【仮題】1日目その4

 一瞬、時が止まったように感じた。


 俺は閉口しながらも手元のアイスコーヒーに縋ろうと手を伸ばし掛けるが、もう氷しか残っていないことを思い返し、中途半端な位置で手を止め固まる。その間もミフユさんの視線は俺を捕らえたままだった。


「確かに〝一方的に〟というのは良くないです。ですからお互いに教え合うことにしましょう。それなら変に気を使う必要もなく、対等だと思うんです」


「いや……その……」


 その理屈はおかしい。


 先程の呼び名の時に出したような折衷案を今度はミフユさんの方から持ち出されてしまったわけだが、「お願い」は彼女の方から、それこそ一方的にしてきたことだ。全く以てフェアではないと感じつつも、だが、この時俺は彼女が執筆に関してどのようなことを教えてくれるのか、多少の興味が湧きつつあった。


「ヒイラギさん、今の『いや』は否定の『いや』ですか?」


 ミフユさんは瞬き一つせず、しかし仔細らしい表情で俺を見据える。


「アメリカはテキサスの大学でこんな実験結果があるんです。誘いを受け入れる意思があっても最初の一回は無意識にNOと言ってしまう人間が約40%にもなると。つまり一回目の返答は本心でない可能性があるんです。ですから念の為もう一度お聞きします。ヒイラギさん、お願いできませんか?」


「………………わかりました」


 俺は承諾してしまう。それこそ何かに吸い寄せられるかのように。


 そこでようやくミフユさんは真剣な眼差しを緩め、笑みを浮かべた。だが、やはり視線は頑なに俺を捕らえたままだ。


 しかし妙なことになった。


 あれだけ通っていた高校の生徒との接触を避けたかった身だったのに、接触どころかこうして小説の書き方について教え合うという変な関係ができてしまった。聞いたこともないトリビアまで交え半ば無理矢理と言えなくもないが、俺自身にも興味が芽生えてしまったことは否めない。


 ここは試しにミフユさんの言う「教え合い」に興じてみて、それが思う程の価値を見出せないものならば次から会わなければ良い話だ。この喫茶店にも二度と来ない。


「とは言いましても、どうしましょう。教えると言っても僕は人に小説の書き方を教えた経験はありませんし、先程何度も言った通り執筆の腕ではミフユさん、あなたの方が上だと思っています」


「ヒイラギさん、執筆の腕の話はもうこの際置いておきましょう。しかしそうですね……教科書のような明確な履修手順があるわけでもないですし……」


 そこでようやくミフユさんは俺から視線を外し、考え込むような素振りを見せた。しかしすぐにこちらに視線を合わせると、


「こういうのはいかがです? お互いにお互いが知りたいことを訊いてそれについて教え合う!」


 そう提案した。


「成程……それでいきましょう」


 俺の方は大して考えているわけではないのに、意味ありげに少し溜めてからそう返答した。


「ではまずヒイラギさんから良いですよ? わたしからお願いした身ですから。何でも訊いて下さい」


 ミフユさんはそう言いながらスマホを取り出すと一度何かを確認し、「はい大丈夫です」と言ってテーブルに置いた。時間でも確認していたのだろうか。先程はよく見えなかったが、テーブルに置かれた彼女のスマホは可愛らしい花柄の手帳型ケースで年相応の女の子らしさが垣間見えた。俺は彼女の大人びた所作に多少の気後れ感があったので少し安心した。


「そうですね、それでは――」


「その前に!」


 急なことではあるが、ミフユさんの小説に関して訊きたいことといえばそこまで思案せずとも湯水の如く溢れてくる。その中の一つを口にしようとした瞬間、言葉を遮られた。


「ヒイラギさんは、わたしの小説についてどう思います?」


「率直に言って、面白いです」


 今更のことなので俺は平然とそう答えた。だが、当のミフユさんは妙に照れた様子で顔を赤らめると少し俯き気味なってしまった。


「わたし今、どんな表情してます?」


 そして再度訊いてくる。


「えっと、照れている……感じに見えます」


「そう仰るヒイラギさんも少し恥ずかしそうです……」


 何だこれ? 俺は何て言えば良い?


