旅立つ君に、首輪を捧ぐ

福北太郎

第1話

 二限の講義の終わりを告げる鐘が鳴る。

 季節はキンモクセイの香る頃、道はオレンジの花で埋め尽くされている。

 その花をぐしゃぐしゃに踏みしめながら、志水しみず鈴成すずなりは足早に、学生寮の自室へ向かっていた。

 だが、その足が唐突に止まる。ドアの前に奇妙な人を見たからだ。

 薄いブルーのパーカー、すり切れかけたジーンズ、おそらく同い年くらいだろうか。青年が、鈴成の部屋のドアを塞ぐように座り込んでいる。

「なんだこれ、邪魔だな」

 おそらく、酔っぱらって部屋を間違えたのだろう。青年は熟睡している。まだ真っ昼間だというのに、大胆なヤツだ。

 鈴成は、その青年の尻を全力で蹴り飛ばした。青年が痛さに、ぎゃうんっと鳴く。

「痛っ! え、なに!?」

「それはこっちの話だ。誰だよ、お前。っていうか、どいて、邪魔だから。今すぐ」

「え、待って。あの……」

 青年はびくびくしながら鈴成を見上げる。

「君って、鈴くん――だよね?」

 鈴成は眉をひそめる。

「……確かに俺の名前は鈴成だが」

「や、やっぱり本当に鈴くんなんだ。……うわあ」

 青年は衝撃を受けたように、鈴成を上から下まで眺める。

 その視線が妙にしゃくに障って、鈴成はまた青年を蹴り飛ばした。

「うわ! もう、なんなの!」

「お前がどこの誰で、なんで俺の名前を知っているかとか、気になることは多々あるが、そんなこと今はどうでもいい。俺は今、猛烈に腹が減ってるんだ。――どけ。じゃないと踏み潰す」

