第12話 僕の誓いと星降る夜

 日が三分の一程度昇ったところで、真雪は泣き疲れて眠ってしまった。こんな早い時間に学校にいるのは不自然なので、僕は真雪を背負って学校を出た。

 その途中で、ポケットに仕舞った携帯電話が鳴った。なんとか画面を見てみると、美冬さんの名前があった。

「もしもし、湊です」

「もしもし、美冬だけど。真雪と一緒でしょ?」

「あ、はい。すみません」

「いいの、いいの。一部始終は見てたから」

「え?」

「今、学校の前にいるんだよね」

 顔を上げてみると、車に乗った美冬さんがこちらに手を振っていた。真雪を背負って二人分の荷物を持って携帯電話を持っていたので、少し頭を下げてそっちに歩いた。ちょうど車の前に行くと、タクシーみたいにドアが開いた。

「待ってたよ、湊くん。ありがとう」

「いえ、僕は別に……。それよりも、どうしてここに?」

「こっちの方向に走っていく湊くんを見かけたの。それで追っかけて行ったら屋上に二人が見えたから。さあ、乗って。適当なところに連れてくから」

「はい」

 言われるがまま、車に乗った。僕は助手席に座り、真雪は後部座席に横になった。

 そのまま僕らは児童館に連れていかれた。真雪が寝泊まりしていたあの潰れた児童館だ。車に乗った時点でかなりひどかった僕の眠気は、目的地に到着した時点でピークに達していた。鞄を持ってふらふらと歩くのが限界で、建物に入った瞬間から僕の記憶は途切れていた。

 

 次の記憶は同日の正午に続く。どうやら七時間ほどたっぷり眠ったらしく、すっきりとした目覚めだった。真雪はすでに起きていて、美冬さんは朝ご飯(時間的には昼ご飯?)を調達して帰ってきたところだった。コンビニ袋を提げていたから、その辺で適当に買ってきてくれたのだろう。僕はありがたくそれをいただいた。

 それから、僕らは全ての荷物を片付けて児童館を出た。車に揺られ、僕は南雲家の前で下ろされた。美冬さんが気を回してくれたらしく、僕は河北家に一晩泊まったことになっているらしい。それを含めてお礼を言って、車を降りた。

 家はとても静かだった。ただいま、と言いながらリビングへ行くと、弟の一斗いちとがゲームをしていた。三つ年の離れた中学三年生で、勉強も運動も軽々とこなす天才肌の弟だ。ついでに頭の回転も速い。何度かボードゲームで戦ったことがあるが勝ったことはないし、買ったゲームは一週間以内にクリアしてしまう。

 僕より優れた憎い弟だが、僕の愛する弟だ。

 実は、誰よりも先に真雪のことを話している。彼なら何か知っているのではないかという淡い期待だったが、それはすでに砕かれている。俺は医者じゃねえよ、と言われて終わりだった。

「兄ちゃん、おかえり」

「ただいま。父さんと母さんは?」

「仕事。父さんは急に出張だって」

「そっか」

 僕は荷物を下ろしてソファに座った。

「つーか兄ちゃんがお泊りなんて珍しいな。真面目だけが取り柄だったのに、急にグレたくなったのか?」

「グレないよ。ちょっと問題が起こってさ」

「真雪さんになんかあった?」

 なんとも鋭い弟だ。

「でも解決した」

「それにしては、あんまりすっきりした顔じゃないな」

 一斗はようやくこっちを向いた。ゲームがひと段落したらしい。

 彼の言う通り、僕には新しい考え事があった。起床してからここに帰るまでに思いついたことがあって、それについて考えていた。インターネットで調べたりしたのだが、どうもしっくりくる答えが見つからない。

 僕は特に改まることもなく、一斗に尋ねた。

「ここから近いところで、星が綺麗に見える場所ってどこか知ってる?」

 一斗は言う。

「それくらい知ってるよ。そんなことも知らねえの?」


 一斗が言った場所は僕も知っている場所だった。そこへ行くのはそんなに時間はかからない。具体的には日の入りの三十分前に家を出れば綺麗に星が見える時間に到着できる。

 つまり、出発までに時間があった。五、六時間の空白だ。たくさんの時間があるようで、僕には少なすぎる時間であった。やりたいことがあるのだ。

 とりあえず迅速に私服に着替えて、勉強机に着席した。そして、机の端の方に積み上げてある教科書たちに挟まれたルーズリーフの束を引っ張り出した。教科書のタワーが一気に崩れた。さらに取り出すのは僕のアルバム。小学校の高学年から中学、高校のアルバム。

