第11話 日が昇るまでの長い夜

 美冬さんは珍しくシリアスな顔をして言った。

「そうなんですか?」

「うん。今までこんなことなかったんだけど……」

「連絡はあるんですか?」

「一応はあるよ」

 美冬さんは携帯電話のディスプレイを見せた。日付は昨日、時刻は夜十時。

『今日も友達の家に泊まります。おやすみなさい。 河北真雪』

 普段の彼からは想像できない風な文面だった。よく考えれば当然だ。学校を休んでいた一週間で美冬さんについての記憶は消えている。真雪にとって彼女は姉ではなく、他人なのだ。

「今日も友達の家にいるんじゃないんですか? サッカー部の同輩とか」

「そうじゃなくて、三日も家に帰らないなんて、なんか心配なの。真雪、学校で何か言ってなかった?」

「いえ、何も。普通です」

「湊くんにも何も言ってないか……」

「よければ連絡しますけど」

「ううん、いいの。もうちょっと探してみる。また連絡して、もしかしたら直接会うことになるかもしれないけど」

「いいですよ。僕でもちょっと気にかけてみます」

「受験も近いし、いろいろあったけど、やっぱり家に帰って来てほしいんだ。記憶がなくても私の大切な弟だから。あんな家だけど、帰るところはあの家しかないの」

「はい」

 僕らはそんな会話をして、解散した。美冬さんが先に飲み物を飲み終わっていたので、彼女が店を出るという形の解散だった。

 さて、僕は十分も遅れて飲み物を飲み終えた。代金はすでに美冬さんが払ってくれていたので、そのまま店を出ることができた。苦みをまだ舌に残したまま、僕は駅とは反対側に歩いて家に向かった。その途中で電話をしようと、携帯電話を出したそのとき。

 ちょうど着信があった。

 画面には真雪の名前があった。もちろんすぐに出た。家にも電話しなければいけないが、今は真雪が優先だ。美冬さんに頼まれているし、僕には責任がある――真雪の盾になるという責任が。

「もしもし、湊です。真雪、家に帰ってないんでしょ。美冬さんから聞いたよ。帰らなきゃダメだよ。今どこにいるの?」

 真雪の返事を待たず、そんなことを言った。

「さあ、どこだと思う?」

 返事はすぐ返ってきた。しかし、僕のテンションとは明らかに違った低い声の答えだった。それが正常でないことは、想像に難くなかった。

「どこにいるんだ。僕が今すぐ行くから、答えてくれ」

「お前が、か。俺にはお前にしかいないんだよ」

「何を言っているんだ。いいから答えてくれ」

「しょうがないな。ヒントをあげるぜ。俺はこの数日間、空き家になった児童館に身を置いていた。荷物は全てそこにある。行けば、手掛かりくらいあるんじゃないか」

「なんでそんなまどろっこしいことを……真雪!」

「じゃあ、あとでな」

 電話が切れてピーピーとうるさい音が鳴った。

 かけ直そうとしたが、着信履歴を見た時点でやめた。

自分で探そう。

ヒントまではくれたんだ。

――真雪は僕に会いたがっている。

僕は走った。携帯電話を仕舞う暇さえ惜しんで走った。児童館は河北家へ続く道をさらに奥まで行ったところにある。僕らが中学校を卒業すると同時に廃業してしまった児童館。昔はたまに遊びに行ったりした。

もしかしたら、そこで真雪と会っているのかもしれない。

到着するや否や、息を整える間もなく突入した。

「真雪!」

 いないことは分かっているのに、僕は叫んだ。声は空間にむなしく響いて、それだけで真雪の不在を確認した。

 奥まで行くと広い部屋があって、そこに真雪の荷物――学校の鞄が置いてあった。ここに手掛かりがあるかもしれない。僕はそれを漁った。鞄を逆さにして、ものを全部出して、それを漁った。

 手掛かり。

 手掛かり。

 手掛かり――真雪がどこにいるか、教えてくれ。

 月明りも入らない真っ暗な部屋に座り込んで、血眼になって探した。

 真雪に会うための手掛かりを。

 手の感触だけで僕はようやくそれらしきものを探し当てた。紙切れだ。それを持って外に出て、月明りに照らしてみる。

 それは手紙だった。丁寧にも僕の名前も添えてある手紙だった。

『学校の屋上で会おう。湊へ』

 それは手掛かりともヒントとも言えない、むしろ解答がそこに書かれていた。

 学校。

 学校の屋上。

 そこに真雪がいる。

 僕はまた走った。右手に手紙、左手に携帯電話を握って走った。いつもは歩く十五分の道のりを疾走した。息を切らして、肩で風を切って、フォームなんて気にしないで、早く着くことだけを考えて、走った。