 鈴成が、眼光で青年を脅す。ひいいっと悲鳴をあげて、青年はドアの前から飛び上がった。

 その隙に鈴成は鍵を開けると、中へ入り込む。

 当然、目の前の青年を置き去りして。

「……え?」

 ドアが閉まりきる直前、青年のすっとんきょうな声が聞こえた。

 外側から、青年がドアを叩きながら叫ぶ。

「ま、待ってよ! 鈴くん、僕だよ、僕! タロウ! 覚えてない?」

「宗教の勧誘なら他を当たってくれ」

「違うって! 昔はあんな可愛がってくれたでしょ! 新品の首輪だよって、僕につけてくれたじゃない。なんで? 忘れちゃったの?」

「…………は?」

 靴を脱ぎかけていた鈴成は、行動を止めた。

 もう一度かかとまではき直すと、再びドアを開ける。

 扉にガンッとぶつかる音がしたかと思うと、青年は痛みでかがみこんでいた。額を抑える青年に、鈴成は怪訝な表情で聞く。

「なに。お前、変態? 誰かと人違いしてないか?」

「ひ、人違いじゃないよ。鈴くんでしょ。志水鈴成くん」

「同姓同名の別人じゃないのか。俺にそんな趣味はない」

「趣味? 意味がよくわからないんだけど」

 まだ痛いのか、青年が涙目で首を傾げる。その間抜け面にイライラがつのっていく。

 もう腹の表と裏がくっつきそうなくらい空腹だというのに、いつまでこんなやりとりをしなければならないんだ。鈴成の忍耐力は、崩壊寸前だった。

 鈴成は青年の首根っこを掴むと、室内に引きずり込む。

「いい。とにかく話は飯食いながら聞く」

「す、鈴くん! く、苦し、息が」

 じたばたもがく青年をカーペットの上に転がすと、鈴成は直ちに台所へと向かう。

 もうこの際、食欲さえ満たせればなんでもいい。冷蔵庫と炊飯器を確認すると、鈴成は手際よく余り物の野菜やハムを刻み、フライパンでご飯と炒める。

 ものの五分ほどでチャーハンができあがった。――二人分。

 鈴成は折りたたみ式のテーブルを広げると、自分と青年の前に、チャーハンを置く。

 青年が、信じられないという顔で尋ねてきた。

「……僕もいいの?」

「一度敷居をまたがせた以上、変態とはいえ一応客だ。客をもてなすのは、当然だろうが」

 きょとんとする青年を無視して、鈴成は一人食べ始める。

 とにかくもう今は食いたかった。鈴成は、流し込むようにかっ食らう。

 それを見て、青年もおそるおそるスプーンを手に取る。一口ほおばって、青年は驚きと感動の混じった声でつぶやいた。

「……美味しい」

 そのまま一心不乱に食べ始める。

 鈴成は、即興の割に香ばしく仕上がった米を咀嚼しながら、青年を見つめた。

 自分の作ったものを、美味い美味いと良いながら頬張る姿を見るのは、存外に心地がよい。

 そういえば、料理を誰かに食べさせるのは初めてかも知れない。

「……そんなに美味いか」

「うん!」

 青年が全力で肯定する。

 お世辞かも知れないが、やはり悪い気はしない。

 すると、青年がハムスターのように頬袋にチャーハンを詰めたまま、小さく微笑んだ。

「でも良かった」

「良かったって、何がだ」

「鈴くんだなあって思って。口は悪いけど、なんだかんだ優しいところとか、変わってないんだなって」

「口は悪いけどは余計だ」

「ははは、でも事実でしょ」

 それは否定しない。

 怒濤の勢いで、鈴成は皿を傾けて、チャーハンを流し込む。

 全て口に含むと、一緒に用意した麦茶をごくごくごくっと一気飲みした。グラスをダンと置く。

 肩で深く息を吐くと、鈴成はほっとして、全身から力を抜いた。

「はー、やっと落ち着いた」

 座りながら後ろに手をつき、天井を見上げる。腹が満たされて、ようやくまともに思考が働くようになってきた。

 頭を振って、その勢いで起き上がると、鈴成は机に片肘つきながら、青年を見る。

「さっきは悪かったな。空腹時は虫の居所が悪いんだ。ついつい他人にあたっちまう」

「いいよ。君が僕の知ってる鈴くんだって、ようやく確信できたし」

 青年が笑顔で首を振る。

 鈴成は腕を組んでうなった。

「それなんだがな。お前、俺とどこで会ってるんだ? 冷静に考えてみても、まるで心当たりがないんだが」

「……本当に覚えてないの?」

 青年が悲しそうな顔をする。

 だが記憶がないものはない。鈴成は素直に答える。

「まったく。お前の名も、どこで出会ったのかも、かけらも覚えてない」

「タロウって聞いて、思い出すものもない?」

「ない」

 即答する鈴成に、青年は肩を落とした。

「せめてもうちょっと考えてから言おうよ」

「……めんどくせえなあ」

 太郎、田老、タロウねえ。

 鈴成は脳内で、その単語をこねくり回す。

「昔拾った犬にそんな名前つけた気がすっけど……そんなの関係ねえしな」

「それだよ!」

「は?」

「だから、僕がその犬のタロウ!」

 青年は自身を指をさして、喜色満面で宣言した。

 鈴成は唖然とする。

「……そうなのか」

「まあ、最初は信じられないのも無理はない――って、え? 今、なんて言ったの?」

「そうなのか」

「……信じて、くれたの」

「疑うのがめんどくさい」

「……鈴くん。その何でもかんでもめんどくさがるクセやめようよ。君、散歩の時、コースを考えるのがめんどくさいって、歩きながら寝てたでしょ。おかげで車が近付いたら、僕がリードを引っ張って起こさなきゃいけなかったし。普通逆だよ」

「俺は食うのと寝るのとめんどくさがるのをやめたら、死ぬ」

 鈴成は断言する。

 青年――いや、犬のタロウは、頭を抱えて深く息をつく。

「……うん。思い出した。たしかに君はそういう人だったね」

 ――それにしても、タロウとはずいぶん懐かしい名前が出てきたものだ。

 鈴成が道ばたに捨てられていた雑種犬を拾ってきたのは、小学生のときの事だった。親には「飽きっぽいお前のことだ。どうせすぐに世話もしなくなるに決まっている。元の所へ捨ててこい」と叱られた。

