【仮題】間話その1の4

「今の話題でふと思い出したのですが、ヒイラギさんは『ドグラ・マグラ』という小説を読んだことはありますか?」


「ええ、一応は。夢野久作ですよね」


 ミフユさんが挙げたのは有名な作品名である。中井英夫の『虚無への供物』、小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』と合わせて日本三大奇書として知られる奇抜な内容の推理小説だ。


「とても読みづらい作品でしたので内容は朧げですが」


 ミフユさんは「わたしもです」とはにかんだ表情を見せてから続ける。


「作中では〝潜在意識の遺伝〟というテーマが取り扱われていますが、それによるとその人の生き方や経験に関係なく〝殺人を犯す衝動〟が遺伝という形で深層心理に眠っていて、とある絵を見たことが引き金となりその衝動が呼び起こされるそうですね」


「ああ確かにそんな内容だったような……」


 俺は古い記憶の断片と照合しながら話を聞く。


「潜在意識の遺伝は多分にオカルトめいたことですので、あくまでも小説の中のフィクションとして捉えて欲しいのですが、もし、わたしに絵心があって今書いている小説の内容を絵で表すことができたなら、わたしは表現方法として小説でなく絵を選んでいたのかもしれないな、と」


「何故です?」


「だって、そちらの方が早いじゃないですか?」


「スピードの問題ですか? まあ確かに小説を書くのは時間が掛かりますけど、絵を描くのだって結構な手間だと思いますよ?」


 同じく全く絵心がない俺はそう答える。活字専門の俺からすれば一枚の絵を仕上げるより一冊分の小説を書き上げる方が楽に思える。まあ執筆速度においては、最近はあまり芳しくないが。


「いえいえ、そうではありません。文字を読むよりも、ただ見るだけで済むならそちらの方が早いかと、そう思ったんです」


 執筆のスピードではなく、相手の心に影響を及ぼすまでのスピード。効率性の最適化。そういった類のことを言いたいようだ。


「そういうことですか。それなら……はい、僕もそう思います」


 確かにそういった観点でならば頷ける。他にも漫画のように文字と絵の合わせ技もアリかもしれない。


「小説によって殺人衝動を助長させることができるか否か……」


 ミフユさんは厳粛な面持ちで呟く。俺が話題にしてしまったことではあるが、その穏和で清廉な中に穢れを知らないあどけなさの残る彼女の口元から、そのような物騒な言葉が出る度、酷く不釣りあいな印象を受けてしまう。


「試したことがないのでわからないと申し上げましたが、現状は……、やはり無理ですね」


 それがミフユさんの結論だった。


「だってわたし自身、人を殺したいと思う程恨んだことはまだありませんから。試したことがない以前に、そこに付随する要素を知らないわたしは試すことすらできません」


 殺人の助長それ自体が倫理的にどうとか、そういったことには一切触れず、可能かどうかをあくまでもドライに、それこそ機械的に考えてくれていたようだ。


「だからヒイラギさんの書くようなファンタジーというジャンルは、わたしにとって未知のことばかりなんです。わたしは異世界に行ったことがありません。魔法も、この目で見たことがありません。見たこともないものを、見て感じたことがないものを、わたしは書こうとしているんです。アメリカに行ったことがないのにアメリカを題材にしたお話を書くようなものです」


「そう……なんでしょうか」


 それはそれで普通に書けそうな気もするが。でもまあ、実在する国を題材にするなら実際に取材をしに行くに越したことはない。


「誰も行ったことも見たこともないのですから、勝手に決めてしまって良いんですよ」


「勝手に……果たしてそんな勝手が許されるのでしょうか」


「少なくとも咎める人はいません」


「ヒイラギさん。わたしがやろうとしているのは本当の意味での創作、本当の意味での小説の執筆、まだまだ先は長そうです」


「…………。ミフユさん、ファンタジーの設定決めの方は順調ですか? 何でしたら今お聞きしても良いですよ?」


 先程予定外の講義をさせてしまったせめてものお返しとして俺はそう提案した。しかしミフユさんは、


「ええ、少しずつではありますが前進はしています。でも……土曜日まで取っておきます」


 そう言って微笑みを返した。


 ちょうどお互いの飲み物も空になり、どうやらこれで美女とのデートイベントは終了となりそうだ。


「ところでヒイラギさん」


 そう考えたところでミフユさんは口を開く。


「どうして今日はあまり目を合わせて頂けないんですか?」


 不意打ちとも言えるミフユさんの言葉に、俺は危うく咽そうになる。


「いえ、すみません」


 しまった。


 盗み見てしまったミフユさんの原稿のことはもうあまり意識しなくなっていたが、当初目を合わせづらくなってしまっていた所為か、話の最中俺はずっと彼女の瞳から視線を逸らし気味にいたらしい。それこそ無意識に。


