02


「全く朝っぱらから汗まみれのオッさんに囲まれるなんて、俺はなんて不運なんだ」

 満員電車でおしくらまんじゅうを経験した俺は、家から駅まで走ったのも祟って、高校最寄り駅、座山ざやま駅の改札を抜けた時にはもう汗をかき始めていた。

 俺の通う織風おりかぜ高校は、座山駅から徒歩十分の距離にある。今、高校入学祝いの電波腕時計は八時十五分を指している。普通に歩けば一限開始の八時半には間に合うだろう。もう走る必要はない。俺はほっと胸をなで下ろした。

 しかし、どういう風の吹き回しだろうか。

 俺は花山院千秋、その人に遭ってしまった。

「よお」

 と俺が挨拶すると、

「やあ」

 と返す千秋。

 暗黙の了解というか了解すらせずに、俺たちは一緒に歩くことにする。意外なことに、高校生活を一年以上続けてきて、友と共に登校するのは初めてのことだった。

「初めてだな、一緒に登校するなんて。寝坊したのか、千秋?」

「いや、起きたのは三時十四分十五秒だよ」

 三一四一五という数字の並びは、決して無意味ではない。それは、3.141592653589793238462643383279502884197163933975……と続く円周率のアタマだ。何度も聞かされて俺も少し覚えちまった。千秋は何ケタまで暗唱できるのか、想像するだけでも恐ろしいからあえて訊かない。

「まったく、何時に起きてるんだよ」

とか

「なんで起床時刻を秒単位で覚えてるんだよ」

という野暮なツッコミもしない。もっと重要なことがある。

「じゃあ、なんでこんな時間に駅にいるんだ? わかってると思う――」

「キミが駅に着いた時間帯が、遅刻をギリギリで回避できる全然褒められた時じゃないのはわかっているんだけれどね――」

 俺に最後まで言わせない千秋。しかも、その文意は俺が言いたかったこととほとんど変わらない。……ただ、このように人の話をあまり聞かないのも、不和を生む原因になるんだよな。しかし、早口で抑揚があまりない喋り方なのに、しっかりと聞き取れて意味も伝わるその滑舌! 舌を巻きたくなる。

「――今日はきっと不吉なことが起きる。そんな気がしたから、ちょっと学校に来るのを躊躇っていたんだよ」

 いかにも怪しく、いかにも気味悪く、いかにも悪魔がささやくがごとく危険な千秋の雰囲気は、「何をつまらん戯言を言ってるんだ」と冗談として笑ってすますことを許さなかった。 何も言い返せず硬直しているそんな時、突然、救いの手が現れた……のか?

「おっはよー、正太郎!」

 後ろからいきなり女子お得意の黄色い大声で名前を呼ばれる。周りを歩いていた織風高校の生徒たちが一斉に俺の方を見てくる。急に声をかけられた驚きよりも、恥ずかしさがこみ上げてくる。

 とはいえ、いつまでも動揺しているわけにはいかない。声で一連の犯人は容易に推測できた。もしかしたら勘違いかもしれない、と念のため後ろを向くが。

 やはりお前か。

聖名子みなこ、いきなり後ろから現れて、朝からそのハイテンションで俺を攻撃するのは止めてくれ。ただでさえ頭重なのに、よけいに酷くなる」

「えー、挨拶するのもダメなのー?」

「挨拶は構わん。だが、TPOを弁えて振舞ってくれ」

「りょーかい」

 |と言いつつ千秋を押しのけて俺の右腹にピタリと密着してきた《全然了解してないだろ。俺の話を本当に聞いてたのか、お前は?》女子は、クラスメートの藤原聖名子みなこだ。超絶目立つ金髪ツインテール、大きな目に高い鼻が左右対称に配置された童顔、自己主張が激しくないものの存在感こそある胸、スラリと伸びる長い脚の持ち主である。

「ねー、ちょっとどこジロジロ見てんのよ」

気のせいだ実は少し見た。自意識過剰はよしてくれ。あと、離れろ」

「正太郎って本当につれないなー」

「いいから聖名子は黙っててくれ。俺は千秋と大事な話があってだな」

 まあ、確かにかわいい。勉強もそこそこできるらしい。加えて性格も良いということで、なかなか男子たちに人気があるとの噂だが、交友関係の広くない俺には噂の真偽はわからない。まあ仮に真だったとして、俺にはその理由が全く理解できんがな。いや、容姿や勉強のことは否定しないが、性格が良いというのは百歩千歩万歩譲っても納得できん。それに、なぜだか事ある毎に俺に構ってくるし、いつも超がつくほどのハイテンションなものだから、俺にとっては結構苦手な人種である。

 だが、何よりも一番面倒くさいのは、

「正太郎もさ、こんなやつと一緒じゃなくて、私と一緒に学校に行こうよ」

 千秋と聖名子の仲が、犬と猿のそれよりも悪いことである。

「頼むから、朝から喧嘩は止してくれよ」

「りょーかい」

 聖名子は頬を膨らましているが、表立って文句は口にしなかった。今度は話を聞いてくれたか。一方、千秋はいつの間にか俺の左隣にいて、何も言わずに俺を見つめる。どうやら俺の意を汲んで聖名子の挑発をスルーしてくれるらしい。素直でよろしい。もっとも、他の人にもそんくらい素直だったら、こういう事態にはならないのだが。

 ……結局、二人の機嫌を取りながら登校する羽目となってしまい、千秋から不吉なこと云々を聞くことはできなかった。

 ああ、この時、何が何でも訊いとくべきだったな。

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