 だが、周囲の予測に反して、鈴成は諦めなかった。

 それは鈴成が初めて、何かに執着した瞬間だった。

 親に拒絶されて、意地になっていたのかも知れないが、鈴成は毎日「めんどくさい」とつぶやきながら、それでもきちんと世話をしていた。いつか、親の方が根負けするようになるまで。

 タロウはもしかしたら、鈴成の初めての親友だったのかも知れない。

 ――だが、と鈴成は思う。

 タロウは確か、父親の転勤の都合で、よその家に預けることになったはずだが。何故、今になって戻ってきたのだろう。

 鈴成は尋ねた。

「で、なんでお前はここに来たんだ。それもわざわざ人間の格好で」

「君に会いに来たんだよ。神様にお願いしたら、一日だけ人間の姿にしてもらえたから。だったら君に、拾ってくれた恩返しをしようと思ったんだけど。ダメかな?」

「ダメ」

「えええっ!」

「だって今、別に困ってねえし。単位も足りてる、金も仕送りとバイトで補えてるし、暇なときに遊ぶ相手もいる。彼女はいなくても不便はねえ」

「そ、そんな、困るよ」

「困るって、そりゃこっちのセリフだ。いきなり押しかけて、恩返しさせろとか言われても、わざわざ犬に頼まなきゃいけないことなんてねえよ」

「……そんな。ねえ、本当に何もないの。何でもするから」

 すがるようなタロウに、鈴成は呆れる。

「お前な。そう簡単に何でもなんて口にするなよ。どんな事言われるか、わかったもんじゃねえぞ」

「いいんだ、それでも。……どんな事言ってもいいから、お願い。ここにいさせて。僕を飼って」

 何か事情があるのかもしれない。あまりのなりふり構わない様子に、鈴成はたじろぐ。

 しょんぼりと俯くタロウに、頭をかきながら、鈴成はため息をついた。

 ――マジ、めんどくせえなあ。けど、なんかしないと帰らなそうだし、こいつ。

「……わかったよ。じゃ、ちょっと付き合え」

「何に」

「散歩」


***


 とりあえずタロウを連れて外に出たはいいが、早速鈴成は後悔していた。

「ねえ、見て見て鈴くん! ここ、首輪がいっぱいあるよ! 欲しいなあ」

 だからって、ペットショップでよだれを垂らして見つめるな、変態。

「おい、タロウ。お前、自分の姿を省みろ。人間は、首輪を付けない」

 口を膨らませてタロウが抗議する。

「だって、生まれてからずっと鎖につながれてきたんだもん。なんか締まってないと、逆に違和感があるし」

「だからって、なにも首輪じゃなくてもいいだろ」

 ストールやチョーカー、タートルネックなど、首周りを埋める方法など他にいくらでもある。だが、タロウは首輪が良いと言って聞かなかった。

「ね、お願い。買って」

「……ったく、どういういじめだよ」

「あ、鈴くん! これ、これがいい、黒いの」

「はいはいはい。わかったよ、買えばいいんだろう、こんにゃろめ」

 まあ、首輪なら……変わった形のアクセサリーみたいなものだと思ってもらえるかもしれない。

 歯ぎしりしながら、鈴成は首輪を手にレジへと向かう。大型兼用のそれは、二千円もした。

「ねえねえ、鈴くん。これって、デートって言うんだよね」

 レジ横でささやくタロウに、鈴成が吹き出した。

「おま、何言って」

「だって、おばあちゃんが言ってたよ。若いアベックが、二人でお買い物するのは、デートって言うんだって」

「アベック」

 どこから突っ込んだらいいんだろう。店員の視線が痛い。

 鈴成はタロウの首根っこ掴むと、猛ダッシュで店から出た。

「えへへ」

 さっそく紙袋から首輪を取り出してはめようとしているタロウの手をはたく。

 だが手を止めずに、タロウは完全に首輪をはめる。

 鈴成が、タロウをにらんだ。

「タロウ。お前、これ以上、余計なことすんな。俺まで変態だと思われるじゃねえか」

