンタジーもとい俺が消し去ってしまった幻作の名に、2を表すローマ数字がプラスされただけの簡素なもの。


 俺はほんの少しのあいだスマホを握る手の親指を浮かせたまま固まっていたが、やがてそのまま画面に触れカクヨムのアプリ画面を起動させる。


 こんなの、俺の精神状態がどうであれ読まないわけにはいかない。仮にこの日が地球滅亡の当日であったとしても、いや、仮にそんな日だったならむしろ進んで読んでしまうかもしれない。


 彼女の小説には安い気落ちなんかでは抗えない魔力があるのだから。


 それに、もう俺とミフユさんは無関係だ。いや、最初から関係なんてなかった。ならば何も気にせず、それこそ日本中にいるであろうたくさんのファンと同じ立場で読んで良い筈だ。


 〝仮題:ファンタジーⅡ〟を読み進める。驚くことに、もう既に5話目までの投稿が済まされていた。


 物語の舞台はこの現代日本、しかも主人公である魔術師の少女が東京都池袋の街中に突然異世界召喚されるところから始まった。コンクリート舗装された道路、そびえ立つビルの群れ、煌びやかな宣伝用の液晶看板、見慣れぬ未知の情景に当惑する異世界の少女の心情が克明に描写されている。


 確かに先日彼女は言い掛けていた。テーマを現実世界に変更すると。


 初代のファンタジーと同様に、先が気になる展開でどんどん読み進めてしまう。そして彼女の執筆活動における悩みを知る俺には、恐らく知る者ならではの〝気になる点〟がある。数あるファンの一人として読んで良いと前置きしたのだが、やはりこればかりは気になってしまう。


 『悪の存在』。


 正義の魔術師である主人公が登場する物語の進行には当然、相対する悪の存在が必要不可欠となる。〝悪〟への理解に対してあれだけ思い余っていた彼女が俺の助言なしにどんな結論を出したのか。


 読み進めて早くも3話目、予想よりも早く作中の『悪の存在』が明らかになる。


 やや心構えが済む前だったので危うく意識に入らないまま読み進めるところだった。でも思わずそうしてしまうくらいには自然な流れだった。


 ファンタジーの物語として〝敵〟が登場するタイミングとしては平均的とも言えるが、これはあのミフユさんが描く物語だ。そう単純にはいかないだろういという完全に穿った見方をしていたのだが。


 しかし、書かれる内容、その〝悪〟の像は思っていた以上に普通だった。別に奇抜な設定を期待していたわけではないが、正直肩透かし感が否めない。


 異世界であれ現実世界であれ、共通する〝悪〟の姿。それは突き詰めれば単純に〝他者を殺める〟存在に他ならない。


 その過程や動機がどうあれ、その果ての目的がどうあれ、悪とは結果的に他者を殺める存在だ。それはこのカクヨムというサイト内に数えきれない程あるファンタジー作品において大半が当てはまるだろう。


 今回ミフユさんの書く現実世界が舞台のファンタジー、その中に登場する悪役はそんなありふれた、至極模範的な〝殺人者〟として描かれていた。


 事件は現実世界に迷い込んだ魔術師の少女がコンクリートジャングルに圧倒されながらも右往左往する最中、同時進行で起きていた。


 その悪役によって行われる最初の蛮行はあろうことか俺の住む茗荷谷駅付近で起こる。深夜に仕事から帰宅中の若い女性が人気の無い路地裏で襲われるのだ。


 薄闇の中怪しく光る刃物、飛び散る鮮血、事切れ力なく頽れる女性の身体、それを眺め凄惨な唇を剥く殺人者。経験したことでないと書けないと自信なさげに吐露していた彼女からすると、妙に真に迫る描写だった。


 作中の設定では、異世界の魔の者達が現実世界の人間の内面の悪を増幅させ、そのような事件を起こしているということで、それを解決するのが主人公である魔術師の役目というのが物語の大筋のようだ。


 こうしてあらすじだけを説明してもこの作品の凄さは伝わらないだろう。何が凄いって、それは勿論、彼女にしたら初挑戦である〝人の悪意〟の描写であるにも関わらず、しっかりと心に訴えて来るものがあるところだ。


