【仮題】未定
【仮題】5日目、或いは
翌日以降、俺はミフユさんについてこれ以上調べるようなことはしなかった。代わりにベッドの上で考える時間だけが延々と過ぎて行く。
自作の執筆が進まないのは言わずもがな。ただただ時間を浪費していった。
火水木金と消化し、そしてまた約束の土曜日がやって来た。
俺は時間を確認すると、着替えを済まし、髪を整え、家を出る。駅へ向かって進める歩に迷いはなかった。
結論から言うと、俺はもう一度ミフユさんと会うことにした。
俺は約束の15時よりも15分程早く例の喫茶店に辿り着く。店内に入り目的の席へ向かうと、既に高校の制服姿の女性が腰掛けているのがわかった。
6月に入り初夏仕様に切り替えたのか、いつもの紺のセーラー服ではなく純白のブラウスにアイボリーのカーディガン姿、しかしスカートから延びるその細い脚は相変わらず黒のレギンスに包まれている。明るい色合いの布地に掛かる長い黒髪は一段と映えて見えた。
大人しそうな印象ながらも一縷の迷いもなく見開かれるその双眸の持ち主は、何度もこの場所で俺が会っていたミフユさんだった。
「あ、ヒイラギさん!」
俺に気付くなり、彼女は軽く目元を細め、嬉しそうに声を上げた。
「どうも、先週はすみませんでした。連絡もせずに」
「いえいえ。でも、どうされたんですか? 少し心配しました」
「ええ、恐らく悪いものでも食べたようで、もう大丈夫です」
「まあ、それは。気を付けて下さいね。食中毒は侮れませんから」
俺はミフユさんと出会ってから初めて彼女に嘘を吐いた。世間的には仮病の嘘なんて可愛いものだが、この瞬間何となく超えてはいけない一線を越えてしまった気がした。
口調や表情は変に畏まってしまっていたが、ミフユさんは全く疑う余地すら見せず本当に心配してくれている様子だ。だが、この時ばかりは良心が痛むようなことはなかった。
代わりに俺の中に未練たらしく残留していた迷いが消えて無くなる。
「ところでですね、ヒイラギさん。わたし、あれからファンタジーの冒頭を書き直したんです。大幅に設定を変えてみました。舞台はやはり現実世界にしようと思うんです。あまり一度に詰め込み過ぎるのはわたしには荷が重過ぎました。ヒイラギさんの仰る通り、最初は失敗覚悟で練習です。それで概要ですが、この現実世界に魔術師である女の子が魔法の杖片手に迷い込む、そんなお話で――」
ミフユさんは無言の俺を前に嬉々として会話を進める。
「っと、いけないいけない。ヒイラギさん、今日はヒイラギさんの番からでしたね。その前に日記を……」
「…………」
いつまで経っても動こうとしない俺に、ミフユさんは課題の提出を促す。
「その前に、少し良いですか?」
そう前置きして俺は椅子を引き、身体をややテーブルに寄せる。
「はい、何でしょう」
俺の言葉を待つミフユさんは真っすぐに俺の瞳を見つめた。いつもと同じように。
俺はアイスコーヒーを口に含み、咀嚼するようにゆっくりと飲み込むと一息吐いてから続ける。
「ミフユさん、あなたは初めてここで出会った時、ファンタジー小説を書きたいと言いました」
「はい」
「では何故、教わる相手が僕なんですか?」
「それは……」
ミフユさんは言葉を探すように口籠るが、俺は待たずに続ける。
「身近にいたファンタジー小説の執筆をしている人間が僕だったからでしょうか?」
「い、いえ、それは絶対にありせん! わたしは最初からヒイラギさんに教わりたいと、ヒイラギさんの書くようなファンタジーが書きたくてお願いしたんです!」
ミフユさんは信じてくれと言わんばかりに語気を強めた。別に今更疑ってはいない。彼女が正直者だということも。これは単なる確認というか、前置きだ。
「わかりました。あなたは最初から僕に教わりたくてそんなお願いをしたんですね」
「ええ、その通りです」
「最初から…………」
俺は再度アイスコーヒーを挟む。嫌に喉が渇く。
「ではその上でお聞きしますが、あの日、この場所であなたが僕に気付けたのは偶然ですか?」
「…………」
ミフユさんからの反応が止む。これまでじっと俺から離さなかった視線が一瞬だけ右に逸れた。成程、確かに会話の最中相手を良く見ることは、その人の心情を知る上で大切だ。
俺は追い打ちをかけるように、自分の中だけで考えていた憶測の一つを話す。あの日俺がミフユさんに何故カクヨムのヒイラギだと気付いたのか尋ねた時、彼女が原稿を指差したこと。そしてそれが「現在」ではなく、「過去」に原稿を見たことを示唆してのことだっただろうこと。
「はい……すみません……。ヒイラギさんの仰る通り、あなたがヒイラギさんだということは予め知っていました。その上で声を掛けたんです。本当にすみません……」
ミフユさんは心底申し訳なさそうに頭を下げた。
「いえいえ、謝るようなことじゃあありません。あなたは嘘を吐いたわけじゃないんです。ただ、その、わかりづらかったというだけで」
そう、彼女は嘘を吐いていない。騙したか騙してないかという点においては、一応は小説書きである俺からすれば「相手に誤認させるような言動」をとったことは騙していると評して差し支えないのだが。所謂叙述トリックやミスリードは小説の中で読者を騙す手法なのだから。例えば登場人物が女だとは明言されないまま男っぽい口調で話していれば、読者は勝手に男だと思い込む。「嘘」を吐かずに騙したことになる。