「だって……」

 タロウは、空になった紙袋をぎゅっと抱きしめる。

「嬉しかったんだもん。鈴くんと買い物できて、楽しかったんだもん。犬の姿じゃ、店にも入れないしさ」

「お前は女か。めんどくせえなあ」

 鈴成は舌打ちする。

「タロウ。もう気はすんだだろう。とっとと家に帰れ」

「え……」

「お前を飼ってた家……森川さん、だったか。今頃、お前がいなくて心配してるんじゃないのか」

 タロウは答えない。その表情は図星のようだった。

「何があったのかは知らないけどな。今更、俺のところに飛び込んできたって、どうにもならねえぞ。俺は、お前を飼う気はない」

「……なんで、そんなこと言うの」

「あ?」

「鈴くんのバカ!」

 鈴成の顔面に紙袋を投げつけると、タロウは走り出す。さすが犬だけあって、足は速い。

「バ、バカはお前だ! 待て、この駄犬! くそ、無駄に体力使わせんじゃねえっつーの!」

 鈴成はあわてて、全速力でタロウを追った。

「待てよ、タロウ!」

 タロウがもし犬の姿であったのなら、追いつけなかっただろうが、人の姿で走り慣れていないタロウは、少しずつスピードを落としていった。

 鈴成が、タロウの腕を掴む。

「離してよ!」

「落ち着け。どこへ行くつもりだよ」

「どこだっていいじゃん! 崖でも、森でも、富士の樹海でも、勝手に行くよ!」

「樹海って」

 鈴成は驚きとも呆れともつかない声を上げる。

「お前、自殺するんじゃねえんだからさ。なんだってそんな――」

 だが鈴成は言葉を失う。太郎の目が、本気だったからだ。

「……マジで、自殺する気かよ」

「だって。鈴くんが飼ってくれないって言うから。他に行くとこ、ないし」

「だからって――」

 鈴成はため息をつく。

「なんで、そこまで森川家に帰りたがらない。大事に育ててもらってたんだろう。恩を返すっていうんなら、俺じゃなくて向こうにしろよ。それが筋だろうが」

「余計なお世話だよ。僕が誰に恩返しをしようが、僕の勝手じゃん」

「なんでそう頑ななんだ。理由を言え。動物虐待されてたとでも言うのか」

「そんなことない!」

 タロウが叫んだ。

「森川のおじいちゃんもおばあちゃんも、いい人だなんてわかってるよ! ずっと側にいたんだ。僕が一番知ってる。あの二人がどれだけ優しくて、どれだけ暖かくて、どれだけ僕を愛してくれたか。――だからこそ、僕は会いたくない!」

「どういう、ことだ」

「鈴くんは知らないんだ。あの二人が、僕の存在をどれだけ喜んでくれたのか。小さな田舎町で夫婦二人、いつの間にか楽しみもなくなって、会話もなくなって、あの人達は人生に疲れ始めていた。そんな時に僕が現れたことで、あの夫婦は変わったんだよ。僕の世話を通じて、よく笑うようになったし、会話も増えた。積極的に外に出て、他人と関わるようになった。二人と一匹、本当に幸せな日々だった――けど、僕はもう保たない」

「保たない?」

 タロウが歯噛みする。

「犬の寿命は、人間よりはるかに短い。ねえ、鈴くん。僕を拾ったとき、君は何歳だった?」

「あの時は、小学四年だったから、多分十歳だな」

「じゃあ今は?」

「二十歳……あ」

 鈴成はハッとする。

 犬の寿命はおよそ、十歳から十三歳と言われている。

「わかるよね。子供であった君が、こんなに大きくなるんだ。犬にとっての十年が、どれだけの年月か。――犬の姿ではね、僕はもう死にかけの老犬なんだよ。満足に散歩も食事もできやしない。もうあとは、死ぬのを待つだけの状態なんだ」

「……タロウ」

「でも、僕が死んだらあの二人はどうなるの。せっかく前向きに明るくなれてきたのに、こんな時に今僕が死んだら――あの人たちはどうなるの。生きる気力をなくさないって、どうして言い切れるの」

