あの子に続け

@Aya_Kotobano

あの子に続け

 こんな学生生活のまま終わっていくのだろうか。


 今までこの灰色の世界から抜け出そうとしても何もできなかった自分を恨む。梅雨の雨で蒸しかえっている満員の有楽町線に乗りながら僕はそんなことを考えていた。雨で濡れた傘が人に当たらないことに全神経を集中しながら間近に迫った誰かの後頭部を眺めてる。

 ここはさながら奴隷船だ。薄暗い箱の中で皆んな同じように絶望的な顔をして、同じような服を着て、限界まで自らの身体を押し込んでいる。電車はもうすぐどこかの駅に着くようでスピードを落としながら僕の体を左右に揺らし始めた。足元では雨で濡れた革靴が悲鳴をあげている。


 少し経ったあと僕たちを乗せていた鉄の塊はため息のような音を立てながらホームに停車した。ドアの開く音が聞こえ、斜め奥のサラリーマンが席を立つのが見えた。僕は少しでも姿勢を楽にするために身体を前に押し込む。すると僕の目の前にはおそらくさっき降りた人の物だろう、真っ黒な一本の傘が手すりに寂しく残っていた。まだドアは開いている。

 こういう状況になるとあの日の少女の事を思い出す。それは僕にとっての青春とまではいかない、でも青春の前の一呼吸のようなそんな出来事だった。



 あれは中学2年生の同じ梅雨の日のことだ。通学路にある大きな橋の上を僕は家へと急いでいた。 雨は少し前に上がったようで水たまりがその雨の強さを物語っている。前には他の中学の生徒だろうか、ジャージを着た同い年ぐらいの女の子、そしてうつむき顔のお爺さんが歩いていた。

 いつもと対して変わらない光景だ。そんな時だった。風が追い風に変わった、後ろで女性だろうか、誰だかわからない人の高ぶった声が聞こえ始める。何かが起きている、それはすぐにわかった。


「カラスだ!」


 誰かが興奮の混じった声でそう叫んでいた。視線を声の方向に向けると目下の川で真っ黒な物体が水音を立てている。着地にでも失敗したのだろうか、そこには今にも沈んでいまいそうなカラスがいた。遠くからでも必死に向こう岸に上がろうとしていのがわかった。だが雨の後の川は無残にもカラスを川へ引きずるように岸に上がるのを邪魔していた。 このままだと確実にあのカラスは死んでしまう、僕は直感的にそう思った。


 助けるべきだろうか。いや人ならまだしもカラスだし、しかも大勢が見ているし、っていうかどうやって川まで降りるんだ?


 頭の中でいろんな言葉が反響し僕の足の動きを止める。 そうしている間に小さな命は弱々しい鳴き声を上げながら真っ黒な水に流され橋の下へ引きずりこまれていく。橋の上にいる僕にはカラスの姿はもう見えずただ鳴き声だけが微かに聞こえる程度になってしまった 。


 まあいいか しょうがない。


 僕は自分に言い聞かせながら止まっていた身体を動かそうと足に力を入れる。その時だった、さっきまで前にいたジャージを着た女の子が僕の方へ走り出した。一瞬だったがその顔は恥ずかしそうで、でも何かを決心したような凛々しく美しい顔に見えた。


 僕が理解するより先に彼女は向かい風に抵抗するように髪がなびかせながら僕の横をすれ違っていった。走り去る後ろ姿を見ながら僕は理解した、彼女はカラスを救いに行ったのだ。人の目を気にしつつも、助かるかどうかもわからない、助ける方法すらわからない小さな命を彼女はこの空に取り戻すために走り出したのだ。 はっとして気がつくと彼女のなびく髪だけが橋の階段に吸い込まれて行くのが見えた。


 そこからどうなったかはわからない。なぜなら僕はそのあとなんだか怖くなってその場から走って逃げてしまったからだ。自分の顔が映った水溜りを踏んづけながら僕は走った。家に帰る途中ふと涙が出そうで空を見上げると僕を嘲笑うかのように綺麗な青空が広がっていた。



 あの後 カラスは助かったのだろうか。今となっても僕にはわからない。ただ一つ言えることはあの時、諦めず小さな命のために踏み出した彼女の一歩はどんなものよりも美しく、輝く光のように僕には見えたのだった。

 電車からは降りる人が全員降りたようで乗り込んでくる人達が入り始めていた。一呼吸置き僕は前にある傘を掴む、周りの人が睨んでくるのを横目に僕は外の世界に身体を向ける。今の僕は彼女に追いつけたのかな。そんな事を思いながらドアの前まで無理やり足を動かす。体制を立て直してから僕はホームに大きく一歩を踏み込んで走り出した。

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