 五分で着いた。

 息を整えている暇はない。校門をよじ登って、飛び降りて、また走った。校舎の扉は閉まっていたから、どこかの教室の窓を割って侵入した。

 校舎の屋上――三階建ての校舎のさらに上。学校で一番高いところ。

 そこに真雪がいる。

 校舎にはエレベーターがないから僕は階段を上った。何度も何度もこけそうになり、こけながら、やっと屋上まで上ることができた。

「真雪!」

 屋上へと続く扉を開けた。

 真雪はいた。

 屋上の端っこに。

「ようやく来たな、湊」

 風に吹かれたらすぐに飛んで行ってしまいそうな顔をして、風に吹かれたらすぐに飛んで行ってしまいそうな感じで立っていた。

 僕はそれ以上近づけなかった。近づいたら、そこで散ってしまいそうだったから。

 その場で足を止めたまま、僕は真雪と向き合った。

「気持ちいいなあ、夜の風は」

「そうだね」

「夜って意外と静かじゃないんだな。車もバイクも走ってる」

「うん」

「それに星が見えないんだな。こんなに真っ暗なのに。ああいうのって田舎に行かないと見えないんだな」

「そうだね」

「一度は見てみたかったな」

「そんなこと言うなよ。死ぬわけでもあるまいし――」

 どうしてここまで気づかない。

 屋上で。

 端に立って。

 あんな顔をしていながら。

 どうして気付けなかった。

 ――こいつが死のうとしていることに。

「やめてよ、真雪。飛び降りるなんて」

「お前、相当混乱してるな。頭いいくせに、そんなことに今更気付くなんて」

「死んじゃうから、やめてよ」

「分かってるよ。死にたいんだから」

「なんで? 今までそんな素振りなかったじゃないか」

「お前の前にいる俺が全てだと思うなよ。一緒にいる時間なんて毎日半日もないんだぜ。お前は俺の半分も知らない」

「お前らしくもないこと、ここで言うなよ」

「俺らしく、か。きっとそれさえもいつかは忘れていく・・・・・・・・・んだろうな」

 その言葉を聞いて、僕は驚いて、さらに混乱した。

 しかし夜風に当たって少しは冷静になってきた僕は、少しまともなことを返すことができた。

「――気付いていたの?」

「そりゃ気付くぜ。俺のことは、俺が一番よく分かってる。俺の記憶の辻褄つじつまが合わないことくらい、気付けるよ」

 そうか。確かにそうだ。僕の記憶はあるのに、僕と出会った記憶、つまりはサッカー部で出会った記憶がない。僕と仲違いした記憶はあるけど、原因となった女の子の記憶がない。僕に助けを求めた記憶はあるけど、どうしてそうなったかの記憶がない。

 その辺の辻褄が合わなくて、記憶の綻びに気付いた。

「俺の記憶はきっと毎日消えている。リセットじゃなくて、セーブできてたものがだんだん消えていく。お前は知ってたんだろう。あの美冬とかいう俺の姉とかから、聞いたんだろ」

「うん、聞いた」

「知ってるのに秘密にするなんてひでえやつだな。俺たち、友達だったんじゃないのかよ」

「友達だよ。だから言えなかったんだ。お前が一番傷つくと思ったから。美冬さんも咲良ちゃんもみんな忘れちゃうって知ったら、傷つくと思ったから」

「お前らしい優しさだな。でも、考えろよ。記憶がなくなったら、そいつのこと知らねえんだから、俺は傷つかねえよ。傷つくのは――お前だよ、湊」

 僕が、傷つく?

「そんなキョトンすんなよ。俺みたいなバカでも分かるんだ、お前に分からないわけないだろ。簡単な話だよ。その美冬とか咲良とかいうやつらと一緒だ。俺の中の記憶がなくなったら、そしたらお前、傷つくだろ。お前は覚えてるのに、俺は覚えていない。一つの出来事じゃなくて、どんな細かいことも全て、綺麗さっぱり忘れてるんだよ。お前の顔を見たって思い出せないんだよ。俺にとってお前は知らない人になる。そしたらお前、傷つくだろ」

 ――そこであのときを思い出した。狂った夫婦から逃げ出した、あのとき。

『お前、絶対引くから。俺の体なんか見たら、お前が傷つくから』

 あのときだって、こいつは僕のことを気にしていた。いつもはそんな優しさ、垣間見せたりすらしないのに。

 ――なんでこんなときには、いつも優しいんだよ。

「僕は知ってるから、二人ほどは傷つかないよ」

「傷ついてんじゃねえか」

「でも、僕が傷つくからって君が死ぬことないだろう。そんなの、放っておけば君は僕を知らないわけだから、記憶がなくなったあとの君にとっては知ったことじゃないだろう」

「お前の場合は……今の俺にとってのお前の場合は、傷つくのはお前だけじゃないんだよ――俺も、いや、俺は傷ついてる」

 傷つくんじゃなくて、傷ついている?