 って言うかさっきから彼女ばかり質問している。俺の番の筈なのに。


「ああ、すみません。ささっ、どうぞ!」


 ミフユさんはハッと我に返ったように表情を戻すと、手のひらを上に向けながら今度こそ俺の質問を促した。


「ミフユさんの小説は面白いです。確かに面白い。僕が普段好んで読んでいる小説ジャンルからすると全く興味が湧かない筈にも関わらずです。自分の小説を書いている時以外は四六時中ミフユさんの小説のことを考えてしまう程です」


 俺が前置きとしてそう言い切ると、ミフユさんは両手をテーブルの下に隠しながらもじもじと身体を悶えさせて先程よりも一層顔を赤くする。時折「うぅ……」という小さな唸り声を上げていた。


「正直面白過ぎてどこから訊いて良いかわからないのですが、読んでいる時に度々不思議な感覚になる時があります。どう考えても理解が及ばず、少し怖く感じてしまう程です」


「怖く……ですか?」


「ええ、例えばそうですね……、今執筆中の作品の中で主人公が野良犬に出会うシーンがありますよね?」


「ええ」


 俺は先程思い出していた『ラピスラズリ』のワンシーンを引き合いに出す。


「あれ、どうやってるんです?」


「あれ……ですか?」


 確かに質問がオープン過ぎた。だが、俺自身どのように説明して良いのやらまだ考えが纏まっていないのだ。


「あのシーンに差し掛かった時、僕の中で感情がこう……高鳴ったと言いますか……何かが溢れたんです。自分でもどう説明して良いかわからないんですが……」


 俺は咄嗟に変に見栄を張ってしまい、そんな曖昧な言い方をした。


「泣いてしまったんですね」


 だがミフユさんは無情にもそう聞き返した。


「ええ……、そうですね」


 俺は観念してそう白状した。教えて貰う立場なので頑なに見栄を張り続けるのもどうかと言うものだ。


「それは仕方ありません」


 ミフユさんは視線を逸らさずに断言する。


「あのシーンは〝そういうふうに〟書いたんです」


 それがミフユさんの回答だった。だが俺には到底理解が及ぶものではなかった。〝そういうふうに〟書いた?


「ミフユさんは文章で人の心を操ることができるんですか?」


 思わず俺はそう問い掛けてしまった。兼ねてから頭にチラついていたことだけに、ほぼ無意識と言って良かった。そして言ってしまってから自分が物凄く可笑しなことを口走ったと気付く。


 でもあながち間違いではないのかもしれない。先程もアメリカの実験がどうとか言っていたわけだし、もしかしたら心理学のような知識を小説に取り入れている可能性も……。


「人の心を……ですか? いえいえ! そんなことは……」


 俺の淡い妄想に反してミフユさんは頭をブンブンと振りながら否定した。


「あれは〝わたし〟なんです」


 そして一言、そう付け加える。


「あの、ミフユさん。順を追って説明して貰えますか?」


 ぶつ切りになった言葉の回答ばかりでは、理解するどころか余計にわからなくなる。俺はミフユさんにそう促す。


「ヒイラギさんはあのシーンで泣いたということですが、わたしが読んでもあのシーンでは同じことになります」


「つまり、泣いてしまうと」


「ええ、そうです。だってあの小説はわたし自身。いえ、わたしの書いた今までの小説は全てわたし自身のことを描いたものなんです。だからわたしはわたし自身の小説を読むことによって、現実の悲しみや切なさを連想してしまい思わず涙が溢れてしまうんです」


「あれはミフユさんの実体験に基づいた話だと?」


「いえ、何も正確にわたしが体験した事柄ではありません。わたしの実体験を根幹に登場人物や出来事、その他諸々の設定に手を加えてフィクションとして書いています。ただ、それを読むことによって感じること、わたしの中に蘇る感情のみが真実なんです」