「謝罪を要求したつもりはありません。わたしは純粋にどうしてと思っただけです」


 そう言って視線を合わせる。逸らしたいが、事ここに至ってはそうするわけに行かない。完全に進退窮まった。


 まずい、意識をすればする程、せっかく薄まっていてくれた緊張が顔を出し始める。気温とは裏腹に身体の中がひんやりとしているのはきっと飲んでいるアイスコーヒーだけの所為ではない。心胆を寒からしめる何か。それは……、


「それは……ミフユさんがいつもと違って大人っぽい恰好をしているから……その、少し照れてしまって……はは……」


 咄嗟に俺はそう言い訳をした。容姿のことを引き合いに出すことにより例によって狼狽えを見せてくれるのを期待したわけだが、ミフユさんは俺から微塵も視線を逸らさず、代わりに不敵な笑みを見せただけだった。


「ああ、それは……まあ、いつもは高校の制服姿ですからね、ふふっ、おかしなヒイラギさん」


 その笑みは、先程原稿を盗み見た直後に見たものと同じように見えた。


「言いましたよね、わたし。話をする時はできるだけ相手の目を見るようにと。でも、ふふっ、おかしいです……ふふふっ、本当におかしい……」


「…………」


 あの時とは違う。いくら待ってもこの空気をぶち破ってくれる電車は横切ってはくれない。


 でも俺は、心拍数を着実に上昇させながらも、己の内側に纏わりつく、表とは相反するカタチで存在する別の感覚に気付いていた。


 焦燥から歪にのたうった思考を手繰りその正体をまさぐる。乱れる精神の中にそれでも揺ぎなく屹然とそこにある、とある感覚。そしてやがて確信する。


 ああ、やはりそうか……。


 言い知れぬ悪寒を感じながらも、心のどこかで気持ちが高揚している感覚。頭では拒絶しようとしていながらも、身体が勝手に深淵を覗こうとしてしまっている、本能にも似た反応。


 ああやはり……。


 やはり、俺はこのミフユさんとの関係を


 吹っ切れたというか、今こうしてはっきりと自覚してからは心が軽くなった気がした。徐々に心拍が正常に戻り始める。


 以前からも度々頭をチラつきながらもあと一歩踏み込めずにいたことだが、一度認めてしまえば、途端に気持ちが楽になるから不思議だ。あれだけミフユさんに露見することを心配していたのが、今はおかしくすら感じていた。


 聞いたところによると、バンジージャンプは飛ぶ前が一番の恐怖だと言うし。俺に至ってはちゃんと紐が繋がっていてくれているかが問題ではあるが。


「ヒイラギさん、そろそろ行きましょうか」


 今の心情の勢いに任せて先程の原稿について訊いてしまおうかと考え始めたところで、ミフユさんからお開きの申し出があった。


 まあ良い。焦らなくとも次がある。もっとも、次で終わるのかもしれないが。


 俺たちは店を出るとそのままサンシャインビルを後にした。





「あ! いたいたっ! ごっめーん!」


 ビルを出てすぐ、見知らぬ一人の女性が俺たちの元に駆け寄ってきた。


 背が高く、髪はショートカット、涼しげな白のパンツルック姿、活発そうな見た目のその女性は、ミフユさんとはまた違ったタイプの美人だった。


「あれ? 来てたんですね」


 ミフユさん自身も予想外だったらしく、少し驚き気味に声を上擦らせていた。


「うん! だって代わりに別の人と行ったってメール来たから、もしかしたらまだいるかなーって。どーせ家も近いし」


「そうですか。わざわざ良かったのに」


 どうやら本来一緒に水族館に行く筈だった友人のようだ。


 ミフユさんもそうだが、この女性も言動とは裏腹に見掛けはやけに大人っぽい。ミフユさんが敬語で話しているところも併せ考えるに、学校の先輩だろうか。とは言っても、ミフユさんイコール敬語のイメージが定着してしまっているので、彼女が気さくに砕けた話し方をしている様子はなかなか想像できないが。


「んで、あなたが代わり? え? なになに? 珍しーじゃん! 男だなんて、もしかして彼氏?」


 急に女性の矛先がこちらに向いた。俺はどうして良いかわからず「えーと……」と情けなく口籠る。


「ちちちちち違います! ひ、ヒイラギさんは、そ、その何と言いますか……単なる……しゅしゅしゅ趣味仲間と言いますか……。きょ、今日だってたまたま偶然お会いしたというだけで……」


