最終話 僕らの終わらない日々

 次の日。清々しいほどの秋晴れだった。外へ出ると、冷たいが心地の良い空気が肌に触れた。こういう気候は好きだ。何かいいことが起こりそうで、好きだ。あくまでも感覚でしかないが。

 僕はいつもより上機嫌で十字路に――真雪と待ち合わせる十字路に続く道を進んだ。いつもはそこへ着いたらしばらく立ち止まって待つことになるのだが、つまり反対方向から来る真雪が僕と向かい合わせで歩いてくるなんてことがないのだが、今日はタイミングがぴったりだった。しかし、彼の方は僕のことを認識していなかった。昨日渡したメモリーエンディングノートを見ながら歩いていたから。よく見ると、彼の歩調の方が少し遅い。

 そんな風に歩いていると、また事故に遭うぞ。

 そうは思ったけれど、この時間は車なんて通らない。せいぜい自転車が一、二台通るくらいだ。その気配もないようだし、十字路に着いたら言ってやろう。見るのはあとでもいいだろう、と。あとで一緒に見よう、と。

 僕は十字路に着くまで、彼に声をかけるのは我慢した。

 今日はきっといいことがあるんだから、そう焦るな。

 数秒遅れて彼は到着した。僕の目の前で立ち止まって、ようやく僕の顔を見た。おはよう真雪、と言いかけたとき、彼は開いたままのノートを僕の顔の隣に並べた。

 そして言ったのだ。

「これはお前だったのか」

 分からなかったことが分かったように。

 疑問が晴れたように。

 写真の誰かと初めて会ったように――彼は言った。

 そして。

「みなみくも……なんて読むんだ?」

 そんなことも言った。

 僕はここでようやく理解した。本当なら彼がメモリーエンディングノートを歩き読みしている時点で気付くべきだったのだ。

 僕はやっぱり愚かだ。昨日までの真雪なら、頭がいいくせに、なんて言うだろう。

 頭いいくせに、気付くのが遅えんだよ。

 そんな風に言ってほしかった。

 ――僕についての記憶がなくなった今では・・・・・・・・・・・・・・・・・、叶わない。

 でも、こんな日がいつか来ることは、分かっていたのだ。美冬さんのも、後輩のも、咲良ちゃんのも失って、僕だけ失われないなんてそんな都合のいいことはありえない。

 こういうものは、ランダムでも平等に訪れるのだ。最後に残った僕だけ逃れるなんて、ないのだ。あくまでも最後まで残っただけ。

 結局は同じものが訪れる。

 真雪の隣で、誰よりも強く実感していたはずなのに、どこかで僕には関係ないと思っていた。最初の交通事故だって僕が第一発見者だし、復帰後の真雪のサポートは僕が率先してやっている。僕は誰よりも真雪の関係者だった。

「なぐもって読むんだよ。なぐもみなと……僕の名前だ」

 僕はたまたま・・・・最後だっただけだ。否、最後なんてない。彼の記憶は毎日失われるけれど、それと同じく毎日更新されていく。彼のこの記憶障害が一生続くものだとしたら、死ぬまで最後なんて訪れない。僕についての記憶がなくなるのは、終わりなき記憶喪失の一部。

「なぐも、みなと……か」

 だから、悲しむ必要なんてない。だから、メモリーエンディングノートがあるんじゃないか。今このとき、僕が目論んだような使われ方をしているじゃないか。これはむしろ喜ぶべきことではないか。

 しかし、涙が溢れてきた。拭いても拭いても溢れ出てくる。

 泣くな、僕。

 彼は悪くないんだから。彼を責めることはするな。

 身構えていなかった僕が悪いんだ――

「お前今日、放課後空いてるか?」

 僕の泣いている姿を気にする様子もなく、そんなことを言った。朝だというのに、放課後のことを聞いてきた。

「あ……空いてるけど」

「じゃあサッカーしようぜ。今日は部活オフだから、終わったらすぐ公園とかでやろうぜ」

 彼は三ページ目を開いて、僕に見せた。

「お前、元はサッカー部だったんだよな。あ、でも怪我して辞めたんだっけ」

「い、今は大丈夫だよ。完治して動けるから」

「じゃあ決定な。今日の放課後だぞ」

 彼はノートをようやく鞄に仕舞って、学校への道を歩き出した。

 今日は一人で行くのかな。そりゃあそうか。僕との記憶がないのだから、昨日までの習慣なんて分からないよな。

 一人で通学なんて何年ぶりだろう。高校への道は初めてだ。高校三年生にもなって初めてがあるとは思わなかった。そんな日もあっていいだろう。今、初めて彼が僕についての記憶を失くしたんだ。今日は初めての日。そう思って歩けばいいんだ。

 よし、じゃあ――

「何してるんだ、お前。学校行こうぜ」

 彼が振り返った。

 もうこうなれば笑うしかなかった。

 記憶が変わった程度で人が変わらないことも、忘れていたのか。

 僕は彼の――真雪のあとを追って、追いついた。

「僕たち、下の名前で呼び合おうよ」

 そんなことを言って、肩を並べた。

 真雪がどんな答えを出したのか――きっと想像に難くない。


END

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