 これからのことじゃなくて、現在進行形だ。

 その理由を考える暇も与えず、真雪は続けた。

「俺はお前を忘れたくない。だから・・・俺は死ぬんだよ。お前を忘れないために」

 俺にしてはいい考えだろ、と言った。

「死ねばこの記憶消失障害は消える。つまり、今のまま死ねばお前の記憶を失わずに済む。今の俺にとっては知り合いがお前しかいないんだよ。お前の記憶がなくなったら、俺は一人ぼっちなんだ」

「だとしても、記憶消失が始まってからの記憶は蓄積されているわけだろう。だったら、知り合いの一人くらいは――」

「そんなの、作る余裕なかったんだよ」

 真雪は少し怒る風に言った。

「考えろよ、そのよくできた頭で。俺の知り合いはお前しかいないんだぜ。つまりそれは、どこへ行っても知らない人しかいないってことだろ。学校にも、道端にも、家にも・・・、俺は知ってる人がいないんだよ。それってどういうことか分かるか? 分かるよな。分かってくれるよな」

 そんな圧力をかけるみたいに、圧迫面接みたいに迫らないでほしい。

 分かるから。

 お前が言いたいことはよく分かる。

 つまり、それは――

「どこへ行っても休まらないってことだろう」

「そうそう。言い換えれば、疲れるんだ。ずっとこんな調子で過ごすのって、いつも周りに気を配りながら生きるのって、結構辛いんだぜ。死ぬほどな。それに七日間も耐えてた」

「七日間?」

「俺が自分の障害に気付いてから七日間だ。いや、もうすぐで八日目なのか? まあ、どうでもいいや。事故から三日目、俺は自分の何かがおかしいと思った。この時点で記憶とか思い出とか、そういう曖昧なものだってことは分かっていた。むしろ、だから周りが気付かなかった。俺は試すことにした。無い知恵絞ってみたんだ。思いつく限り、記憶にあることをノートに書いた。ざっと二十、三十くらいかな。寝る時間で粘って、眠った。次の日、起きてみると『姉、美冬』という知らない名前があった。それでなんとなく分かった。記憶がなくなってることに」

 つまり、僕が症状を知る前に、彼は自分の身に起こっていることを発見していた。

「だったら、知り合いに迷惑かけないような対策が、少しはできたんじゃないか?」

「急に冷静になるなよ。責められてる気分になるぜ。まあ、今考えれば、そっちが頭のいいやり方だった。けど、俺は必死だった。近々なくなることの分かってる人との繋がりを自分で壊したくなかった」

 嫌われないために必死だった、と続けた。

「嫌われないために一つ一つの言動に気を付けた。俺はバカだから、うっかり口を滑らせないように頑張った。もちろんお前にも。めちゃくちゃ気を遣った。一生分遣った。一昨昨日さきおとといだったかな、起きたら知らない人たちが靴を履いて出ていくのが見えた。美冬って人から聞いたら、親だって言われた。俺は家にも知り合いがいなくなったんだ。いつの間にか、安らぐ場所さえなくなって、俺は家を出た」

 それであの児童館をねぐらにしていた。

 真雪はげっそりとした顔で微笑みながら、屋上の外側に向かって大きく手を広げた。風を感じるわけではなく。鳥のように。今すぐ飛び立てるように。

「メリットもあるんだぜ」

「そんなものないよ」

「おいおい、お前。今日はどうも頭の回転が悪いな。考えろよ。俺だって生半可な気持ちでここに立ってるわけじゃないんだ。出来の悪いおつむで死んだ先のことくらい、考えた」

「……じゃあ、教えろ」

「考えろって言ってんのにな。まあいいや。教えてやるよ、特別に。俺が死んだメリットはいくつかある。例えば、親と姉は俺の記憶障害について心配する必要がなくなる。まあ、あの親たちは俺のことなんて気にしている感じはないけれど、姉は、あの美冬って女はきっと楽になる。例の二つ目は俺の家族以外の知り合いを傷つけることがなくなる。あの咲良って女はきっと俺とめちゃくちゃ近い関係だったんだろ。だから頬を叩いて出て行った。だから親友のお前も叩かれた」