「そうやって焦るところが余計にあっやすぃー」


 確かに絵に描いたように見事な焦り様だ。頼まれた身だが、そんなミフユさんの様子を見ているこちらが申し訳なく思えてくる。


「もう! やめて下さい! ヒイラギさん、今日は本当にありがとうございました。わたしたちはこれで失礼します」


 ミフユさんは早口でそう言い切ると、それでも律儀に一礼してから友人らしき女性の背中を押すようにして喧騒に紛れて行った。


「…………」


 残された俺はその場で立ち尽くす。


 ビルから出て来る人々は進行の邪魔になっている俺を迷惑そうに避けていたが、気にならなかった。


 徐々に遠くなっていく彼女たちの背中を前に、俺は考えていた。


 行きがけの駄賃というやつだ。どうせ全て明るみに出てしまうことなら、行けるところまで行ってやる。


 そう意を決すると俺は行動を起こす。


 あろうことか、俺は彼女たちの後をしばらく尾行することにした。


 色々と取り返しが付かなくなって吹っ切れた今、たぶん俺の頭は良い感じにおかしくなっているのだろう。ここで行かなければ勿体ないという謎の心理さえ働いていた。


 これで次回、今度こそミフユさんから嫌われ、三行半を突きつけられることになろうとも、もう既に犯してしまった過ちがある以上、やるだけやっておいた方が得だ。


 まるで延々と一人でジェンガの棒を引き抜いているかのような心境だった。崩れてしまえばそれでお終い。案外それはそれでスッキリするものかもしれない。


 それに、俺はもう嵌ってしまっている。ミフユさんの書く小説の魅力の謎に対してもそうだが、ミフユさんという人間、その存在自体に。


 全てが暴けなくとも良い。彼女に対して思う数々の不可解な点、勿論その全てが余すところなく解明され、綺麗に繋がってくれればそれ程爽快なことはないのだが。


 これ以上、ミフユさんについて詮索できなくなるようになれば俺は自分の中で踏ん切りを付けられるだろう。彼女の講義を受けられなくなってしまうのだけは惜しいけれど、引き抜ける棒があるうちは……。


 なるべく気配を殺し、だが極力早足で後を追うと、会話しながらの二人の付近には難なく辿り着けた。


 せっかく落ち着きかけていた心拍数は上昇の一途を辿っている。これはミフユさんの不可解さと対峙した時の緊張感によるものと違う、高揚とある種の背徳感が入り混じった何とも言えぬ気持ちの高ぶりだった。


 まるで変態だ。もし周りの誰かに見咎められて通報でもされたらたちまち国家権力のお世話になりそうだ。


 だが、ここまで来てしまった以上、止められない。


 遅い時間だというのにさすがは池袋、人はまだまだ多い。ここまで近づいても二人の会話はまばらにしか聞き取れない。それでも神経を研ぎ澄まし、二人の会話に集中する。


 二人との距離はギリギリでこれ以上自然を装って近付けそうもないが、徐々に慣れ、やがて周りの喧騒から抽出された二人の会話内容が耳に入り始める。


「からかったことは謝るよーごめーんて、ね? ドタキャンのお詫びも兼ねてスイーツ奢るからさー」


「もう、先輩は調子が良いんですから。わたしにだけなら良いですけど、関係ない方を困らせないで下さい」


「だから悪かったってばー」


「知らないです」


 ミフユさんは先輩と呼んだ女性を置いて行く形で歩みを速めた。残された女性も追い付こうと速足になったので俺も慌てて歩速を合わせようとした、その時である。


「ねぇってばー」


 俺はそれを聞いて立ち止まった。


 その間にも二人は人混みの中を縫うように進んで行き、ついには見えなくなってしまった。


 思い付きでの行動で、こんなにも簡単にミフユさんに関する追加情報を得ることができるとは。


 しかもそれは思い出したくても思い出すことができなかった、ミフユさんの名前。


 カイトウ。確かにミフユさんの知り合いの女性はミフユさんのことをそう呼んだ。


「ダメだ。全然覚えてない」


 俺は喧騒の中で憚らず独り言つ。


 ミフユさんとの不可解な出会いから一番初めに気になった彼女の本名。だが、晴れてその名前らしき情報を得た俺は、けれども〝カイトウ〟という名の生徒に心当たりがなかった。


 何か手掛かりが得られるかもしれないと考えての蛮行だったが、頭のもやもやはかえって増幅される結果となった。


 自宅に戻ってからは、創作意欲はすっかり失せてしまっており、自作の執筆をする気が起きなかったので、本日の日記だけを書き上げた。


 ついでに前回分の日記中のミフユさんについての描写に、「美人」というワードを所々追記しておいた。

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