【仮題】間話その1の3
「ヒイラギさん、今日はお付き合い頂きありがとうございました」
ミフユさんは席に着くなりテーブルにちょこんと手を添え律儀に頭を下げた。
「え? ええ、まあ、僕なんかで良ければぜんぜん……」
そんな言葉を返しながら、俺の頭は先程見てしまったミフユさんの小説原稿のことで一杯だった。あの異様な原稿のインパクトが強すぎて、そう簡単に切り替えられるものではない。
頭を上げたミフユさんと視線が合い、俺は思わず視線を泳がせる。
いかんいかん。あまり目を合わせたらダメだ。きっと心を読まれてしまう。
根拠もない馬鹿げたことを案じながらも、俺の頭には既に同時並行で全く別の心配事が湧いていた。
今日一日の出来事、それを日記に書き記すのは当然のこととして、さて、俺は一体どこまで書けば良いのだろう。目端の利かない俺が日記という不慣れな形式の中で必死に詭弁を弄したところで、盛大に墓穴を掘るのは目に見えている。
先程の出来事は途中までは不慮の事故と言えるが、原稿用紙を封筒から取り出して見てしまったこと自体は紛れもなく俺の故意だ。全部が全部事故だったらどんなに良かったか。
本当に後先考えない行動だったと、我ながら呆れる。
でも、ミフユさんの書く小説に得も言えぬ魔力的な魅力があるのも事実だ。恐らくあの場面に遭遇したのが俺でなかったとしても、一度でも彼女の小説を読んだことのある人間なら大半が同じ罪を犯したに違いない。そう無意味に自身を正当化した。
ならばいっそのこと〝書かない〟というのはどうか。
幸いにも、ミフユさんの方から隠し事は構わないとの赦しを得ている。今こそその免罪符を行使すべきなのだろうか。
「ヒイラギさんは……」
俺が憚らず黙考していると、ミフユさんは徐に切り出す。
「ヒイラギさんは、何故、小説を書こうと思ったのですか?」
即答し難い問いにようやく思考が引き戻された。
「何故……ですか、うーん……」
そういった妄想をするのが楽しいから。自分の考えた世界感を他人に評価してもらいたいから。何かを生み出すという行為そのものに生きる意味を感じるから。反対に生産性のない毎日が耐えられないから…………。
反射的に頭に浮かぶ回答の数々、そのどれもが真実でありながら、そんなありきたりな言葉に置き換えられる程単純でもないような気がした。
改めて問われると実に悩ましい。無根拠な感覚ではあるが、俗耳に入りやすい説明に専念しようとすると、どうしてもどこか端の方で本心との齟齬が発生してしまう。そう思った。
だから俺はあえてごくシンプルに答えることにする。
「好きだから……、でしょうか」
そんな半ばはぐらかしたと捉えられかねない俺の回答にミフユさんは、
「そうですか」
と言って頷いた。
「ミフユさんはどうなんです?」
俺は掘り下げて聞かれてしまう前にとすかさず質問を返す。
「わたしは知りたかったのです」
ミフユさんは静かに答える。
「わたしが〝わたし自身〟として書いた小説を、自分とは全く違う人が読んだ時、どのような感情を抱くのかを」
そう言いながらテーブルのバッグを引き寄せ、僅かにはみ出ている原稿用紙入りの封筒の口をそっと撫でる。それを見て心臓が跳ねる。
「そして知りました。この世にはわたしと同様の感情パターンを持つ人間がああまで多く存在するということを。勿論、直接読者の方々にお会いして確認したわけではないので、その真意の程はわかりかねますが、それでもあのサイトに投稿される感想を読む限りでは少なからず感情が何らかの影響を受けている、それが確認できました。そして知りました」
ミフユさんは言葉を繰り返す。
「わたしはこの世の中に存在する大多数の人間と同じ、いたって普通の人間なのだと」
「ミフユさんは普通が、その…………、嫌ですか?」
俺からすると、十分に普通とは評価し難いミフユさんという女性だが、もし彼女が普通を嫌うなら、それはそれで人間として普通の反応だと思った。
だって、小説作品に対する「普通」という評価は、得てして決して良い意味ではされないものなのだから。でもまあ、ファンタジーの設定決めは普通過ぎるところが難点だったが。
「嫌ではありません……今は……」
「今は?」
「ええ、最初は嬉しいという感情よりも、どちらかと言うと正直ショックの方が強かったです。わたしと同じように心が動かされる人間がたくさんいる、それはわたしと同じ要素を持つ人間がわたし以外にたくさんいるということです。最初は自分がいかに単純な人間なのかと卑下したこともありましたが、今ではその……むしろ安心、しています」
そう言うと、ミフユさんは自嘲気味な笑みを浮かべた。
「自分が〝普通〟だということをでしょうか?」