「見てたの」

「なかなか胸に来るものがあったな。間接的にお前まで傷つけた。きっとこれからたくさんの人を傷つける。出会った人を全員忘れていくんだから。つまり、お前も。最後の例は、お前だよ。今となってはこれが一番の理由だ」

 真雪は広げていた手を下した。そして、僕の目を真っ直ぐ見た。

「お前が楽になるだろ」


 無音にならないはずの世界が、しばらく静かになったような気がした。

 風も。車も。虫が鳴くのも。

 全てが動くことを躊躇ったように。

 音を出すことさえ自粛じしゅくしたように。

 僕にはどんな音も聞こえなかった。

 ――真雪の言葉を除いては。

 しばらく静止したまま、その言葉を飲み込むのにとても時間がかかった。そんなことを口にすれば、また、俺より頭いいくせに、なんて言われそうな感じだった。

 お前が楽になるだろ――だと?

 また僕のことを気にしやがって。

 君はどこまで――

「――バカなんだよ」

 ようやく出た言葉は、涙を引き出す言葉だった。頬に生暖かいしずくが伝って、垂れそうになった鼻水を吸った。

「は――ははは。お前それ、今更だろ」

 暗闇の中でも、そう言う彼の目が笑っていないのを、僕は見ていた。

 お前がそんな風に笑うなよ。愛想笑いなんて、似合わない。どこで覚えたんだよ。僕の知らないところで。

「ああ、そうだね。僕は君がバカだって、ずっと前から知ってるよ」

「だったらもう構うなよ。死にたい理由も死んだ後のメリットも、バカなりに考えたんだぜ」

「ああ、頑張って考えた。でも、君はやっぱりバカだ」

「は?」

「いや、僕もかな。こんなセリフがすぐに出てこないなんて。本当はずっと思っていたのに。これこそ今更だよ」

 僕は改めて向き直す。そして笑う。両目から涙を垂らしながら。また明日と言うように。


「僕はどうなるの?」


 真雪がどんな顔をしたのか、僕には分からなかった。涙で景色が滲ん《にじ》でいたからだ。

 しかし、僕は続ける。

「君がいなくなったら、僕は誰と過ごしていけばいいんだよ」

「そ――そんなの、あの咲良とかいう女とかと付き合えばいいだろ。美冬とかいう女と仲良くやればいいんじゃないか」

 真雪は笑った。あの上っ面な笑顔で。

「笑うな!」

「――――――っ!」

「お前がそんな顔で笑うなよ。僕にそんな顔をするな。なんだよ、お前。らしくないことしやがって。もう、お別れみたいじゃないか。本当にやめろよ」

「お前――」

「僕にはお前しかいない。だから死ぬな。お前が記憶をなくして辛い思いをしているのを間近で見ていたわけだけど、全然気付けなかった。どんな思いでここに来ているかなんて全然知らなかった。お前が悩んでるのに、自分のことを気にするなんて最悪だ――でも、僕はお前に死んでほしくない。だから言うよ。どれだけありきたりな言葉でも、お前が思いとどまってくれるなら叫ぶよ」

 僕は大きく息を吸い込む。冷たい空気が肺のみならず体中にみなぎって、全身で風を浴びて、感じて、真雪を見つめる。

 僕は歩む。風を切って歩む。そこに佇む真雪バカに向かって。

「お、おい、お前――」

「いいから」

 僕は真雪を抱きしめる。これでもかと力を入れて抱きしめる。

 離さない。

 離れない。

「――記憶がなくなっても、僕が忘れない。僕がお前の記憶になるから。悩むな。らしくないことするな。そういうのは僕が請け負う。楽に過ごせる余裕は僕が作る。周囲への配慮は僕がする。全部辛くて死ぬのは僕がする。全部僕が引き受ける。だから――」

 もう一度息を吸う。今度は優しく吸って、吐き出した。

「――真雪はいつも通りに生きてよ」

 僕の耳元ですすり泣く声が聞こえた。そして強く体を抱きしめた。僕につかまるように、強く抱きしめた。ときどき鼻をすすって、また泣いた。

 冷たい風が僕らを包む。鳥肌も立つような風だけど、僕らはとても暖かかった。

「ありがとう、湊。お前が友達で本当に良かった」

 まだ『らしくないこと』を言っている。さっきあんなに怒鳴ったのに、それが妙に嬉しかった。

 東の空が紺から藍色に、さらに水色に変わってきた。

 日が昇る。

 あ、そうだ。

 真雪を抱きしめたまま、急に冷静になった。そして気付く。

 一晩、ここにいたことに。

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