 殺人者に関する描写はその犯行そのものだけでなく、その者の心情がモノローグという形を借りて克明に描かれていた。文庫本換算で見開き丸々一ページ分はありそうなモノローグ。狂人の独白。


 それを読んだ時、身体の底からまるで炭酸ガスでも湧き上がるような痺れる感覚が俺の身を包んだ。決して心地良くはない、でも、反対に靄が晴れ何かが明瞭になるような不思議な感覚。


 少し。ほんの少し。本当に少しだが、俺は理解してしまっていた。


 殺人者の気持ちを。


 人を殺したくなった、とまではいかないが、他人を殺める人間の気持ちをほんの少しわかってしまった気がした。とても危険な感覚だ。


 これを彼女が何の経験も無しに書き上げたとするならば、やはり彼女は天才だ。


 俺はそんな危険な感覚を含んだまま、気が付けば眠りに付いていた。





 翌朝、俺は不可解な寝苦しさで目が覚めた。両手と首元がじっとりと汗ばんでいるのがわかった。


 理由は気温の所為ではない。一人暮らしをしてからというもの、家のことに関して口うるさい小言を言われないのを良いことに、俺はかなり欲望に忠実に生活している。室温だって暑いと感じれば躊躇うことなく最大風量で空調を効かせる。


 原因は昨晩読んだミフユさんの小説だ。あんな感覚のまま寝落ちしてしまったが為に、俺自身が作中の殺人者となって人を襲う夢を見てしまった。


 しかも妙にリアルな。まるで自身が殺人を楽しんでいるかのような様子や感覚までもリアルだった。頭の端では正気の感覚を持ち合わせているとわかっていながらも、夢の中特有の薄く曖昧な思考の中で俺は疑問に思うこともなく事に及んでいた。


 脳が完全に覚醒した今、それが異常なことだと理解できる。そのことに一応は安堵すると、部屋の静けさが落ち着かなかったのでテレビを付ける。同時に顔でも洗おうと洗面台へと立った。


 水道水が勢いよく流れ出る音の背後で女性のニュースキャスターが朝の原稿を読み上げる声が聞こえる。


 俺は顔を洗い洗濯機の上に無造作に置かれたバスタオルで拭き上げると、今度はそのまま歯を磨く。磨いている間は暇なので反対の手で何となくカクヨムのページを流し見していた。


 昨日読んだミフユさんの新作の評価は既に星80を超えていた。さすがだと思いながらも、俺はその作品の第一話から再度読み進める。何度読み直してもミフユさんの小説は面白い、それは変わらなかった。


 一度は読んだ内容。鏡に映るスマホ画面を追って斜め下に視線を落とす俺の顔は、完全に油断しきった阿保面だった。


 しかし、悪夢の元凶、例の殺人者の描写のページを読み終えたところで異様なものが目に入り、そして指が止まる。おまけに歯ブラシを動かす手も。


「…………は?」


 思わず声に出してしまった。鏡を見る余裕なんてなかったが、その顔は先程にも増して阿保面だったに違いない。


 俺が目を留めたのは、その話に送られた応援コメントの数。彼女程の多数のファンを持つ実力者なら一話毎にかなりの数のコメントがあって当然だが……、


「でもこれって……」


 その数、326件。


 異常だ。いや、俺みたいな弱小無名ユーザーには想像が及ばないだけで、あり得る数なのかもしれないが、それにしても一晩でこの数は…………。


 俺は歯ブラシを握る手を止めたままコメントを順々に確認する。


 当然「面白い」や「先が気になる」等のコメントは多いが、特に目立つは「恐怖を感じた」という類のもの。あの内容なら頷けなくもないが、コメントを読んでいく限りではどうやら俺の想像とは異なる理由らしい。


 中々核心を突いたものに行き当たらず、未だ理由は判然としてこないが、「偶然ですか?」とか「予言」だとか、そんな類のコメントも多い。


『次のニュースです』


 ふと、歯磨きを止めたことで聞き取り易くなった俺の耳にテレビの音声が届く。


『昨夜3時頃、東京都文京区、丸ノ内線茗荷谷駅付近の路上で会社員の20代女性が何者かに刃物で襲われました。犯人と見られる男はまだ捕まっておらず、警察は依然捜査を続けています』

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