01
二〇一二年五月五日は、二十四節気で立夏というのも頷ける夏らしい暑さと、雲一つない見事な五月晴れで始まった。
「正太郎、起きなさい! 六時よ!」
階下より響く甲高い声。母だ。耳を貫き脳天にまで突き刺さるソプラノボイスは年齢不相応、いやこの歳で親に起こしてもらっている俺も年齢不相応だ。人のことは言えまい。
百万円積まれても無視して二度寝したい。そんな気分だったが、このままだと鼓膜が大変なことになる。しぶしぶベッドから抜け出す。
自室東側のカーテンをスパッと両側に開き、日光を全身で受けとめる。
これは晴れの日に必ず行う、俺の儀式だ。
低血圧のせいか、それとも単に生活習慣が悪いのか、俺は朝がとことん苦手だった。頭上に不可視の重りが載せられているような感覚に襲われ、頭があまり働かないのだ。そのせいで朝の俺は非常にのろまだった。高校には充分間に合う時間帯に起きている、いや訂正しよう、起こしてもらっているのにもかかわらず、高一の時は遅刻回数学年一位の座を勝ち取ったくらいだ(誇らしく語ることじゃないな)。
ところが、親友の千秋に教えてもらったこの儀式をするようになってから、晴れの日の朝は俺の敵ではなくなった。せいぜい要注意対象程度の危険度だな。確実な進歩だ。
二階の自室から一階のダイニングに向かう間、俺は千秋のことを考えてみた。頭が重いのにわざわざ考えごとをするのは苦行に他ならない。が、重い頭だからといって何も考えず逃げるのは良くない、というのもあいつの助言だった。これも最初は騙されたと思ってやってみたのだが、考えているうちに頭が軽くなったような気がしないでもない。千秋の言ったとおりだった。
そう、千秋の助言はいつも正しい。テスト前によく一緒に勉強するのだが、説明が上手いのはもちろんのこと、彼が言ったことは本当によく出題される。それこそ、テストの作成者が千秋ではないかというほどだ。俺はもともと天才でなければ馬鹿でもない平凡な学生だと自負しているが、千秋のおかげでクラスでも成績は上位を占めるようになった。やはり持つべきものは友だな。ちなみに千秋はというと、学年一位を高一の間ずっと守り続けた。「天才」の二文字こそ、やつを語るに最も相応しい言葉だ。
さらに、彼には才能がある。ピアノだ。母親がピアノ教室をしていて、三歳のころからずっと教わっているらしい。自慢にすらならないが、俺も小学校低学年の時、親が俺のあまりにも音楽センスが無いことに呆れて、九歳頃から近所の教室に通わされているため、千秋のその抜きんでた才能の高さがよくわかる。コンクールでもよく優勝しているらしい。
とまあ、千秋はすごい人物なのだ。父親も高名な科学者であるから、将来は父のような科学者になるのかと、あいつを知る者たちは傲慢にも勝手な想像をしている。俺にはあいつがそうなるとは思えないのだが。
なんて考えながら、ダイニングテーブルを囲む家族の輪に加わった。家族全員の食事を作る母、土曜日にもかかわらず家から遠い会社へ行く父、同じく土曜日なのに部活のため早起きする中学生の妹、と俺以外の家族は生憎とっくのとうに起きているので、土曜授業糞食らえと重い頭をえっちらおっちら持ち上げて起きた俺は、最も遅れて朝食を食べ始めたのだった。
家族がテレビの朝のニュースに釘付けになっている間、俺は先ほどの考えを呼び戻した。
……そう、確かに千秋はすごい。
ただ、誰にも弱点というのが存在する。
それは人柄だ。人よりも頭の回転が速く、それがきっと裏目に出るのだろう。考えたことをそのまま口に出すのだ。そのため、事実を誇張することもなければ婉曲的な表現を使うことすらなく、ただありのままにストレートに物言う。端的に言えば毒舌。それも相当ひどいレベルのため、千秋とまともに話ができる人間は数少なく、俺はその一人だった。
結果、プラスマイナスゼロとなる千秋は、周囲から一目置かれるものの、その評価は真っ二つだ。ある者は尊敬のまなざしを向け、またある者は嫉妬のまなざしを向ける……本当に人を選ぶ人だ。もちろん、俺はあいつのことを尊敬している。だが、その逆の立場の者もいれば、さらにその中でも攻撃的な奴もいるわけで、俺はそういう野蛮な奴ないし幼稚で精神年齢の低い者から彼を守っている。あいにく喧嘩はちょっと得意なんでね。ああそれと、あいつの言葉を上手くフォローしたりなどしているのも、俺の役目だ。
千秋はアブラムシで俺はアリ。よく言う共生の関係ってやつだ。アブラムシが甘い汁をアリに提供する代わりに、アリがアブラムシを天敵から守る。なんと合理的なシステムなんだ、と俺は思う。双方が得をするこの共生は、理想的な社会ではないか。
それなのに、どうも最近共生という概念が軽視されているような気がする。たとえば、話が大きく飛躍してしまうのも承知で言うならば、地球環境を破壊する俺たち人類は明らかに地球と共生していない。このままでいいのだろうか。現に地球温暖化やオゾン層の破壊、エネルギーの枯渇に沙漠化……人類には現在抱える問題がたくさんある。
……こうやって思考が大跳躍を遂げるのも日常茶飯事なのだが、考えに没頭して遅刻するのも日常茶飯事とするわけにはいかない。
気が付けば、父と妹は朝食をとうに済ませ、母は食器を洗い始めていた。時刻は七時。起こされてから一時間もかかっている。
俺は残りの飯を一気に口に入れると、十分で歯磨きやトイレ、着替え等を慌ただしく終わらせた。玄関で靴を履き、それから、食器を洗っているであろう母と我が家に向かって、
「いってきます!」
玄関のドアノブを回した。
ところが。
「弁当!」
母が大慌てで走ってきて、弁当を手渡してくれた。
時間に余裕が無いため、
「サンキュ」
軽く礼を言うと、俺は短距離走選手になった気分で駅に向かって駆けだした。
……この会話が母との最後の会話になってしまうなどとは、この時は微塵にも思わなかった。当然だろう? 高二で突然親と別れちまうなんて想像つかないだろうよ。
あの甲高い声が少し恋しい。
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