それにこれは彼女自身最初に表明している。「嘘」はなしでも「隠し事」はありだと。大事な部分を隠して接してこられれば、そりゃあ誤認だってする。
「これはほんの確認で、僕が聞きたいのはもっと他にあります。まあでも、せっかくですからもう少し。では、あの日ミフユさんがこの喫茶店に入ったのは偶然ですか?」
「ヒイラギさんのお考えの通りです。実はヒイラギさんのご自宅の最寄である茗荷谷駅で見かけてからこの喫茶店まであとを追って来ました。いえ、すみません……。これも完璧な説明とは言えません。わたしはヒイラギさん、あなたに接触する為、何日も前から茗荷谷駅へ通っていたんです。あなたとお会いする為、そう、何日も、何日も前から……」
面白いようにミフユさんの口から真実が出てくる。当然だ、彼女は嘘を吐かない。ならばこうして尋ねてしまえばそれで全て説明してくれる。俺があれこれベッドの上で頭を悩ませる必要なんてない。
そうしてこなかったのは、彼女との関係性への影響やあの学校に近づくことに対して危ぶむ気持ちがあった所為で踏み出せなかっただけであり、今となってはどうでも良い事だった。
そのことを差し引いても彼女の書く作品は依然として一切の揺ぎ無く魅力的だ。
「すみません……」
俺が少し考え込んでいると、ミフユさんは弱々しく再度謝罪を口にした。
「ですから良いですって。あなたは嘘を吐いたわけではないんですし。もしかしたらと思ったこととはいえ、正直少し驚きましたが」
「ええ……すみません……」
「ちなみにミフユさんは僕の小説のどこが良いと思ったのですか?」
「どこが……ですか?」
「はい。一番初めに『僕が書くようなファンタジーが書きたい』と言われた時は戸惑いながらも正直内心嬉しい気持ちもあって結局僕の中で有耶無耶にしてしまいましたが、改めて考えれば考える程変です。あなたは『本当の意味での創作』や『誰か一人に突き刺さる作品』を目標に僕に教えを乞いましたが、有体に言えばそれは『人気のないファンタジー作品』でしょう。そんな作品あのカクヨムというサイトには掃いて捨てる程あります」
「それは……」
ミフユさんはまた言葉を詰まらせる。彼女がここまで歯切れを悪くさせる様子は新鮮だった。しかし別に俺は彼女相手に優位に立ちたいわけでも、困らせたいわけでもない。ただ、知りたいことがあるのだ。
「でもやっぱりヒイラギさんでないとダメです。ダメなんです」
ミフユさんはそう言って視線を投げ掛ける。本気だと主張するように。別にそんな表情しなくとも、俺は初めから微塵も疑ってはいないのだが。
「このことに関してはあえて『何故?』とは言いません。代わりに訊かなければならないことがありますから。その回答如何によっては意味のないことですしね」
「他に……ですか?」
「ええそうです」
俺はそう言ってから沈黙を挟む。正直ここから先のことは気が引けるが、ここまで来たら言うしかない。俺は意を決し、ミフユさんに真っすぐと視線を合わせる。
「ミフユさん、あなたは本当に僕の作品を読んでいますでしょうか?」
「…………。正直申しまして、今日のヒイラギさんは何を仰りたいのかがわかりません。どうしてしまわれたのですか?」
ミフユさんは明らかに狼狽した様子で、しかし、まるで気が触れた相手を必死になって窘めるかのように八の字を寄せた困り顔で俺を見つめた。
「答えて下さらないですか。ではこう聞かざるを得ません。ミフユさん……いえ……」
今度は深呼吸を挟み、喉の調子を整える。
「あなた、一体誰ですか?」
その言葉が耳に届いた瞬間、フッと彼女の表情が変わった。戸惑い、堅くなっていた表情筋がいっきに弛緩し、無表情になる。冷たさすら感じない、全くの無表情、無感情。
「ヒイラギさん」
彼女はその表情を崩さないまま、口を開いた。表情とは裏腹に、声のトーンに変化はなかった。いつも通りの聞き慣れた声量、抑揚で彼女は続ける。
「嘘は吐いていません。わたしは最初から一度もあなたの小説を読んだとは言っていません」
彼女は直前の質問をスルーし、最初の質問に遅れて答えた。まあ、実質後の質問にも答えてくれたことになるのかもしれないが。
「別に嘘を咎めたくてお聞きしたわけではありません」
「そうですか……。でも安心して下さい。読んでいますよ」
「どういうことです?」
「ですから読んでいます。カクヨムのミフユはちゃんと、あなたの小説を読んでいます」
そこまで言い切ると、彼女は無言で俺を見つめた。どうやら彼女からはそれだけらしい。
「わかりました」
俺はテーブル脇に置かれた伝票のバインダーを手に、立ち上がる。
「ひ、ヒイラギさん?」
「ありがとうございます。今日はこのことだけ確認したかったんです。それとこれ、一応書いてきましたんで」
俺は日記の原稿を取り出すと彼女に差し出した。彼女がおずおずとそれを受け取ったのを見届け、そのまま背を向ける。
「何故僕がそう思ったかは、それを読めば大体わかる筈です。では……」
「ヒイラギさん! その! 来週もわたし、待ってますから!」
ミフユさん、いや、名前も知らない彼女の声を無視して俺はレジで二人分の会計を済ませ、そのまま店を去った。
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