「ええ、そうですね。それに以前までのわたしは自分勝手で厚かましい人間だったと思います。だって、少なからず自分は特別だと思って勝手に閉じこもり、疎外感を感じていたのですから。他人であっても、それぞれが深遠で複雑でいびつに入り組んだ感情の中で日々を生きている。わたしがそれに気付けないのは各々がそれを表に出さないから、あるいは、その人たち自身も気付いていないから…………。だから、それを知らなかったわたしは自分勝手で厚かましく、そしてとても失礼極まりない人間でした」
「ミフユさん、さっき言っていた〝要素を持つ〟とはどういうことでしょう」
ミフユさんの話に理解が追い付いていないながらも、俺は内心強く引っ掛かっていたワードについて問う。これまで〝要素〟という言葉は面白い小説を書く為に「知るモノ」として聞いていた。そしてそれはあくまでも原稿上にしか表し得ないモノの筈、「所有する」といったニュアンスの動詞にはくっつきそうもない。
ミフユさんは俺の質問の意を解しながらも説明に苦慮しているのか、少し時間を掛けて考え込んでから口を開く。
「確かにこれまで説明させて頂いた〝要素〟とは違った意味合いで口にしました。そうですね…………〝潜在的要素〟、ややこしいので便宜上そういうことにしましょうか。でも、そんな仰々しいものではなく、この世の中でごく当たり前のように認識されている事柄かと思います」
〝潜在的要素〟、ミフユさんから出た新たな言葉に俺は心中でやや前のめりになって先を待つ。思考が上書きされ、先程見てしまった異様な原稿のことは徐々に薄れ始めていた。約束の土曜日ではないのにこうしてミフユさんの講義を聞けるのは何だか得した気分だ。
「ヒイラギさんが読んで涙を流したというわたしの小説の一場面、それは確かに〝そういうふうに〟書いたものです。にも関わらず、必ずしも読んだ全員がそうなるわけではありません」
確かにそうだ。確認したわけでも、そういう読者に出会ったわけでもないが、それができるならミフユさんの書く小説は「感動的」な物語ではなく、本当に暗示や洗脳のような類の力を持つ超常的な作品になってしまう。現に俺自身、ミフユさんと面と向かって話をするまではそんな馬鹿げたことを疑ってしまっていた。
「わたしの小説は心を動かすという観点においては最適化され過ぎていますので、以前の『死に別れた夫婦の話』を引き合いに出しましょう。その方があくまでも〝一般的〟に事象を説明できますし」
「ああ、あの『一枚の写真で人は涙を流すか』でしたっけ?」
「ええ、ヒイラギさんは他人である女性の写真を見ても何も感じません。でも旦那さん以外にも同じく涙を流し得る人物が他にも存在すると思いませんか?」
「…………。例えば、二人の子供……とか?」
「はい。他にもその女性の両親や仲の良かった友人、いくつか考えられると思います」
「つまりそこに共通するのはそれらの人物がその〝潜在的要素〟を持っていたからだと、そういうことでしょうか?」
「その通りです。人がわたしの小説を読む時、その全ての人が全く同じ潜在的要素を持っているとは限りません。その人たちそれぞれが日々の生活の中で、人生の中で、思い、感じたあらゆる事象、それが要素として根付いている筈です。そしてここで言うその要素とは人生観や人間性といったその人の重要なモノに深く関わる事柄です。それによってはヒイラギさんのように感動して頂ける方もいれば、反対に全く何も感じない方、それどころかむしろ感動から遠ざかってしまう方もいるでしょう」
「なるほど……」
聞いてしまえば至極当然のことだと納得してしまった。
そしてミフユさんがしきりに100人に1人の小説を素晴らしきものとして崇め奉る理由も、何となくだがわかってきた気がした。
「ミフユさん。ミフユさんは小説で人の心を操ることができるわけではないんですよね?」
「ええ、そんな大層なことはできないです」
「それでも、読み手の潜在的要素を知れれば、心に影響を与えられる可能性はグッと高くなる、違いますか?」
「確かに、〝可能性〟という点ではそうだと思います」
俺は興味本位でさらに質問を続ける。
「ではミフユさんはミフユさんの小説でもって人の悪意を助長させ、倫理に反するような行い、例えば、小説を読んだ人に殺人を犯すよう仕向けるといったことができますか?」
よくメディアで取り沙汰される、創作物が人に与える悪影響。
アニメ等においては度々放送自粛なんかも行われるが、ネット界隈では過剰反応として批判の的にされることが多い。所詮敵探しが大好きな人間の悪癖と、俺自身もどちらかというと世間の意見に寄った考えでいたのだが、でも、ミフユさんの話を聞くうちにあながちそうとも言い切れないのではと疑い始めている。
「試したことがないのでわかりません」
否定はされなかった。
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