 僕は勉強机に着席して、ルーズリーフに向かった。

 さて。

 これから開始して終わるとは思えないが、やるだけやろう。思い立ったが吉日ともいうから、すぐにやろう。考えている時間なんてない。

 僕はのりと鉛筆を出した。

 さあ始めよう。

 僕が真雪の記憶になるためのことを。


 準備をして家を出たのは、午後六時三分だった。予定より遅めの出発だったが、特に急ぐこともなく駅に向かった。帰宅ラッシュのはじめなのか、僕とは逆方向に歩く人が多い気がした。一日の終わりに物事を始めるのは、なんとももったいない時間の使い方なのだろうが、僕の生活リズムはとっくに崩れている。僕からしてみれば、まだ正午なのだ。活動を開始して六時間しか経っていないのだ。

 駅に着くと、僕は真雪に電話した。

「もしもし、湊です。真雪、今から下り電車に乗って終点まで来てほしい。終点に着いたら電話して」

 それだけ言って、電話を切って、下り電車に乗った。

 僕の最寄り駅は副都心から隣の田舎町まで繋がっている路線の一駅で、もっと言うなら副都心よりの駅なので、田舎町の方の終点までは急行でも四十分かかる。

それでも僕は電車に揺られる。下り電車は少し混んでいたので、何度も他人とぶつかりながら電車に揺られた。いつの間にか太陽が完全に沈んで、いくつも並び立つビルディングの灯りが点き始めた。

揺れに揺れ。乗車率が五十パーセントを切ったあたりで終点に着いた。乗っていた人が全員降りて、改札へと向かう。下車に伴う処理を終えて、駅を出た。

驚くほどの田舎だった。駅前はバスロータリーになっていて、小さなデパートもあって、パチンコ屋さんもあって、一見栄えている風だが、その奥には深緑色の山々が並んでいた。副都心のビルディングが全て山になった感じだ。

真雪が来るまではまだ時間がある。それまでに準備を済ませておきたい。だから僕と真雪の到着時間に若干のずれを設けたのだ。僕はもう一度当たりを見渡して、まずは駅に併設されたコンビニに入った。軽食とお菓子、飲み物を二本買った。あとはレジャーシートがあればいいのだが、残念ながらコンビニには打っていなかった。コンビニエンスとは言っても、万屋よろずやではない。便利だが、僕が望むものは手に入らなかったということだ。

しかし、後から考えれば最初からデパートに向かえばよかったのだ。コンビニよりは商品を探すのに少々苦労するが、わざわざ駅前をうろうろしなくてもよかった……。そんなくだらない後悔をしているときではない。さっさとレジャーシートを手に入れなければならない。

デパートは本当に小さなデパートだった。人はいなくてガランとしている。僕はインフォメーションでアウトドア用品の売り場を教えてもらい、エスカレーターで二階まで上がって無事にレジャーシートを手に入れた。二人が座れるくらいの大きさでよかったのだが、僕の家族で宴会ができるくらいのものが安価で手に入った。ラッキーだった。

ちょうどデパートの出入り口に立ったとき、携帯電話が震えた。真雪からの電話だ。

「おう、湊。駅に着いたぜ」

 約束の連絡が来た。

「駅前のデパートにいるんだ、ちょっと待ってて」

 それだけ伝えて駅に急いだ。

 真雪は駅の出入り口の真ん中に立っていた。私服に着替えて立っていた。僕とは雰囲気が違い、僕よりも男の子っぽい。しかし、何をするかは伝えてなかったので何の荷物も持っていなかった。強いて言うならICカードを腰につけているくらいだ。

「おい、湊。急にここに来いとか、どうしたんだよ。いつもなら何日か前に時間と場所をしっかり教えて、予定まで組んでくれるのによ。お前らしくないなあ」

「そういうことは気にしないで。さあ、行くよ」

 僕は真雪の手を引く。

「おい、ちょ、待て」

 戸惑う声が聞こえるが、気にしない。僕はそのまま突き進む。目の前に広がる山々に向かって。


 歩くこと四十分。目的地が近づいてきた。道のりの半分以上は山道だったので、僕も真雪もいつの間にか無言で歩くようになっていた。真雪の手首を握る僕の手はびっしょりと汗ばんでいたし、真雪がときどき汗を拭いているのを横目で見た。どちらかというと寒い気候のその道だったが、到着する頃にはシャツを湿らせていた。

 目的地というのは、名前も標高も知らない山の頂上のことだ。一斗が山の名称を言っていたような気がするが、覚えていない。とりあえず場所だけ聞いて出てきてしまった。

「よし」

 僕は持っていたレジ袋からレジャーシートを出して、空がはっきり見えるところに敷いた。それからコンビニで買ったものを置いて、靴を脱いで、仰向けに寝そべった。

「真雪もほら」

「お、おう」

 下から見上げた真雪の顔は珍しく混乱していたけれど、彼は僕を真似て隣に寝そべった。

 真っ暗な空には無数の星があって、その中には月もある。真っ暗な世界から見上げた夜空は星が降っていた。プラネタリウムなんかでは見られない、自然の美しさ。遠い遠いところで輝く星々の光が、何万年もの月日を経て伝わっているなんて考えたら涙が流れそうだった。うまく言葉に表せないけれど、頑張って言うならば、美しい空だった。