「それは……」

 鈴成は言葉につまる。

 ほらねとでも言いたげに、タロウが鼻を鳴らした。

「ただでさえ老いて動けなくなっていく僕を見て、あの二人は毎日心配ですりきれそうになってる。これ以上、僕のせいであの人達が苦しむのを見たくなかった。そんなつらい思いをさせるくらいなら、僕なんて忘れて生きて欲しいって。人間になって、もっと遠くへ行きたいって。ずっとずっとそんなことばかり考えてた。だから神様にお願いしたんだよ。『残りの寿命を使っていい。だから僕を人間にして。ここではないどこかへ連れてって』って」

 タロウは座り込む。

 その目から一粒、涙がこぼれ落ちた。

「目を覚ましたとき鈴くんがいて、すごいびっくりした。それと同時に安心したんだ。鈴くんなら、絶対に森川の家に近付こうとはしないと思ったから」

「……何故」

「鈴くんにとって、森川の家は、大好きな『タロウ』を奪った家だから」

 真っ直ぐタロウが言い放つ。

「違う?」

「……いや、違わない。俺も、もう二度とあの家に行くことはないだろうと思っていた」

 森川家は、鈴成にとってトラウマの地だ。

 親の転勤でタロウを手放さざるを得なくなったとき、もらい手として名乗りを上げてくれたのが、近所に住んでいた森川夫婦だった。彼らからすれば、善意による行為であり、何の罪もないことはわかっていたが、いざタロウを手放す段になって鈴成は必死に抵抗した。

 泣きわめき、柱にすがりつき、森川夫婦に噛みつこうとした。

 けれど、そんな子供のわがままなど通るわけがない。親に引きずられながら、車に押し込められ、鈴成はタロウと離ればなれになった。

「あの時の鈴くんの変わり様はびっくりしたよ。普段は全然クールなのに、いきなり暴れ出すんだもの。――でもその時、僕という存在が、人を大きく変えてしまう危険があることを、ようやく僕は知ったんだ」

「タロウ……」

「ごめんね、鈴くん。やっぱり僕は、君より森川のおじいちゃんとおばあちゃんが大事なんだ。――だから、あの二人に会わせないで。死ぬところを見られるくらいなら、せめて永遠に行方不明だと思わせておいて」