 確かに彼女の小説はファンタジーではないとはいえ、現実味のない不思議な出来事が起こったりする場面がどの作中にも必ず入っていた。それにそもそも主人公は成人女性であることが多かった。俺が勝手にミフユさんを大人だと邪推した理由の一つでもある。


「あれは……、あれらは、いわばわたしにとって『日記』のようなものなんです。人の感情はどんなものでもいつか風化して薄れてしまいます。でもいつでもその時の感情を思い返せるよう、ああしてアルバムのように保管しているんです。例えそれが〝悲しみ〟であってもわたしにとっては大切な〝気持ち〟のひとつですから」


 そう答えるミフユさんの目には心なしか少し切なさが滲んでいた。


「でもそれだとおかしいじゃないですか。だって僕はミフユさんじゃあありません・・・・・・・・・・・・・・・


 そう、ミフユさんの小説がミフユさん自身の過去の感情を呼び起こす為のものだとしたら、俺には存在しないものだ。


 それにまだミフユさんは説明していない。仮にあのシーンが人間の〝悲しみ〟を呼び起こすシーンだとしても、何故、一見すると無関係な内容でそのようなことができるのか。


「例えば、一枚の写真で人が涙を流すことはあり得ますよね?」


「ええ、それはわかります。そうですね……例えば、夫が死に別れた妻の写真を偶然見つけた場合とか」


「ではその例えでいきましょう。仮にそんな写真があったとして他人のヒイラギさんがその写真を見たらどう思います?」


「恐らく何も……、ただ女性の写真だなぁとしか」


「そうです。でもそれは何故か…………簡単です。ヒイラギさんにはその前に存在したストーリーがわからないからです。でも映画やドラマのようにその旦那さんが奥さんと出会う場面からストーリーを追って行った場合はどうですか? 涙する人は少なからずいるのではないでしょうか?」


「ええそれはそうでしょうね」


 俺は絶対に泣かない自信があるが、そんな無粋なことは敢えて口に出すことではない。


「それがいわゆる世に聞く〝共感〟というものなんでしょう。順を追って出来事を知るうちにいつしか人はその登場人物に共感し、感情ごと物語に入り込みます。そして自分の身内や知り合いのことでもないのに涙を流すことがあるのです」


「確かに理解はできます」


 理解どころか、それは誰が聞いても当たり前のことだと思う。今更そんなことを懇切丁寧に説明されても俺の中の疑問は微塵も解決しない。


 仮に『ラピスラズリ』の夕日と野良犬のシーンが、今例に挙げたような死に別れた人の写真だとして、確かにその部分だけ切り取られれば感動も何もない。ただ「夕日と野良犬のシーンだなぁ」で終わるのは同じことだ。


 だが、写真の例の方は悲しい気持ちになるにあたって明確な「関連する物語」があるのに対して、「夕日と野良犬」のシーンにはそれが一切ない。本当に何の脈絡もなく差し込まれたワンシーンなのだ。


「ヒイラギさんの言いたいことはわかります」


 俺の心情を察してか、ミフユさんはこちらをじっと見据えて口を開く。


「わたしの書く何ら脈絡のないシーンで何故あのような現象が起こるのか、そもそもわたしの小説と今の例えを同列に考えて良いのか、それが疑問なんですね?」


「まさしくその通りです」


「では、そのあたりをご説明します」


 俺は最早ミフユさんの瞳から目が離せなくなっていた。もう既に〝気まずい〟という感覚は俺の中からなくなっていた。


 だがミフユさんは一瞬俺から目を離したかと思うと、手元のジュースを一口。そこで俺は彼女の瞳と繋がれていた見えない糸が切れたかのように、やや前傾になってしまっていた姿勢を正した。


 飲み物も無しに会話を続けていた所為か喉の渇きが気になる。


 俺は追加のアイスコーヒーを注文し、ミフユさんのグラスの中身がほとんど残っていないのを確認して彼女の分のジュースも奢ることにした。ミフユさんは派手に恐縮しながらも今度はシトラスミックスジュース630円を所望した。


 この日だけでだいぶ予定外の失費がかさんでしまった。

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