「真雪、見てよ。あれが秋の大四辺形。左上がアンドロメダ座、右側がペガスス座。そのさらに右側に夏の大三角があるね。デネブ、ベガ、アルタイル。はくちょう座、こと座、わし座」

 指を差して言ってみる。頭よさげに言ってみる。

 すると、真雪が顔をこっちに向けた。

「まさか天体観測会ってわけじゃねえだろうな」

「天体観測会だよ。望遠鏡とか立派な用意はないけどね」

「なんでこんな急に?」

「真雪が見たいって言ってたから。まさか、もう忘れたの?」

 真雪は、いや、とまた夜空を見上げた。

「じゃあ、昨日、僕が言ったことも覚えてる?」

「『僕がお前の記憶になる』だったか」

「うん。それでさ、いいものを作ったんだ」

 僕は鞄から急場で作ったあのルーズリーフ。写真を貼って下に文章を書いたものを何十枚も重ねてリングで留めた。絵日記ならぬ写真日記だ。めくればめくるほど、思い出が出てくる。僕と真雪が重ねた、楽しい日々が。

「あげるよ」

「……これはなんだよ」

「名前はない。まだ未完成だし。僕と真雪が出会ってからのことを日記風にまとめてみたんだ。『僕がお前の記憶になる』って言っただろう。だから作ってみたんだ。真雪が記憶をなくしても思い出として残るように」

「は、ははは、はっはっは」

 真面目に話したつもりなのに、笑われた。

「なんだよ。一生懸命作ったのに」

「お前らしいなと思ったんだよ。こういうことを思いつくの、お前本当に頭いいな」

「そればっかりだね。僕にはそれしかないのかよ」

「そんなわけねえだろ。いきなりこういうところに連れてきてくれる大胆さと優しいところもある。俺はお前が思ってるより、お前のこと見てるんだぜ」

「そりゃ嬉しいね」

「でも、知らないことも多い。多分、その中には記憶から消えてるものもあるだろうけど、だったらもう一度知りたいと思う。昨日も言ったけど、俺にはお前しかいないんだよ。だから最後に残ったお前のことを――南雲湊を隅々まで知っておきたい。この記憶がなくなっても、お前の顔が浮かぶように」

「お……お前らしくないよ」

「らしくなくても言わせろよ。俺にもこんなことを言うことがあるって、お前に覚えておいてほしいんだよ」

 ……そうか。

 昨日のことも嘘ではないのだろうけど、本心百パーセントというわけではなかったわけか。

忘れたくない。

忘れてほしくない。

いや、昨日もそう言いたかっただけなのだ。ごちゃごちゃして、いろいろ話したけれど、結局それだけなのだ。

よく考えると、バカな彼はいくつものことを並べて考えられるわけがない。こういうと本当にバカにしている感じがするが、彼もそれなりに自覚している事実だ。嫌味でもない。だから、スポーツ一本な青春を送っていた。自殺するために考えた理由やメリットは後付け。

「……素直じゃないな」

 だけど、それも含めて河北真雪という男の子なのだ。

 小学校時代に話しかけられて。

 中学時代に同じ部活に入り。

 恋人を奪って――仲違いして。

 美冬さんという優しいお姉さんがいて。

 実子じっしを実子とも思わない生みの親がいて。

 殴られ蹴られ。

 でも、それを逃げないバカで。

 事故のせいで記憶が消えて、自殺まで考えるバカで。

 素直じゃない。

 それが河北真雪――僕の出会った最大の友人である。

「『全部僕が引き受ける』って、昨日言っただろう」

「ああ」

「人間関係の修復もできる限りやるつもりだ。でも、これは真雪のことだ。何もしなくていいっていうなら、僕はやらない。逆にやってほしいことは絶対にやる。僕は君の考えを尊重するよ。どうする? 今からやりたいこととか、ある?」

「ある」

「じゃあ教えてもらおうか」

「咲良って女と仲良くなりたい」

「どうして?」

「なんか、気になるんだよ」

 ははは、と僕は笑った。

 記憶を失くした程度じゃ、人は変わらない。

 変わらなくてよかった。僕が尽くそうとしている河北真雪が、僕のよく知る河北真雪でよかった。理由は後付けだが、僕にはそう思う確かな理由があった。

 僕が大好きな河北真雪は、あのとき僕をサッカー部に誘ってくれた河北真雪だ。

 そうでなかったら、ここまでのことをしたくない。

 僕は答える。

「分かった。最善を尽くすよ」


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