 タロウはそう、残酷な願い事をする。

 静寂が場を包んだ。

「俺は……」

 その時、風に乗って五時のチャイムが響いた。鈴成は、宙を見上げる。

 ――帰りの時間のチャイムだ。

 子供の頃は毎日のように聞いていたはずなのに、いつの間に聞かなくなっていたのだろう。

 子供の頃、この鐘が聞こえたら、家までまっすぐ帰るように言われていた。

 鈴成は目を閉じる。

 家に帰ると、まっさきにタロウが飛んで出迎えて来てくれて、母親が台所から手を洗えと言ってきて、父親は黙々とニュースを見ていて。

 そんな時間が鈴成は大好きだった。そんな日々が、幸せだった。

 いつの間に、忘れていたんだろう。

「タロウ。一つ、思いついた」

「え……?」

「願い事。何でも叶えてくれるんだろ」

「う、うん」

 タロウがたじろぐ。

 あの時は、追い出されたくない一心で言った一言が、ここで帰ってくると思わなかったのだろう。

 鈴成は身構えるタロウに向かって、微笑んだ。

「幸せになってくれ」

「え……?」

「俺は、お前が幸せなら、それがいい」

「鈴くん……」

「勝手言って悪かった。俺は散々お前に幸せをもらったから、お前にも幸せになってもらいたかっただけなんだ」

 鈴成は、タロウの手を離した。

「いいよ。もう帰ろう」

「帰る……」

 呆然とタロウがつぶやく。

「帰っても、いいのかな」

「出かけたら、いつかは帰るものだろ」

「……そうかな」

「違うかな。帰る場所があるから、出かけるのかもな」

 特に何の意味も考えずに言った。けれど、それがタロウの表情を変えた。

「……そっか」

 タロウは目を伏せた。静かに微笑む。

「ごめん、鈴くん。やっぱり僕、帰るよ」

 そして、足取り軽く歩き出す。鈴成は、それを追いかけた。

「ああ。――って、お前、そっちは寮と反対……」

 鈴成はハッとする。

 記憶が確かなら、その方角は森川家へ行く路線がある。

 タロウにとって帰るとは、そういうことなのだ。

「そうだな。帰ろう」

 少し切ない気持ちに満たされながら、鈴成はタロウのあとを追った。


***


 電車に乗って、二人で景色を眺めて。

 目的地で降りて、無言で道を歩いて。

 同じ県とはいえ、寮から森川家までは、片道約二時間の道のりだ。

 いつの間にか、もう日が暮れかかっていた。夕焼けが、今だけ鋭く輝いている。

 あぜ道が真っ直ぐ続いていた。キンモクセイが、鼻孔をくすぐる。

 オレンジ色の世界は、黄昏時。

 かれ――遠くの彼が霞むとき。

「タロウ、大丈夫か」

 少しずつ、タロウの呼吸が荒くなっていく。決して走っているわけでも、急いでいるわけでもない。

 おそらく、人の姿を保つのが限界に近付いているのだろう。徐々に、本来の年齢の体力に近付いていく。

「……平気」

 脂汗をかきながら、タロウが笑う。

 この道をまっすぐ行って、突き当たりを右に曲がれば、森川の家が見えてくるはずだ。

「頑張れ。もうすぐだぞ」

「……うん」

 息も絶え絶えのタロウとは、会話もろくに続かない。

 それでも、不思議と気まずさはない。むしろ、この瞬間に愛おしさすら感じていた。ほんの数歩後ろを歩く気配に満たされていた。

 ぽつり、とタロウがささやく。

「鈴くん」

「ん?」

「……ありがとう。僕を拾ってくれて。僕を思い出してくれて」

 風が吹く。

 キンモクセイの花が、視界を舞う。

「君のおかげで、僕の一生は幸せだったよ」

 ふ、と鈴成は笑う。

「そうか」

 なら、ここまで来た甲斐があったな。

 そう言おうとした鈴成は、そこで絶句する。

「……タロウ?」

 隣に、タロウがいない。

 そして数歩後ろの道ばたには、雑種の犬が一匹地面に倒れていた。

 オレンジの花に、埋もれるように。

「…………」

 鈴成は、近寄って触れてみる。穏やかに目を閉じた姿。抱き上げれば、その身体はまだ温かい。けれど、その鼓動は確実に止まっていた。

 鈴成は、犬を抱え上げる。

「軽い……」

 その老犬の毛並みは薄汚れ、手足は骨の形がわかるほどがりがりにやせ細っていた。

 首元に顔を埋めれば、鼻孔に犬臭い匂いが広がる。懐かしい匂いだった。

 鈴成は再び、まっすぐ歩き始める。

 顔を上げると、首輪が外れかかっているのに気付く。黒い首輪――鈴成が唯一タロウにあげたものだ。

「俺にはこれくらいしかできないけど、許してくれよな」

 それを丁寧にまた、締め直す。

 鈴成は、歩く速度を変えない。早めもしない、遅めもしない。ただ、淡々と歩く。

 もうすぐこの道も終わりだ。

 あの角を曲がれば、そこにホームがある。

「タロウ」

 鈴成はつぶやいた。頭を優しく撫でてやる。

「着いたよ。おじいちゃんとおばあちゃんが待ってるぞ」

 鈴成は角を曲がる。

 記憶と変わることなく、その家はあった。森川の表札も、幼い頃泣いてしがみついた玄関の柱もそのままだ。

 けれど、今は泣かない。今度こそ、笑ってお前を送らなければ意味がない。

 目の奥がツンとなるのを懸命に堪えて、タロウに微笑みかけた。

「タロウ。お疲れ様」

 自分の知らない十年、タロウはいったいどう過ごしていたのだろう。

 どんな幸せを噛みしめてきたのだろう。

 森川夫婦に聞いてみたいと、今なら素直に思えていた。

 全部、タロウのおかげだ。

「――そして、お帰りなさい」

 鈴成がインターホンを押す。

 来訪者を告げるチャイムが鳴った。

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